夏のリンゴと春サクラ
① 夏の日
春の桜の振り散る日、俺は生まれ変わった。俺は皆に愛され充たされていた。そんな俺に特に好意を向けてくれたのは長男のメガネである。メガネは暇な時間があれば常に俺を構おうとしてくるお節介な奴だ。お前は暇でも俺は忙しいんだよ。まったく、過剰なスキンシップはお断りだよ。実のことを言うと、俺自身メガネのスキンシップは満更でもない。満更でもないが、無抵抗で受け入れると調子に乗るから嬉しいなどとは口が裂けても言うまい。この気持ちは墓場まで持っていってやる。ここまでの俺の態度でわかると思うが、俺は自分で言うのもなんだが少し、本当に少しだけ気難しい性格だと自覚している。この性格で生きるのは正直損することが多い。だがこの性格あっての俺である。だから、俺はこの性格を後悔することはないし、治すつもりもない。まあ、治せないと言う方が正しいかも知れないが……。そんな生活も悪くないと思っていた矢先に俺に不幸が訪れた。
とある秋の日あいつが現れた。あいつとは次女のサクラである。あいつは可愛い顔して人当たりも良く非の打ちどころがなかった。今長女ではないのか?と思ったかも知れないだが、それは間違いである。ややこしいが俺はこんな口調だが正真正銘の女である。まあ、そんな些細なことは置いといて、サクラはなぜか俺には厳しかった。俺の髪の毛を引っ張ったり、おもちゃで遊んでいればそれを横取りされたこともあった。他の者も目撃した際には止めてはくれたが、解決することはなかった。そう、サクラは俺にとっての不幸の種なのだ。俺では敵わない。敵うはずがない。何をしても……。そう思えるぐらいサクラは非常に狡猾で頭が良かった。この頭の良さというのはどちらかというと勉強面というよりも他者に取り入る能力が高い、いわゆるずる賢いという方が合っているかも知れない。直情的な性格の俺には到底、真似することのできない所業だ。サクラによって俺の居場所が徐々に侵略されている。俺はこの事実だけで焦った。それゆえに、以前にも増して俺は他者に攻撃的な一面を見せていたと思う。当然、この行動は孤立を生む結果にしかならなかった。一方、サクラはというと自慢の賢さに加え、敵を作らずに誰に対しても八方美人であった。一人、また一人と俺から人が離れていった。俺はサクラと違い臆病な性格だ。それを隠すために虚勢を張っていた。ただ、それだけなのに……。俺はみんなが大好きだし、愛している。たった一言、その一言が俺には言えない。それを素直に言えたらどんなに楽なことか。俺にはどうすることもできなかったし、やり方もわからなかった。俺は自分を呪った。もっと皆に優しくしておけば良かった。その後悔だけが残った。俺はベッドの隅で一人泣いた。悲しくて泣いた。喉が枯れるまで泣いた。喉が枯れた後も咽び泣き続けた……。
どうやら、俺は泣き疲れて寝てしまったみたいだ。目が覚めると隣にメガネがいた。メガネは俺の頭を優しく撫でてくれていた。この状況が嬉しくて俺は寝たふりを続けた。メガネは俺が起きているのを気付いたのか、独り言を言いだした。
「僕はりんごが一番好きだよ」
メガネはこれ以外のことは何も語らなかったが俺にはありがたい言葉であり、救われた気がした。この言葉を言われて気が付いたが、俺がサクラにいじめられていたときに仲裁の中心にいたのはメガネであったと思う。八方美人のサクラは誰からも愛されていたため、他者は有耶無耶な対応をしていたが、メガネだけは常にサクラの動向を鬼の形相で見ていたような気がする。残念ながら俺は一人ではなかった。本当、残念ながら……。好きなんて言うメガネは本当に、本当に気持ち悪かった。
俺は大人になった。メガネは相変わらず気持ち悪いが、俺自身その気持ち悪さに慣れてしまったため嫌悪感はなかった。相変わらずの日常である。一方、サクラはというと俺にちょっかいを出すことはあるが、以前よりは少し落ち着いたそんな気がする。もちろん、仲良しとまではいかないが、恐らく今は嫌いではないと思う。最近の俺はというとメガネと外出することが増えた。俺は外が大好きだ。外の空気に触れると気持ちが良いし、お日様を独り占めすることができる。そんな気がするからだ。唯一の欠点を挙げるとするなら、家に帰るとどこに行ったのかしつこく聞いてくるサクラの存在が少々鬱陶しいことぐらいだろう。たまに三人で外出することもあるが、基本的には一緒に行動はしないから気になるのも仕方がないのだろう。まあ俺も昔と違いだいぶ落ち着いてきたと思う。