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4・花嫁はかく語りき~運命の分岐点~

『お許しください、ミルカ様……人の妻になっても、私はまだヨアキム様のことを……』



 ライサが涙ながらに打ち明けてくれた心情は、わたくしの期待通りでした。はしたなくも快哉を上げそうになるのをこらえ、わたくしはライサに話して聞かせました。アレクサンドラ様のふるまい、兄の置かれた境遇を。



『ヨアキム様がそんなにおつらい想いをなさっておいでだったなんて……』



 ライサはぼうぜんとしていました。それはそうでしょう。自分と別れれば兄は幸せになれると思ったからこそ身を引いたのに、実際の兄はアレクサンドラ様の下僕か何かのように扱われているのですから。



『お兄様もきっとライサを恋しく想っていらっしゃるわ。あんなに仲むつまじかったのですもの』



 わたくしはふたたびライサの耳元でささやきました。



『今からでも遅くはないわ。ライサ、お兄様のお心をなぐさめてくださらない? わたくし、そのためなら協力を惜しみませんわ』

『っ……、ミルカ様……』



 ライサは迷っていました。既婚の女性が妻のある男性と関係を持っても側室……二人目の妻とは認められません。扱いはあくまで妾ですから、無理もありません。



 ですがこれは、ライサにとって悪い話ではないはずなのです。



 妾とはいえ、お相手は辺境伯。いずれ兄が地位を確固たるものにし、その時ライサが男の子を産んでいたのなら、その子を辺境伯家の跡継ぎに据えることも不可能ではないのです。正妻、アレクサンドラ様の養子にすればいいのですから。ちょうどライサの夫がしようとしているのと同じように。



 アレクサンドラ様がお子を持たれるのは、どんなに早くとも五年後。それまでにライサが兄の子を産み、兄がアレクサンドラ様に愛想を尽かせば……。

 悩んだ末、ライサは答えを出しました。



『……ヨアキム様のおそばに、上がりたく思います』



 辺境伯家の誰もがアレクサンドラ様を気遣い、女王のごとく扱います。ならばせめてわたくしくらいは、兄を気遣ってもよいのではないでしょうか? 辺境伯家の主人はアレクサンドラ様ではなく、兄ヨアキムなのですから。



 わたくしがライサの現況を伝えると、兄は驚き、ライサの夫の非道に憤りました。そしてライサがいまだ兄を想っていると知るや、辺境伯家所有の小さな山荘にライサを住まわせたのです。



 山荘の存在を知るのは辺境伯家の者だけ。アレクサンドラ様のお世話にかかりきりの両親が使うことはまずありません。秘密を隠すにはうってつけの場所でした。

 それでも兄一人でひんぱんに出かければ怪しまれますから、時にはわたくしも同行いたしました。兄がわたくしに甘いのは周知の事実でしたから、ねだられて街にでも行くのだと思われたでしょう。



 ライサが突然いなくなっても、彼女の夫はまるで騒がず、好都合とばかりに愛人を本宅に連れ込んだそうです。ライサの父親も黙認状態だとか。だからこそライサは兄とふたたび愛し合えるようになったわけですが……かわいそうなライサ……。



 かわいそうなのはアレクサンドラ様も同じだと、神父様は思われますか?



 わたくしはそうは思いません。アレクサンドラ様はいずれ十八歳になれば、兄の子を産むよう周囲から重圧を受けられるでしょう。ライサの産んだ子がいれば、たとえ子に恵まれなくてもその子を養子にすれば正妻の名誉は保たれます。わたくしはむしろ、アレクサンドラ様のお心を軽くして差し上げたのですわ。



 兄とライサはよほど相性が良かったのでしょう。翌年には二人の間に男の子が生まれました。

 アーロンと名づけられたその子は、アレクサンドラ様にお子ができなければ跡継ぎとなる大切な子です。アレクサンドラ様には当分秘密にしておくにしても、さすがに両親には明かしておかなければなりません。兄やライサの身に万が一のことが起きた場合、アーロンを庇護できるのはお父様とお母様だけですからね。



 子煩悩な両親は突然現れた初孫に驚きつつも、泣いて喜んでくださるでしょう。わたくしも兄もライサも、そう信じて疑いませんでした。

 ですが。



『この愚か者!』



 お父様はわなわなと拳を震わせたかと思えば、やおら立ち上がり、兄の横面を殴り飛ばしたのです。

 魔力をこめた全力の一撃で兄の身体は吹き飛ばされ、壁に叩きつけられました。すやすやと眠っていたアーロンは火がついたように泣き出し、ライサとわたくしはただ震えることしかできませんでした。



