8・『愛に満ちた幸せな家庭』
「誕生日おめでとう、ミルカ」
懐かしい声が重なった。
ミルカはそっと目を開け、ぼうぜんとする。
丸いテーブルを囲み、ミルカに笑顔を向けるのは父と母、そして兄ヨアキムだった。みな記憶にあるより若い。兄は十代……アレクサンドラをめとった頃くらいの姿だ。
(どういうこと?)
「どうしたのミルカ、そんな顔をして」
「あ……お母様、神官様は……女神ユスティティア様は……?」
自分はとつじょ現れたユスティティアに斬られたのではなかったのか。何度もまばたきながら問う自分の声も幼く、混乱するミルカにくすくすと笑ったのはヨアキムだった。
「ミルカ、また女神様ごっこか? もう十一歳になったんだから、そろそろ刺繍のひとつでも覚えたらどうだ?」
「十一歳?」
確かにその頃はお気に入りのドレスを着て女神様のふりをするのが好きだったけれど……ぼんやり思い出し、ミルカははっとする。くすんだグラスに映る自分の姿が、幼い少女だったせいで。
『では、ぞんぶんに味わうといいわ。アレクサンドラが降嫁せず、愛情に満たされた人生を』
同時にユスティティアの言葉がよみがえり、驚きと歓喜がじわじわとこみ上げた。
(あれは本当だったのだわ……!)
ミルカは偉大なる女神の力により時をさかのぼった。いや、ありえたかもしれないもうひとつの世界に移されたのだ。
「あ、あの、アレクサンドラ様は……王女殿下はいらっしゃらないの?」
おずおずと尋ねてみると、家族はきょとんと顔を見合せてから笑い出した。
「ミルカ、お前起きたまま夢でも見ていたのか? 王女殿下がこんな家にいらっしゃるわけがないだろう」
「そうよミルカ。ましてや王女殿下は貴女よりも幼くいらっしゃるのだもの。辺境になんておいでにはなれないわ」
兄と母がおかしそうに笑い、父は苦笑する。
「まあ、ヨアキムと殿下を……と分不相応な夢を抱いたこともあったが、夢は夢のままにしておくべきだろう。失うものが多くとも、私はこうして家族揃って娘の誕生日を祝えることの方がすばらしいと思う」
「お父様………!」
歓喜が弾ける。
父もミルカと同じ気持ちだったのだ。今までミルカがいた世界ではアレクサンドラの権力に屈してしまったが、こちらの世界では正しい選択をしてくれた。
「ありがとう、お父様、お母様、お兄様も。みんな大好きよ」
「何だよミルカ、いきなり」
おかしなやつだな、と苦笑しつつもヨアキムはミルカの頭を撫でてくれるし、両親は笑っている。懐かしい空気だった。
アレクサンドラが来るまでは、いつだって家族だけでテーブルを囲んでいたのだ。アレクサンドラの降嫁の日……ミルカの十一歳の誕生日だって、こうして祝ってもらえるはずだった。
(やっぱり、アレクサンドラ様がすべての元凶だったのだわ)
アレクサンドラがいない世界なら、ミルカは家族から一番愛される娘でいられる。ミルカこそが世界の中心だ。
「さあ、冷めないうちにごちそうをいただきましょう」
母にうながされ、ミルカはスプーンを取った。家族だけの食事の時、母は自ら厨房に立つ。
母手作りの料理は久しぶりだ。誕生日にはいつも父が仕留めてきた雉や七面鳥に詰め物をして焼いたものや、色とりどりの砂糖菓子、バターたっぷりの焼き菓子、果物とクリームをふんだんに用いたケーキなど、ミルカの好物ばかり作ってくれたのだけど。
「……え?」
ミルカの前に並んでいるのは申し訳ていどに肉のかけらが浮いた野菜スープの皿と、バターつきの小さな黒パンがふたつ載っている皿だけだった。グラスを満たすのは水だ。