周りには目付きが優しい。性格が昔よりも丸くなったと言われることが増えたと思う。俺自身なにも変えたつもりはないが、多くの人から言われるということは世辞抜きできっと本当のことなのだろう。ただ、俺の中では一つ気掛かりなことがある。メガネが俺に暗い表情を俺に向けることが増えたということだ。メガネと昔から一緒の俺にとっては違和感を感じずにはいられない。本当に、本当に心配だ。何かできることをしたいと考えるが、メガネは悩みを言う性格ではない。非力な俺にできることは、メガネが俺にしてくれたように、そっと寄り添うことだけだった。俺の背中はときどき小刻みに震えていた。きっと大丈夫だよ……。
春の日、俺は体調を崩した。俺とメガネは一緒に病院に行った。どうやら、重い病で完治はできないらしい。俺はその言葉の意味を理解できなかったし、したくもなかった。メガネの表情はとても曇っていた。あの時と一緒で……。俺はメガネを悲しませないようにするため、可能な限り元気に振る舞うことにした。そうすると、メガネが喜ぶからだ。俺は毎日、毎日、毎日、元気を分け与えた。傍から見たら空元気に見えるかも知れないが、そんなのは関係ない。俺は必死だ。必死に頑張った。だが、俺の頑張りとは裏腹にそんな生活は長くは続かなかった。俺の通院が決まってしまったのだ。病院にはメガネと一緒に通うことになった。今の俺では一人で病院に行くことなんてできないからだ。だが、病気になった俺にでもプライドはある。くだらないことかもしれないが、サクラには弱みを見せたくないということだ。俺の介抱をして良いのはメガネだけだ。それ以外は認めない。これが、俺がサクラに行うささやかながらの復讐だ。まったくもって、俺は性格が悪いのかも知れない……。
夏の日、俺は以前よりも通院することは減った。暑いせいだと思うが、俺は何も心配しないことにした。そういえば、最近少しだけ、本当に少しだけ体力が落ちた気がする。これも、夏の暑さが原因だろう。メガネはいつも通り気持ち悪い。最近は俺に何を食べたいのか頻繁に聞いてくる。俺は夏バテでそんなに食べられないのに……。でも、今日メガネが食べさせてくれた林檎は美味しかったな。時期的には旬ではないため酸味が強めだが、この時はとても美味しく感じた。全部は食べられなかったけど、また食べたいとそう思えるぐらいには……。残った林檎は明日食べよう。
暑い夏の日、俺は一人で家を見て回った。夏バテの身体は歩くのも辛かったが、一歩一歩躓きながらも這って歩いた。外から当たる太陽の日差しはとても心地良かった。いつもの太陽なのに、この時は少し懐かしい匂いがした気がする。俺の大好きな匂いだ。落ち着く……。今日は良い1日になりそうだ。そんなことを考えていたら、この日もサクラが相変わらず構ってきた。今日ぐらい静かにしたいのに。仕方がないな、少しだけだよ。サクラは相変わらず鬱陶しかった。サクラから解放された俺はメガネの部屋でくつろいでいた。メガネは相変わらず気持ち悪かった。メガネはお昼になると前日の残りの林檎を俺に食べさせようとしてきた。お腹がいっぱいな俺がそれを食べようとしないでいると、メガネは泣きそうな表情を俺に向けて来た。無理なもんは無理なんだよ。まったく、一日食べないくらい大丈夫。だって、だって、俺は夏バテなんだもの……。
夏の日の夜、俺はメガネと一緒に寝ていた。寝ていたというよりも抱き着かれていたと言う方が正しい。メガネは相変わらず気持ち悪かった……。メガネは俺の体が熱いため、冷房を利かせていた。本当良い迷惑だよ。メガネが抱き着くから暑いのに……。冷房のせいで体が震えだしてしまったよ。これでは本末転倒だよ。まったく、本当に仕方ない人だね。仕方ないから、今日も一緒に眠てやるよ。俺は眠りにつく前に精一杯大きな声で叫んだ。
「ありがとう」
② 春の日
春の初め頃の雪解け始まりの高揚感に期待を膨らませた。そんな時わたしは生まれた。わたしは寒いのが苦手である。寒さは不幸だ。幼い自分ではどうすることもできない辛さ。これは試練だ。試練に違いないと自分に言い聞かせる。それでも、早く暖かくなるのをわたしは待つことにした。待つしかない。だって、これはわたしに与えられた試練だから。
