春風の廊下
初めての投稿です。よろしくお願いします!
いつものように、僕はあてもなく学校の廊下を歩いていた。すると、不意に、誰よりもよく知る人がこちらへと歩いてくるのが見えた。
僕は目をこすった。間違いない。
淡い茶色のストレートヘア、大きくて繊細な瞳、春風のようにあたたかな微笑み。
「遥……君なのか?」
思わず声を張り上げた。鼓動が激しく響く。まるで初めて告白したときみたいに、自分ではもう制御できない。
彼女はそっと微笑んだ。窓から差し込む夕陽のような笑みだった。
——やっと、希望が戻ってきたんだ。
「うん、私だよ」
「ねえ、キスして?」
遥は小さな唇を尖らせて、昔みたいに甘えた仕草を見せる。その声には、変わらない茶目っ気と期待が滲んでいた。でも、彼女の姿はあまりにも儚げで、今にも風に溶けてしまいそうだった。
彼女の声はとても軽やかで優しい。春風が柔らかく吹き続ける。彼女の語り尽くせなかった物語を、風が代わりに囁いているようだった。
「……遥」
僕はそっと名前を呼び、手を伸ばした。けれど、指先が触れたのは、あたたかいのに、何もない空気だった。
——あのとき、休み時間に彼女を呼び出さなかったら。
——もしも、あの瞬間がなかったら。
彼女は、今も僕に向かって駆け寄り、抱きしめてくれていただろうか?
それでも、遥は変わらず微笑んでいた。彼女の瞳の奥には、消え入りそうな光が瞬いている。
——もし、あの事故さえなければ……。
「……ごめん……」
声がかすかに震える。
でも、僕に何が言えるの?
彼女はただ、穏やかに微笑んでいた。責めることもなく、まるで最初から許していたかのように。
「はいはい……もう泣かないで……っ……私も……私だって……泣いちゃいそうなんだから……」
遥はそう言いながら、そっと僕の頬に手を伸ばした。人差し指で最初の涙を拭おうとする。けれど、涙は彼女の指をすり抜けて、静かに地面に落ちた。
「ぽたん。」
滴る雫が波紋を広げるように、記憶が静かに揺らめき始める。
——初春の午後。湖畔の柵に腰かけ、彼女は足をぶらぶらと揺らしていた。
「杉、見て!」
彼女は水面に広がる波紋を指さす。
「私たちみたいじゃない? ほんの少し変わるだけで、遠くまで広がっていくの」
「ぽたん。」
——夏の夜。二人でこっそり学校のプールに忍び込んだ。彼女が僕に水をかける。僕はふざけて怒ったふりをする。でも、結局、僕も彼女と一緒に笑い出してしまう。
波立つ水面に映るのは、月のぼんやりとした光。世界には、もう僕たち二人しかいないみたいだった。
「ぽたん。」
——秋の運動場。彼女は観覧席に寝そべり、雲を数えていた。
「ねえ、杉。私たち、ずっと一緒にいられるのかな?」
「当たり前だろ、バカ」
僕は彼女の髪をくしゃっと撫でた。彼女は頬をふくらませ、でもすぐに笑い出した。
「ぽたん、ぽたん、ぽたん……」
……だけど、冬が来た。
まだ溶けきらない雪が、道路の端に積もっていた。冷たい風が頬を刺す。
僕は学校の門の前で、彼女を待っていた。ポケットの中の携帯が震える。
「もうすぐ着くよ!ちょっと待ってて!」
そんなメッセージが届いた、すぐそのあとだった。
「ギィイイイ――ッ!!!」
タイヤの空転する音、ブレーキが引き裂くような音。世界が、一瞬にして壊れる音。
駆けつけたときには、彼女はもう歩道に倒れていた。積もった雪が、赤く染まっていく。
かすかに震える手が、何かを掴もうとして、静かに落ちた。
僕は彼女を強く抱きしめた。でも、彼女の瞳は、徐々に焦点を失い、最後には、ただ淡く微笑んだだけだった。
その笑顔は、今とまったく同じだった。
「さあ、目を閉じて……」
言われるままに、そっと瞼を下ろす。
近くに感じる。肌に触れるぬくもり、髪から香る甘い匂い。
そして、右肩に寄りかかる、小さなすすり泣き。
「っ……わたし……ひっく……会いたいよ……!」
沈む夕陽の下で、僕たちはただ、泣き続けた。
——このまま時間が止まってしまえばいいのに。
「ねえ……また、どこかで会えたらいいのにね……」
彼女の声は、風に溶けて消えていった。
気づけば、遥の姿はすっかり薄れていた。まるで、湖面の波紋が、静かに消えていくように。
「……バカ……」
「……ちゃんと生きるんだよ……」
春風がそっとため息をつく。その吐息に乗って、彼女の最後の残像も、どこかへ運ばれていった。
長い廊下は、また静寂に包まれる。
でも、右肩にはまだ、彼女の髪の香りと、涙の温もりが残っていた。
「……ちゃんと生きるんだよ……」
毎日そう思ってる。
とにかく、すぐにまた会えるよ。
だよね?
だよね……