ひょっとしてこれから使用人がメインを運んでくるのかと思ったが、ミルカ以外の家族は嬉しそうに食事を始めている。辺境伯家では朝でも卵料理と肉料理が最低一品ずつ、そこに焼きたての白パンや新鮮な野菜のサラダ、バターにジャム、生果物をしぼったジュース、デザートのプディングが加わるのに。
「ね、ねえ、これがごちそう?」
「ええ、そうよ。今日はミルカのお誕生日だから、特別にお肉とバターを分けてもらえたの」
ほんわりと笑う母は二人の子を持つとは思えないほど美しいが、よくよく見れば前の世界……これから五年経っても現れなかったはずの小じわが目じりに刻まれ、絹のようになめらかだった肌はくすみ、ざらついている。
女性らしいめりはりを失った身体を包むのは絹のデイドレスではなく、ところどころ継ぎの当たった麻のワンピースだ。宝石はおろか、レースもフリルもあしらわれていない。辺境伯邸のメイドのお仕着せの方がずっと華やかだ。
「肉なんて久しぶりだな。おかげで今夜は空腹で目が覚めずに済みそうだ」
がつがつとスープを食べる兄は貴公子らしく伸ばしていた髪を短く切り揃え、やはり麻の粗末なシャツとズボン姿だ。肌は日に焼け、たくましく均整の取れていた身体からは筋肉が落ち、とても騎士には見えない。淑女に愛と忠誠を捧げる騎士は、見た目にも気を遣わなければならないのに。
「ミルカ、食べないのか? たまにはパンと肉が食べたいと、あれほど言っていたではないか」
残された左手でパンを持ち、豪快に食らいつく父は巨岩のように大きくたくましかったのに、今はふた回りは縮み、さながら小石のようだ。
辺境最強の騎士とうたわれた覇気は失せ、簡素な衣服をまとっているのを差し引いても、貧しい農夫に見える。ミルカの自慢の『お父様』ではない。
(……そうだ……)
見えていなかった……目を逸らしていたものが見えるようになれば、色んなものが視界に入ってくる。こちらの世界のミルカの記憶と共に。
丸太を組み合わせた、家族三人で住むには狭すぎる家(辺境伯邸近くの丸太小屋。もとは庭師の住まいだったが、屋敷を追い出された時、新しい辺境伯になった叔父から与えられた)。貧しすぎる食卓(ふだんは黒パンすらろくに食べられない。ふかした芋と薄い麦粥がいつもの食事だ)。粗末な衣装(ドレスや宝石はいっさい持ち出しを許されなかった。叔父の娘、従姉妹のものになっただろう)。
(この世界には……アレクサンドラ様がいないんだ……)
アレクサンドラより劣るとはいえ、辺境伯令嬢としてミルカがなに不自由ない暮らしを送れたのは、兄が辺境伯家の当主になれたから。兄が当主になれたのは、王女のアレクサンドラが降嫁してくれたから。
中級貴族ていどの魔力しか持たない兄ヨアキムは、アレクサンドラと結ばれなかったこの世界では、叔父に当主の座を奪われてしまった。父を恨んでいた叔父はミルカたち一家をこの小屋に追いやったきり、いっさいの援助を拒んだのだ。父は辺境のために尽くし、利き腕まで失ったというのに。
最後の温情なのか嫌がらせなのか、ヨアキムは辺境伯軍に所属を許された。ただし騎士ではなく兵士としてだ。中級貴族程度の魔力量でも騎士は務まるはずだが、ヨアキムには身分を保証してくれる保証人がいなかった。父の世話になった家臣たちも親族も叔父を恐れ、誰一人名乗り出てくれなかったのだ。
兵士の薄給では家族三人、食べていくのがやっと。片腕の父は療養のため家にこもり、母はその看護と慣れない家事に忙しく、ミルカは必死に手伝う。宝石やドレス、甘いものなんて夢のまた夢。そんな暮らしが続くのだ。
これからずっと。