夏の日、わたしに自我が芽生えた。愛は不平等だ。わたしはいつも後回しにされ、自分の番が回ってくることはなかった。仮に回ってきても、それは一瞬の夢でわたしのものになることはない。わたしは悔しくて、悔しくて、ただただ悲しかった。わたしは愛の復讐をすることを決意した。愛を与えられた者に対し、陰ではなく堂々と報復した。それは、それは必要以上にしつこく粘着質に相手が降伏しても知ったことではない。これが、わたしのやり方だ。幸いなことにわたしは強かった。負け知らずでどんな相手にも負けることはなかったが同時に勝つこともなかった。勝負に勝って戦いに負ける。その言葉が今のわたしにはお似合いだろう。確かに勝った時は、少しだけ心が晴れたような気がするが、本質的な解決には何の役にも立たない。愛して。愛して。愛して。なんでわたしではダメなの……。早くこの現実を終わらせたい。終わりにしたい。だが、わたしに愛が回ってくることはなかった。
秋の日、わたしはいつも通りに愛の復讐をしていた。わたしは早く解放されたい。愛されたい。ただそれだけを願って生活していた。そんなある日、出会いがあった。わたしの愛の復讐を見ても何も言うことなく、受け入れてくれる者がいた。可愛いと言ってくれた。大好きと言ってくれた。でも、わたしは信じない。何度裏切られたことか。どうせ一瞬の夢物語。傷つくに決まっている。だが、わたしは意に反して気持ちが高ぶっていた。そして祈るように神様に頼んだ。
「お願いします。生まれ変わるチャンスを下さい」
わたしは心の底から祈ってしまった。何度も何度も何度も……。
柄にもなく神に祈ったお陰かわからないが、わたしは生まれ変わることができた。これでわたしは愛される。今度こそ非の打ち所がない一番を目指していくとわたしは深く誓った。わたしの環境は依然と比べて大きく変わった。わたしには3人の兄妹がいた。上から兄のメガネと姉のリンゴ、そして一番下の妹がわたしサクラである。これなら余裕かしら。メガネは押しに弱そうだし特に気にすることはない。なら、標的はリンゴただ一人。リンゴは臆病で周りに壁を作っている。ここを責めれば余裕だとわたしは楽観的に考えていたが、これは虎の尾を踏む行為であったと後になって気が付いた。実際にリンゴを標的にしたのは正解だった。臆病で虚勢を張ることしかできない彼女はわたしの策略に手も足も出なかったからだ。わたし自身、以前の反省から持ち前の八方美人を利用し、次々と周りを懐柔していった。一人、また一人とわたしに魅了されていった。一番とは縁遠かったわたしが一番になる。一番がこんなにも気持ちの良いことだとは思わなかった。だが、そんなわたしにも天敵が現れた。そう、兄のメガネである。メガネはわたしがリンゴにちょっかいを掛けようものなら、すぐさま飛んできた。わたしにとってそれは、とても気に食わなかった。
「何でわたしの一番を邪魔するの」
わたしは心底メガネが許せなかった。いつか絶対に復讐すると心に誓った。
肌寒くなってきたある日、わたしは突然倒れた。目を覚ますとわたしは病院のベッドにいた。わたしは訳がわからずに呆然と天井を眺めることしかできなかった。だが、かすかに声だけは聞こえた。会話の内容によると、どうやら、わたしの病名は不明であったこと。それと、わたしの第一発見者はあのメガネだったらしい。記憶にはないけど……。だが、問題はここではない。この頃にはわたしとメガネの確執は多くの人に知れ渡っていた。それに病名が不明ということからわたしを病院送りにしたのがメガネに違いないと大勢に詰め寄られていた。メガネは反論することなく、ただただ一点だけを見つめているように見えた。
「(わたしをいじめた罰が当たっただけ。ただ、それだけ……。ざまあみろ……)」と、わたしは内心思ったが、その言葉が口に溢れることはなかった。やっぱり、メガネは大嫌いだ……。
退院してしばらく経った春の日、幸いにもわたしの原因不明の病は完治こそしていないが、最近は発症することもほとんどない程回復することができた。我ながら自分の生命力には心底驚かされた。体調が回復したということもあり、わたし達はお花見に行くことした。わたし達というのは、意外にもメガネとリンゴのことである。あの一件からわたし自身の考え方にも変化が生じた気がする。今でも一番になるというのは信条であるが、それよりも、誰にも嫌われたくないという感情がわたしの中に生まれた。別にメガネに好かれたいとかそういった邪な気持ちはなく、ただ、純粋に嫌われたくないと思っただけである。やっぱり、今でもメガネは嫌いだ……。
