婚約破棄された傷物令嬢を溺愛する編集者は、実は隣国の王子でした。
こつ、と窓が鳴った。
月に一度の、私の夜の合図だ。
「せんせー、原稿できてます? あと、差し入れの焼き菓子っす」
窓枠に頬杖をついて、隣国の編集者様はへらりと笑う。夜気に冷えた金の目が、ランプの灯りでちらちら光る。
「編集者が窓から来るのは、あなたの国の流儀ですか」
「玄関から来たら、先生の家の人がうるさいでしょ」
「否定できないのが腹立たしいですね」
私は原稿の束を差し出す。ノアはそれを、まるで壊れ物みたいに両手で受け取った。チャラチャラした男のくせに、原稿の扱いだけは、いつも妙に恭しい。
私の夜は、月に一度だけ、少し騒がしい。
*
私、セシリア・アルデンの右頬には、大きな傷がある。
十二年前——七歳の、祭りの夜だった。はぐれた乳母を探して迷い込んだ路地裏で、子供がひとり、大人の男たちに囲まれていた。月も届かない暗がりで、刃物が光った。
考えるより先に、身体が動いていた。
覆いかぶさった背中越しに、頬が熱くなったのを覚えている。悲鳴と怒号、駆けつける衛兵の足音。男たちは逃げ、その子供も、黒ずくめの大人たちに抱えられるようにして、人波の向こうへ消えた。
名前も知らない。顔も、暗くてよく見えなかった。
覚えているのは——金色の目が、泣きそうにこちらを見ていたことだけ。
金色の目は、西の大国の血筋にはよくある色なのだと、後になって知った。だから街で金の目を見かけるたびに胸が騒ぐのは、とうの昔にやめている。
傷は、残った。
医者は「一生消えないでしょう」と言い、母は泣き、父は「なんという恥だ」と言った。
以来、私の呼び名は「傷物令嬢」だ。
社交の場に出れば扇の陰で嗤われ、父からは「顔の恥を晒すな」と言われながら、家の帳簿仕事だけは山ほど回ってくる。家格と持参金の都合で決まった婚約者——セドリック伯爵は、夜会のたびに私へこう言う。
「頼むから、あまり私の隣に立たないでくれ」
それでも。
私はあの夜を、一度も後悔したことがない。
あの子が無事だったなら、それでいい。金色の目が、どこかで今も生きているなら。
……ただ、眠れない夜は増えた。
だから書き始めたのだ。傷物と呼ばれた令嬢が、それでも顔を上げて生きていく物語を。誰に見せるつもりもなかった。四年前、下町の書店で原稿の切れ端を落とし、拾った男が勝手に読んで、勝手に泣いて、勝手に「続きをください」と月一で通ってくるようになるまでは。
それが、ノアだ。
隣国の出版社の編集者を名乗る、チャラくて、軽くて、口説き文句が挨拶みたいな男。私の物語は彼の手で国境を越え、向こうで本になっているらしい。
著者名は「セレネ」。本名を出せない私のために、ノアが置いていった筆名だ。
*
「——で、ここ。この幕切れ、ずるいなあ。三回読んで三回唸った」
月に一度の夜は、だいたいこんな調子で進む。
ノアは焼き菓子を齧りながら原稿をめくり、感想を言う。その感想が、悔しいことに的確なのだ。褒めるところは具体的に褒め、切るところは容赦なく切る。本の話をするときだけ、この男は早口になって、目の色が変わる。
「先生さぁ、また徹夜したでしょ。目の下すごいよ」
「原稿の話をしてください」
「これも原稿の話。倒れられたら次が読めない。……ったく、そんなんじゃ嫁の貰い手ないっすよー。なんすかこの汚部屋は。風呂だって毎日入らなきゃ」
「結構です。婚約者もいますが、私のことなど見てもいない。家同士の結婚なだけです。私には……本さえあればいい」
「ま、俺ならいつでも貰いますけどね」
「はいはい」
これも毎月の定型文だ。チャラい男の社交辞令の口癖。真に受ける方がどうかしている。
ちなみにこの男、私の無愛想も夜更かしも辛口の感想返しも遠慮なくからかうくせに——傷のことだけは、四年間で一度も、冗談にしたことがない。
「そういえば、本の売れ行きはどうなんですか」
「んー? けっこう売れてるよ。……けっこう、ね」
目を逸らして言うから、きっと大したことないのだろう。それでいい。書かせてもらえて、読んでくれる人がひとりでもいるなら、それで。
帰り際、ノアは窓枠に手をかけて、いつもきっかり一歩分の距離で止まる。
「んじゃ、また来月。次の原稿、楽しみにしてるよ、先生」
一歩分。それがこの男の、四年間変わらない距離だった。
*
その夜会のことは、あまり思い出したくない。
仮にも私の婚約者であるセドリック伯爵は終始ミア様——最近評判の、男爵家の可憐なご令嬢——と踊っていて、私は壁際で、扇の陰の囁きを数えていた。
「あの傷でよく人前に出られること」
「お可哀想なのは伯爵様の方よ」
数えるのは、とうに慣れた。慣れたはず、だった。
帰宅した夜、窓辺に来たノアへいつものように原稿を渡しながら、口が勝手に滑った。