『良かったわね』
頭の奥で女神ユスティティアがささやいた。
『望み通り、貴女はこれから一生家族と離れることはないわ。家族の愛情に包まれて生きていくのよ』
なぜなら誰もが新たな辺境伯となった叔父を恐れ、ミルカの一家には近づこうとしないから。嫌でも家族で身を寄せ合い、助け合うしかない。
(……そんな、そんなはずないわ! だってわたくしたちは辺境伯の一族なのよ)
親族も、父から恩を受けた騎士も多い。彼らの誰一人として手を差しのべてくれないなんて、ありえない。
そう、たとえば。
「ライサは?」
「ミルカ?」
「ライサはお兄様の恋人で、ライサの父親は副団長ではありませんか。お兄様がライサと結婚すれば、ライサの実家から援助を受けられるのではありませんか?」
ライサの父親ならヨアキムの保証人にもなってくれるはずだから、兵士ではなく騎士になることも可能だ。俸給も倍増し、ミルカたちの暮らしはだいぶ楽になるだろう。
どうして誰もこんな名案を思いつかなかったのかしら、と得意になっていると、父がはあっとため息をついた。
「ライサはとうに嫁いだ。忘れたのか?」
「えっ」
母と兄のかすかな非難の混じったまなざしにさらされるうちに、こちらの世界の記憶が浮かんでくる。
父の言う通りだ。ライサはミルカたちが辺境伯邸から追い出されるのと同時に嫁いだ。ヨアキムを通じ、援助を求められたらたまらないとライサの父親は思ったのだろう。
ライサが嫁いだ相手は、前の世界と同じ騎士だった。やはり結婚前から愛人がおり、そちらに入り浸っているという。だがこちらの世界では辺境伯令嬢の耳には入らなかった噂話が……ライサの夫が妻を粗略に扱う理由が伝わってきた。
夫は幼なじみでもある愛人と結婚するつもりだったのに、ライサの父親から娘をもらって欲しいと頼みこまれたのだ。すでに相手がいると断ろうとしたが、どうしてもと頭を下げられた。ライサがヨアキムと恋仲だったことは周知の事実であり、ヨアキムとのつながりを新しい辺境伯に勘ぐられたくないと、誰もライサをもらいたがらなかったのだ。
夫の実家はライサの父親に恩義があったため、断りきれなかった。最終的にはライサを形式上の妻とすることと、跡継ぎは愛人の産んだ子にすること、愛人を実質的な女主人として遇することを条件に、結婚を受け入れたのである。
たぶん前の世界でも、同じ事情からライサは夫と結婚したのだろう。彼女が泣きながら訴えた境遇にミルカは憤ったけれど、夫からすれば当然のことだった。むしろヨアキムとの不義が露見した後もライサを追い出さなかったのは、慈悲深いと言えるかもしれない。
(前の世界のわたくしは……何も知らなかった……)
だが前の世界のライサは知っていたはずだ。自分がお飾りの妻に過ぎないことを。
なのにミルカに『苦境』を訴えたのは。
『貴女ならヨアキムに会わせてくれると思ったからでしょうね』
くすくすと女神が笑う。
『騎士のお飾り妻でいるよりは、辺境伯の妾になる方がはるかにましだもの。正妻に子ができなければ、跡継ぎの母親になれる可能性だってあるわ』
同じことを、前の世界のミルカも考えた。だが主導権を握っているのはあくまでミルカだと……ライサを助けてやっているのだと信じていた。
でも、ミルカは利用されただけだった?
『辺境伯令嬢がアレクサンドラを妬んでいることは、前の世界で知らない者はいなかったものねえ』
あからさまにした覚えはない。淑女が感情をあらわにするのははしたないことだ。
淑女らしいたおやかな笑みの下に隠していたつもりだった。
でも……見抜かれていた?