『アレクサンドラ様という立派な妻がいらっしゃるというのに、親の目を盗んでこそこそ愛人を囲い、あまつさえ子が産まれたから孫と認めろだと? 狂ったのか、貴様は!』

『ち、父上……』

『しかも相手はライサだと? 信じられん……何のために無理をしてまでライサを結婚させたと思っているのだ……!』



 ライサをにらむお父様の目は、怒りと憎悪に燃え上がっていました。ライサの結婚前、娘同然に可愛がっていたのが嘘のようです。



『父上、ライサは……ライサの夫はひどい男なのです。結婚前から愛人を囲い、産ませた子を跡継ぎにしようと……』

『だから哀れに思い、己の愛人にしたというのか? ……貴様はどこまで愚かなのだ!』



 激昂したお父様が兄に馬乗りになり、胸ぐらをつかみ上げ、無事だった方の頬を殴りました。ゴキッと嫌な音にわたくしたちは震え上がります。鼻の骨が折れたのかもしれません。



『お、お母様、お父様を止めてください……!』



 お父様はお母様の言葉なら何でも聞き入れていらっしゃいました。きっと今も、と期待し、小声で懇願しましたが、お母様は青ざめた顔で首を振るだけでした。



『……ミルカ。お前も知っていたのだな』



 お父様の鋭いまなざしを向けられ、わたくしの心臓は縮みあがります。存じません、ととっさに言いかけ、わたくしは口をつぐみました。ごまかしたところで、調べればわかってしまうことです。



 促されるがままことの次第を白状すると、お父様は大きなため息をつき、うつむいてしまわれました。怒られなかったことには安堵しましたが、なぜでしょう、何かとても大切なものを失ったような気持ちになったのは。



『あなた、申し訳ありません。わたくしがいたらないばかりに』

『お前だけが悪いのではない。大事なことを伝えずにいた、この私も悪いのだ』



 お母様とお父様がお互いに謝っておられます。大事なこととは何なのでしょうか。なぜお母様はわたくしを見て涙を流されるのでしょうか。過ちを犯したのは兄とライサなのに……わたくしはただ、良かれと思って少しだけ力添えしただけなのに。



『その赤子を辺境伯家の一員と認めることはできぬ。出自を伏せ、エイル神殿に入れる』

『……そんな!?』



 お父様の宣言にライサはもちろん、兄もわたくしも愕然としました。

 神官様ならご存知でしょう。エイル神殿は医療の神エイルを奉り、優秀な治癒魔法の使い手を育成しています。治癒の力は誰に対しても平等に施されるべきというエイルの教えにより、神殿に入る者は世俗の身分も権利もすべて捨てなければならず、家族との面会も基本的に許されません。

 つまりお父様はアーロンを世俗から切り離そうとなさっているのです。まだ歯も生えそろわない赤子のアーロンを。



『なぜですか!? この子は……アーロンはヨアキム様の、辺境伯家の血を引く子で……まだこんなにも幼いのに!』

『ヨアキムの子は……辺境伯家の子はアレクサンドラ様のお子でなければならぬのだ。他の女の腹から生まれた子など、存在してはならない』



 抗議するライサにお父様は冷たく言い放ちました。信じられません。優しいお父様が、こんな非道なことを仰るなんて。



 アレクサンドラ様……またアレクサンドラ様です。なぜお父様はここまでアレクサンドラ様に気を遣われるのでしょうか。

 アレクサンドラ様が王女でいらしたから? でもアレクサンドラ様は降嫁され、すでに王女ではありません。わたくしたちと同じ貴族です。貴族夫人なら、愛人の存在くらい笑って許すくらいの器量があって当然ではありませんか。



『……お前には何を言っても無駄だろうな』



 わたくしは必死にお父様を説得しようとしましたが、ただため息をつかれるだけでした。



『ヨアキム、ライサとは二度と会うな。赤子の存在も絶対にアレクサンドラ様には知られないようにしろ。それがお前の、そして辺境伯家のためだ』

『……なっ……、父上、私は……っ』



 兄の返事を待たず、お父様は家令を呼びました。お祖父様の代から仕える家令は、辺境伯家のためならどのようなことでもできる忠義者です。お父様とお母様の結婚には反対していたそうなので、わたくしは苦手なのですが……。



『その赤子をエイル神殿に入れろ』



 泣きじゃくるライサと顔を腫らした兄を見比べ、薄々事情を察したのでしょう。家令は『承知しました』と一礼し、ライサの手からアーロンを取り上げました。



『か、返して! 私の子よ!』



 ライサは必死にすがりますが、あっけなく振り払われ、アーロンは連れて行かれてしまいました。



『ああ、どうしてこんなことに……』



 嘆いたのがお母様なのかライサなのか、ぼうぜんとするわたくしにはわかりませんでした。



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