「いいんです、私は。……こんな傷じゃ、どうせ……誰も」
言ってから、しまった、と思った。
軽口が、止まっていた。
ノアは原稿を置いた。それから、ゆっくり手を伸ばして——頬の傷に、指先で、そっと触れた。
壊れ物に触るみたいに。原稿に触るときの、あの手つきで。
「そんなことない」
初めて見る顔だった。チャラさの一枚下から出てきた、真面目な、静かな目。金色の目が、まっすぐ私を見ていた。
……どこかで、見た気がする。ずっと昔、どこかで——
「——なぁんてね。しんみりさせてどうすんの、俺。さ、原稿原稿」
三拍で、いつものノアに戻った。へらへら笑って原稿をめくって、焼き菓子の礼を言って。
戻ってくれたのに、私の心臓のほうが、いつまでも戻らなかった。
その夜、彼は窓枠から振り返って、いつもと同じ一歩分の距離で、いつもと少し違うことを言った。
「卒業パーティ、三日後だっけ」
「……ええ。一応、婚約者ですから。壁の花……にすらなれない傷物ですが」
「そ。——先生。もし、全部捨てたくなったら言って」
「?」
「先生ごと全部俺がもらいにくるから」
言うだけ言って、返事も聞かずに、夜の中へ消えた。
変な人。
変な人だと思いながら、私は次の原稿の一行目を、いつもより少しだけ軽い指で書き始めた。
◆
卒業パーティの会場は、シャンデリアの光で真昼のようだった。
私は予定通り、壁の花だった。あとは時間が過ぎるのを待つだけ——のはずだった。
楽団の音が、途切れた。
「諸君に、伝えたいことがある」
広間の中央で、セドリック伯爵が声を張った。その腕には、薄紅のドレスのミア様が、遠慮がちに——けれどしっかりと、絡んでいた。
「私は本日をもって、セシリア・アルデンとの婚約を破棄する」
ざわめきが、さざ波のように広がって、それから一斉に私を向いた。
「私の隣に立つには、相応しい姿というものがある。……傷ついた醜女を妻にはできない」
ああ、と思った。
破棄されたことは、実のところ、そんなに痛くなかった。あの方に愛された記憶は、もともとひとつもない。
痛かったのは——会場じゅうの視線が、遠慮なく、私の右頬に集まったことだ。
公然と醜女と呼ばれたこと。
惨めであると思われること。
ひとりぼっちであること。
「まあ……やっぱり、あの傷ではねえ」
「伯爵もようやく重荷を下ろされて」
扇の陰の囁きが、今夜は隠れもしない。
俯きかけて、やめた。俯いたら、この傷が恥だと認めることになる。それだけは、しない。十二年、しなかった。
確かに醜い。でもこの傷を恥だと思ったことはない。
もう一度過去に戻っても、私はきっとあの子を助けてこの傷を負う。
だから。
「セシリア」
人垣を割って出てきたのは、父だった。真っ赤な顔で、しかしどこか安堵したように。
「おまえという奴は、最後まで家の面汚しだ。——これで恥がようやく片付く。今夜のうちに、荷物をまとめて出ていきなさい」
「ど、どうして……」
「婚約を破棄された娘など家の端だ。毎日こそこそと部屋でなにをしているか知らんがな」
公開の勘当だった。会場が、また笑った。
私は唇噛みしめて、しかし父に頭を下げ、伯爵に淑女の礼をして、まっすぐ歩いて会場を出た。
背筋だけは、伸ばしたままで。
だが、涙がこぼれていた。泣くとは思わなかった。
俯かない。俯かないと決めたのに、視界だけが勝手に滲んでいく。
早く、ここを出よう。誰にも見られないうちに——。
そのときだった。
「——先生は泣く方じゃなくて泣かせるほうでしょ」
私を抱きしめる誰か。
でも声だけでわかる。この声はノアだ。
あのチャラくて奔放な編集者。
場違いなほど軽い声が、静まり返った会場に響いた。
私は顔を上げる。
いつもの旅装じゃない。夜色の正装に、見たこともない勲章。だけどへらりとした笑い方だけは、窓辺のままだった。
彼はまっすぐ、会場の真ん中を歩いてくる。衛兵が誰何しようとして——彼の後ろに続く一団を見て、固まった。黒い礼服の従者たち。掲げられた旗印。双頭の鷲。
「グランディア……?」
「なぜ、大国の使いがこんな夜会に——」
ざわめきの中、ノアは私の前まで来て、止まった。
いつもの、一歩分の距離で。
「もういいよね、先生」
泣き顔を、金色の目が覗き込む。
「全部俺がもらっちゃうから」
「ノア……? どうして、ここに」
「お迎えっす。……ああ、そうだ。まず名乗らないと」
彼は振り返り、会場に向かって、芝居がかった一礼をした。
「グランディア王国第二王子、ノア・グランディア。以後お見知りおきを。あぁ、ノアは本名っすよ、先生。隠してたのは、家名だけ」
会場が、爆発するようにどよめいた。
第二王子。大陸最大の国の。我が国の10倍の国力を持つと言われるあの超大国。
このチャラい編集者が、その第二王子!?
