9・選び取った未来の果て
少しですが、女性に対する暴力と遺体の描写があります。
苦手な方はご注意ください。
薄暗く狭い部屋で目覚め、しばらく薄い毛布にくるまったままじっとしているのは前の世界のくせが抜けきっていないせいだ。待っていたって、専属の侍女が目覚めの紅茶を運んできてくれたりはしないのに。
「あ……あら、おはようミルカ。お水を汲んできてちょうだい」
着替えて部屋を出ると、母が何かをさっとスカートのポケットに隠した。薄暗いせいでよく見えなかったが、口の下についたチョコレートの汚れが正体を物語っている。
(あの商人にもらったのね)
生まれ育った邸を追い出されてから、はや三年。
辺境の地で雑貨や嗜好品のたぐいを入手するのは商隊頼りだが、叔父に睨まれているミルカ一家の家にはどこの商隊も立ち寄らない。
なのに三月ほど前、その行商人はふらりとこの家を訪れた。広げられた品々は辺境伯令嬢だった頃のミルカなら気にもとめないものばかりだったが、ガラス玉をあしらったアクセサリーや砂糖菓子に、貧しさにあえいでいたミルカたちはたちまち魅せられた。
しかし今のミルカたちには、生活必需品以外を購う余裕などない。何も買わず帰ってもらおうとしたら、行商人は小さなブローチを母に、花の形の砂糖菓子をミルカに贈ってくれたのだ。
『前辺境伯閣下にはひとかたならぬお世話になりました。今の辺境伯閣下の手前、おおっぴらにはできませんが、不当にも追い出されてしまった前辺境伯閣下とご家族を陰ながらお助けしたいと思っていたのです』
怪我で引退してしまったが、行商人はかつて辺境伯軍に所属する兵士だったという。
辺境伯だった父がどんなに兵士から慕われていたか。どんなに勇猛果敢だったか。行商人の語る話はミルカたちを甘く酔わせ、ふだんは心の奥底に押しこめている不満をたやすく引き出した。現実の父が家に閉じこもり、毎日鬱々と過ごしていればなおさら。
『みな今の辺境伯閣下を恐れ黙っておりますが、心の中では前辺境伯閣下とご家族をおいたわしく思っているのです。今の辺境伯閣下のなさりようはあまりにひどい』
そうだ。今まで辺境を守ってきたのは父なのだ。叔父はその下で戦っていただけなのに、たまたま父が利き腕を失ったから辺境伯になれただけなのに、一番の功労者である父をないがしろにするなんてあまりに心ない仕打ちではないか。
同じ血を受け継ぐ一族なのだ。これまでとまったく同じとは言わないが、一族の娘としてもっとまっとうに扱ってくれてもいいのに。周囲の反対を押しきって結婚した両親がそのことで非難されるのは仕方ないかもしれない。でも生まれてきたミルカには何の罪もないのだ。一族の令嬢として後ろ楯になり、嫁ぐまで面倒をみるのが当主の責任というものだろう……。
行商人はそれからも時折ミルカの家を訪れ、そのたび母とミルカにささやかな贈り物を貢ぎ、耳に心地よい噂話で母娘をいい気分にさせていった。
表だって何も言えないものの、家臣や領民はミルカたちを悲劇の一家と哀れみ、叔父を非道の領主と憤っている。ミルカは悲劇の令嬢なのだ。噂話を聞く間だけは、今の暮らしのつらさを忘れられた。
……最初に違和感を覚えたのは、匂いだった。甘い花の匂いを、母から嗅いだ。安っぽいが、あれは香水の匂いだ。香水なんて、辺境伯邸からは持ち出せなかったはずなのに。
次の違和感は肌だった。ろくに手入れもされず、食うや食わずの生活のせいで荒れていたはずの母の肌が、辺境伯夫人時代ほどではないが潤いを取り戻していた。
そのまた次は服。ぼろきれみたいな服しか持っていないはずなのに、ミルカが水汲みから戻ると、母は小綺麗な綿のワンピースをまとっていた。ミルカに気づくと村人から古着をもらったのだと言い繕っていたが、継ぎの当たっていない新しい服なんて、貧しい村人に購えるわけがない。ましてや他人にやったりするものか。
とどめはネックレス。模造真珠とガラス玉を連ねたネックレスを、母がベッドの下に隠した小物入れから見つけた。……父からの贈り物ではない。父からであれば、隠す必要はない。
ミルカさえ嗅ぎ取った男の気配を、父や兄が嗅ぎ取らないわけがなかった。兄は母の不貞を疎んでめったに帰らなくなり、父は毎晩のように母を問いつめては口論に及ぶようになった。