凍える夏の日、リンゴは突然姿をくらました。わたしは訳も分からずに慌てふためいた。メガネに訊いても何も教えてくれない。だが、メガネの表情は今までで見てきた中で一番暗く今にも泣きだしそうな表情をしていた。わたしはすぐさま家中の隅々を探した。リビング、キッチン、トイレ、お風呂場、リンゴの部屋など考え得る場所を探したがリンゴを見つけることはできなかった。でも、わたしは知っているの。これは、ドッキリで本当はここにリンゴがいるのはわかっている。わかってはいるけど……。わたしは最後に残ったメガネの部屋の前に立ち尽くした。ここに違いない。本当は最初からメガネの部屋にリンゴが居ることは分かっていた。でも、このドアを開けると認めることになる。だが、認めたくないわたしがいる。気が付くとわたしは全身の力が抜けていた。そして、座り込むようにドアを背にして泣き出していた。これが、今のわたしにできる精一杯の別れの挨拶であった。メガネはそんなわたしを見ることなく後ろを向いた状態で肩を震わせているように見えた。リンゴは好きだけど、やっぱり、メガネは少し嫌いだ……。
緑の深い春の日、わたしは一人で苦しんでいた。今日は何だか息苦しい。こんな時期に体調を崩すなんて不覚だわ。以前の原因不明の病とは症状が違うから今日一日安静にしていれば大丈夫なはず。でも、誰でも良いから早く帰って来て欲しいなあ……。待てど待てども誰も帰ってこない。何で休日の午後なのに誰も帰らないのよ。メガネのバカ。そうこうしているうちに意、意識が……。
メガネの声で苦しいながらも目が覚めた。どうやら、わたしはメガネと二人でタクシーに乗っているようだ。タクシーから見える景色は暗かったことから、夜まで経過したみたいだ。わたしが目を覚ましたのを確認するとメガネは少しほっとした表情で背中を優しくさすってくれた。その時のメガネは息切れをしており、額や顔のみならず胸の方にも汗がびっしりと噴き出していた。きっと、夜でタクシーが見つからなくて走り回って探してくれたのだろう。わたしは息が苦しいながらも感謝した。やっぱり、メガネは……。わたしは再び意識を失った。
次に目を覚ましたらわたしは知らないベッドの上にいた。口には管が繋がれており、それで何とか呼吸している状態であった。わたしの寝ている部屋は病室というにはあまりにも設備が立派であり、ドラマでしか見たことのないような凄い機材が並んでいた。朧な意識のわたしでも今の状況が不味いことを直感させるには十分だった。わたしが思考を巡らせていると話し声が聞こえて来た。メガネ達と聞き覚えのない声これは恐らく病院の先生かな。わたしは会話ができる状況ではなかったが、先生の説明によるとこの病気は再発しやすく完治することは難しいらしい。今回は早期ではあったものの、明日が峠とか。峠?何だか物騒なワードが聞こえて来た気がするが、今は考える力がない。流石に不安があったが、まあ大丈夫でしょう。わたしは以前の病気も克服できるぐらいには運が良いからね。苦しいけど今日はとりあえず眠るとしましょう。
「おやすみなさい」
翌日、どうやらわたしの心臓は鼓動しているようだ。昨日と比べて呼吸も少しは落ち着いたみたいだし、やっぱりみんな大げさすぎだよね。わたしはというと運のいいことに1日で退院することができた。体内時計としては長い間入院していた気がするし、そのぐらい、その時の記憶が曖昧だった。でも、これからは以前と同様に通院が始まるらしいけど運の良いわたしならきっと大丈夫だよね……。
太陽降り注ぐ夏の日、わたしはメガネと病院に行った。メガネは軽い症状でもすぐにわたしを病院に連れて行こうとする。鬼である。今日のわたしはそんなに辛くないのに本当にお節介なメガネだね。おかげで、受付の人にも顔と名前を覚えられてしまったよ。メガネとセットで……。全くもって恥ずかしい限りだよ。まあ、今回は急な病院で待ち時間は長かったけど、メガネと一緒だから退屈はしなかったね。そういえば、今日は病院でお友達ができたんだよ。名前は聞きそびれちゃったけど、あの子はお父さんとお母さんと一緒に来ていた子で話すのも楽しかったね。また会えるかな。病院は痛いから嫌だけど、こういう出会いは悪くないね。それに何より病院に行くこの瞬間だけはメガネを独り占めにできるのもいいね。メガネの心にわたしが居るかはわからないけど。きっと、居るよね。今はわたしが一番なんだから……。それでも、やっぱりメガネは好きになれない。