「だ、第二王子殿下……!? な、なぜそのような御方が、このような」
真っ先に揉み手で駆け寄ったのは、父だった。ノアは笑顔のまま、すっと目を細めた。
「用があるのは、あんたが今『家の恥』って呼んだ人にだけなんで」
「は……?」
「セシリア・アルデン嬢。——我が国で、今いちばん愛されている作家。筆名、セレネ」
え、と声を出したのは、私だったかもしれない。
「国王も読んでる。王妃も読んでる。街の子供も、宿屋の主人も、みんな先生の本で泣いてる。俺の国で、あんたの本を知らない人間はいない」
「……けっこう売れてる、って」
「言ったね。嘘。……ごめん。ほんとは『けっこう』どころじゃなかった。でも仕方ないでしょ。売れっ子先生より、俺だけの先生がよかったんだから」
会場の視線の意味が、音を立てて変わっていくのがわかった。嘲笑が、困惑に。困惑が、畏怖に。
「セ、セレネ……? あの、セレネですって……?」
「わたくし、読みましたわ……私、大ファンですの」
ノアはくるりと、セドリック伯爵へ向き直った。笑顔のまま。目だけが、少しも笑っていなかった。
「で。そこの伯爵サマ。さっき彼女のこと、なんて言いました?」
「ひっ……い、いや、私は、その」
「醜女、って言ったんすよね。我が国民が敬愛してやまない先生を、満座の前で」
一歩。ノアが伯爵に近づく。それだけで、伯爵は二歩下がった。
そしてノアは私を抱きよせた。思わず顔が赤くなる。
「そしてなにより、俺が大好きな先生を醜女って言ったか、あんた」
「し、失礼いたしました!!!!」
セドリック伯爵は、額を床に擦りつけるように土下座した。
グランディアの第二王子。伯爵といえど、不快にさせたなら絞首刑に処せるほどの権力者。
あのプライドの高いセドリック伯爵が、媚びるように笑顔を向けて土下座する。
「どうする? 先生」
「そうですね。復讐です」
「ひっ!?」
「でも私は小説家。復讐するのは、物語の中だけで十分です。あなたのような憎らしい相手、良いキャラクターになってくれそうです」
「あはは! さすが先生! そりゃ楽しみだな!」
高笑いするノア、しかしいまだに信じられない。実は嘘なんじゃ。
すると、頭を下げるノア。
「……では失礼する」
最上級に丁寧で、最上級に冷たいお辞儀だった。
それから彼は私に向き直って、手を差し出した。いつもの一歩分の距離を——初めて、自分から踏み越えて。
「先生。荷物は?」
「……あ、ありません」
「大丈夫。先生にはその手だけで、何百万人と感動させるその手さえあればいい」
差し出された手を、私は——涙も拭かないまま、取った。
「連れて行ってください。……私、もっと書きたい!」
「はい、喜んで」
ノアは私の手を引いて、呆然とする会場を——父を、伯爵を、扇の陰の囁きたちを——振り返りもせずに、歩き出した。
扉を出る間際、彼は思い出したように立ち止まって、肩越しに言った。
「あ、そうだ。近々、うちの使節団が来ます。『王室愛読作家に対する長年の名誉毀損について』。——皆さま、お楽しみに」
*
迎えの馬車は、王家の紋章を隠しもしていなかった。
窓の外を、見慣れた街が流れていく。もう、戻らない街だ。
「……あの。聞きたいことが、山ほどあるのですが」
「でしょうね。どれから行きます?」
「どうして……編集者のふりまでして、四年も、私なんかに」
ノアはしばらく黙った。それから、窓の外を見たまま、静かに言った。
「先生。——もうひとつだけ、白状することがある」
金色の目が、私を見た。
「十二年前。この国の、祭りの夜。路地裏で男たちに囲まれて死にかけてた、馬鹿な子供がいたでしょ」
心臓が、止まった。
「……なん、で」
「知らない女の子が、いきなり覆いかぶさってきてさ。びっくりした。自分より小さいくせに、全然、退かないの」
月明かりの車内で、金色の目が——あの夜の目と、重なった。
「どう? 結構好い男に成長したでしょ?」
「主人公にするには、少し軽薄ですね」
「まじか……」
「でも、そうですね。主人公とヒロインにはなれないかもしれませんが。脇役同士のカップリングとしては悪くないかもしれません」
「それでいこう!」
その返事は編集者としての返事なのか。
それ以上は聞かないでおこう。今はただ書きたい物語が溢れてくるのだから。
いかがでしたでしょうか。
面白かった! と思っていただければ、よければ評価とブクマを頂けると幸いです。
また次作へを書きました! どうぞよろしくお願い致します。
「君の代わりはいくらでもいる」と言った夫が、今さら頭を下げに来ましたが、私は公爵様のものです
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