『あの行商人に肌を許したのか』
『夫がある身でなんということを。それでも貴族か』
『安物の装飾品や食べ物をくれる男が、そんなにありがたいのか』
荒々しい口調で責め立てる父に、母は最初こそ悲しげに反論していたが、だんだんうんざりしていった。
『あの方はただの親切心でわたくしに優しくしてくださるだけですわ』
『貴族? こんな薄汚い小屋に住んで、満足に食べることもできないのに?』
『安物の装飾品や食べ物すら、貴方はくださらないではありませんか』
狭い家だから、薄い毛布をかぶっていても二人の口論は聞こえてしまう。眠ることもできず、ミルカは思考を煮詰めていく。
(お母様は、嘘をついている)
正しいのは父だ。これまでの違和感からミルカは確信していた。父もそうだろう。
なのに父が決定的に母を追いつめないのは……行商人との不貞を糾弾されれば、母はこの家を出ていってしまうと察しているからだ。
兄は女の家に入り浸り、ろくに働かず養われているらしい。そういう男を情夫とかヒモと呼ぶのだと、辺境伯令嬢のころは知らなかった。
ミルカの家族は壊れる寸前だ。父もわかっている。けれどきっと壊れるまでは壊したくないのだ。もうミルカたちには、どこにも行くところがないから。
昨夜はいつになく激しい口論だった。父はそんな声も出せるのかと驚くほどがなりたて、母を淫婦となじった。もしかしたら行商人と一緒にいるところでも目撃してしまったのかもしれない。
止めに入るべきかと思った頃、口論は突然収まった。さすがの父も疲れて寝てしまったのだろうと安堵し、ミルカは久しぶりに静かな眠りをむさぼったのだけれど。
「……お父様は?」
いつもならミルカより早く目覚め、テーブルで白湯を飲んでいるはずの父の姿がない。
母は一瞬ぎくりと頬をこわばらせ、すぐさま取り繕うように笑った。
「昨日は珍しくお酒を飲んでいたから、まだ眠っていらっしゃるわ。それより早くお水を」
「……はい」
昨日あれほど激しく怒っていたのは、酒のせいだったのか。腑に落ちないものを感じつつも、ミルカは水桶を手に家を出た。井戸は近くの村にあり、往復すると疲れはててしまうのだが、一番若く体力のあるミルカが担うしかない。
(お兄様がいてくださったら……)
兄ならたとえ父が暴れたとしても、簡単に取り押さえられるだろう。一家の長男なのに、なぜ母や妹を守らずよその女に入れあげるのか。
何度も涙を拭いながらようやくたどり着いた井戸には先客がいた。近くの村の酒場の店主だ。このあたりに酒が飲める場所はそこしかなく、兄がしょっちゅう入り浸っている。ミルカたちの家にも一度、酔いつぶれた兄を担いできてくれたことがあった。
親切な男らしいが、ミルカはこの店主があまり好きではなかった。いつもミルカを脂ぎったいやらしい目で見るからだ。おまけに背が低くミルカの大嫌いなネズミみたいな顔で、体臭もきついから、絶対に近づきたくない相手だ。
「おはよう、ミルカちゃん。今日も可愛いねえ」
ねっとりと話しかけてくる店主は手ぶらだ。ミルカを待ち受けていたのかと思うと、気色悪さに肌が粟立った。
「待ってよミルカちゃん。お話があるんだよ」
さっさと水を汲んで帰ろうとしたら、気になることを言われる。思わず足を止めると、店主は嬉しそうに近づいてきた。
「ミルカちゃんのお兄さんねえ、うちの店のツケを溜めたまま、女と一緒に消えちゃったんだよねえ」
「消え……た………?」
「うん、俺はこんなところでくすぶってるような男じゃない、って息巻いてたから、たぶん王都にでもいるんじゃないかな。途中で野盗に殺されてなければ、だけど」
さあっと血の気が引いていく。今は女に溺れていても、最後には家族のもとに帰ってきてくれると……ミルカたちを養ってくれると信じていたのに。
とっくに、いなくなっていた?
「だからね、ミルカちゃん。ミルカちゃんたちには、お兄さんが踏み倒していったツケを払ってもらわなきゃならないんだ」
「……っ、な、何故わたくしたちが」
「だって家族でしょう? 家族は助け合うものじゃない?」
確かにそうだ。ミルカだってそう思っていた。
でも、兄のツケをミルカたちが払う?
何故……どうやって?