翌日、わたしはまたメガネと病院に行った。昨日に引き続き病院だなんて運が悪いね。まあ、今日は昨日の経過観察だと思うから早く終わるといいなあ~。わたし達は今か今かと待合室で待っていると、昨日の親子が病院に駆け込んできた。なんと、昨日のお父さんがぐったりとしたあの子を背負っていたのだ。その瞬間、病院は大騒ぎとなった。わたしはいきなりのことで訳がわからなかったが、胸騒ぎがしたのを覚えている。それからは本当に一瞬だった。一瞬という言い方が残酷なほどに……。診察室から出たお母さんは待合室で泣き崩れていた。両手で顔を覆ってはいたが隠すにはその手は小さすぎた。お父さんはというとお母さんの肩を優しくさすっていた。ただただ、無言で……。その様子を目撃したわたしは目線を逸らした。逸らしたと言うより、見ていられなかった。これ以上見たくはなかったし、本音をいうなら、今日病院になんて行かなければ良かったと心底後悔した。心臓に刃物が突き刺されでもしたかのように鼓動が加速した後味の悪い一日となった。
春が近づいてきた冬の日、この頃には通院回数が以前と比べて減っていた。呼吸も以前よりはしやすい気がする。不本意だけど、今の状態はメガネのお陰だと思う。メガネの介抱の賜物と言ってもいいぐらいにはわたしは回復していた。まあ、回復したとは言っても数値上ではじわじわカウントダウンが始まっているのかもしれないけど……。そんなわたしも最近新しい趣味を始めた。それは歌を歌うことである。歌は良いよね。人種や言語を問わずコミュニケーションがとれる最強のツール。内容がわからなくても通じ合えるそんな歌がわたしは好きかな。それに、わたしが歌うとメガネも一緒に歌ってくれている気がするんだよね。普段は歌うことはないくせに無理しちゃって、かわいい……。今日はね、まだ寒い時期だけど、体調が良いから、メガネと夜のデートに行ったよ。わたしは寒いのが苦手だから、厚手のコートにマフラーを着用するのを忘れずにね。外ではメガネがわたしを負ぶって走ってくれて嬉しかったね。最近、風を切ることがなかったから、とても、とても心地よくて充たされたね。わたしを負ぶって走れるぐらいには、メガネに体力が付いたみたいで良いことだね。きっとこれはわたしのお陰だね。やっぱり、メガネは少し好きかな。
春の日の午後、わたしはメガネとお花見に行った。残念ながら、桜には緑が少し混じった桜若葉であったが、少し前にもお花見に行ったのでそんなのは関係ない。当然のようにわたしは厚手のコートとマフラーを装着して行った。メガネはというと、桜が咲いているにも関わらず、わたしの写真ばかり撮っている。これでは、どちらが主役かわからないよ。でも、満更でもない。とうとうサクラは桜を超えて一番になれたという喜びもある。どうせ、メガネはわたしがいなければ、お花見に行かないことぐらい今のわたしにはわかる。まったく、ツンデレさんなんだから。帰り道には赤や黄色、白色の金魚草が咲いており、そこでも一緒に写真を撮った。桜じゃなくても良いのね。そんな野暮なことも考えていたが、メガネの表情を見ると笑みが浮かんでいたこともあり、わたしも次第に楽しくなっていた。やっぱり、今はメガネが好きかな。
春の日の夜、わたしはメガネと一緒に寝ていた。わたしは花見を終えて少し疲れはしたが、至って元気。この頃は体調が回復してきてメガネの表情も明るかったこともあり、心配事も特になかったと思う。最近わたしはメガネと寝ることが多い。寝るといってもずっと一緒ということではなく、数時間だったりすることもある。起きられればだが、その後に自室で寝るのがわたしのルーティンである。メガネもわたしと寝ることは満更でもない様子だし、きっと嬉しいはず。そうに違いない。この日も一緒に寝ていたが、わたしはメガネに無理やり起こされた。起こされたというと乱暴に聞こえるが、実際には、口の周りに食べ物の残りかすが付いていたようで、それを拭いている内に自然と目が覚めてしまっただけである。メガネがわたしの口周りを綺麗にした後に、自室のベッドまで送ってくれた。わたしは眠かったこともあり、この日はすぐに熟睡してしまった。
「おやすみなさい」
やっぱり、メガネは大好きだ。
翌朝わたしは目が覚めた。この日はなんだかベッドから出たくなかった。だけど、寝すぎも良くないし少しだけ動こうかな。わたしは深い二度寝を避けるためにメガネの座布団をリビングから持って来て、自分の枕と交換し再び寝始めた。これでよし。これでやっと眠れるね。眠るならメガネの座布団が一番だよね。落ち着くし良い匂いがするし。やっぱり、わたしは運がいいね。
「おやすみ~」