「わかってるよ、ミルカちゃんたちはお金がなくて大変なんだよね。だから特別にお金以外の方法で払ってくれていいんだよ」
「お金以外の……方法?」
「んもう、わかってるくせに。……こういう、こと!」
今までのへらへらした態度を一変させ、店主はすばやい動きでミルカに襲いかかってきた。弾みでミルカは水桶を落とし、背中から地面に押し倒される。
「きゃああああっ!」
「ミルカちゃん、まだ生娘でしょ? 最初は特別にツケの半分をチャラにしてあげる!」
店主の生暖かい吐息が首筋に吹きかけられる。
(気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!)
何をされているのか理解してしまい、ミルカは猛然と暴れた。その手が偶然落ちていた石を掴む。
「……ぎゃあっ!?」
ありったけの力をこめて振り下ろした石は、店主の側頭部に命中した。拘束する腕がゆるんだ隙に、ミルカは重たい身体をどうにか押しのけることに成功する。
「落ちぶれ貴族のぶんざいで、お高くとまりやがって……!」
のろのろと逃げ出したミルカを、店主の罵倒が追いかける。
「俺たちから税を搾り取るくらいしか能がないくせに!」
「どうせ貴族の女なんて、茶を飲んで笑ってるだけなんだろ?」
「何もできないんだから、おとなしく股を開けよ!」
浴びせられる罵声はいちいちミルカの心をえぐった。自分たちはただ税を取っているだけじゃない。民を守るために戦っているのに、彼らにはまるで伝わっていなかったのだ。
それに……店主の言葉には真実も含まれている。
ミルカは……母も、何もできない。だから叔父に与えられた小屋に閉じこもり、兄が稼いできてくれるのを待つしかなかった。餌を与えられる雛鳥のように。
ふと、前の世界でアレクサンドラに付けられた家庭教師たちを思い出す。淑女には必要ないと思ったから、真剣には取り組まなかった。
だがもしあの知識を身につけていたら、たとえ身一つで追い出されても、自分の力で稼ぐことができたのではないだろうか。家庭教師たちの中には女性も交じっていたはずだ。
(……もしかして、アレクサンドラ様がわたくしにたくさんの家庭教師を付けたのは、意地悪ではなくわたくしのためだった?)
前の世界では平民に身を堕とすことはなくても、嫁ぎ先では何が起きるかわからない。いざという時自分を守れるのは自分だけだと、今の世界でミルカは思い知った。アレクサンドラが身につけさせてくれた知識は、ミルカを守る力になってくれただろうに。
(わたくしは嫌がってばかりで……)
今ならわかる。家庭教師たちが去っていったのは、やる気のないミルカにこれ以上教えても無駄だと判断したからだ。アレクサンドラの要請だからはるばる辺境まで来てくれたのに、ミルカはどれだけ彼らを失望させてしまっただろう。
押し寄せてくる後悔に流されてしまいそうになりながらも、ミルカはどうにか家にたどり着いた。水桶を拾ってこなかったことに今さら気づくが、しばらくは井戸には近づきたくない。
「ただい、ま……?」
扉を開けて入った家に、母の姿はなかった。小さなテーブルに紙切れを見つけ、嫌な予感に胸がざわめく。
『ミルカ、ごめんなさい。お母様はあの人と一緒に行きます。お父様のこと、どうかよろしくね』
見慣れた母の筆跡だった。ミルカが水を汲みに行っている間に、あの行商人と共に出て行ってしまったのか。いや、あの行商人が来るとわかっていたから、ミルカを外に出した?
「お父様、お母様が……!」
ミルカは紙切れを握りしめ、父の寝室に駆け込む。その瞬間、初めて嗅ぐ臭いが鼻をついた。
「お父……様?」
父は粗末なベッドに横たわったまま、ぴくりとも動かない。どきどきする心臓をなだめながら歩み寄り、ミルカは絶叫する。
「いやああぁぁぁ! お父様!」
首に細長い布を巻き付けられ、青黒い顔で目を見開いたまま硬直した父は、息をしていなかった。小花柄の布は確か母があの行商人に贈られ、よく身につけていたスカーフだ。
では母が父の首を絞めた?
いつ? まさか真夜中、突然静かになった時?
だから母は出ていった? ……ミルカに父の死体を押しつけて?
(アレクサンドラ様……ごめんなさい、ごめんなさい!)
漂う腐臭の中、ミルカはもう会えない人に呼びかける。
(何もできない令嬢のわたくしが安穏と暮らしていられたのは、幼い貴方が辺境まで来てくださったおかげだったのに……!)
『……はあ。やっとわかりましたか』
「え?」
懐かしい声にミルカは顔を上げる。
その瞬間、ミルカの意識は闇に閉ざされた。




