悪夢は続く
(ン……?)
ふと、目が覚めた。
気づけば眠りについていたようだ。一体いつ夢の中に入ったのか。思考を煮詰めていて、全く気が付かなかった。
と、彰人は自身の異変に気付いた。身体の身動きが全く取れない事に。
(……くそ、金縛りか。久々だな)
十~二十代の若者に起きやすいという、睡眠障害の一種である。一番最初にこれにかかった時は、心霊現象と思い込み、身体も動かせない事にパニックになったのも昔の話だ。
疲れやストレスが溜まってきているからだろうか。特にきのう一日は、ストレスフルな出来事の連続だった。
目は確実に覚めているはずなのに、身体はまるで動かない。辛うじて動くのは首くらいか。気持ち悪い、嫌な感覚だ。縛られている、と言うのもそうだが、まるで身体全体がギチギチの狭い箱に閉じ込められ、身動きが取れなくなっているような感覚だ。暑さと苦しさとで、脂汗がだらだらとにじんでいく。
頼む――早くおさまってくれ。
そう願った、その時だった。
ばん
物音がした。
(何の音だ……?)
薄い壁を叩いたような。それも、内からではなく、外から。
窓を叩く音だろうか。サッシ窓のガラスを、外から。
窓ガラスを、外から?
何のために? そして、誰が?
……まさか。
もがきながら、彰人は音のした方向に首を横たえる。そこには――。
「………ッ、………ッ!!」
カーテンの越しのサッシ窓。その外に立つ、黒い影。カーテンの僅かな隙間からのぞく、長く垂れた黒髪。そこから垣間見えた、不気味に笑う口元。ボロボロの服装。
間違いない。あのT字路の女だ。
何故、ここにいる。目的は何だ。何なのだ。姿を目撃した者は、生かしておかないとでもいうのか。恐怖が、彰人の心を食らい尽くしていく。暑さと苦しさで滲んだ汗が一瞬で凍り付いた。
悲鳴を上げようにも声が出ない。パクパクと、金魚のように口だけが虚しく動く。
女は、まるで恐怖を煽るかのように、恐怖に喘ぐ彰人をせせら笑うかのように、その場に立ち尽くしていた。
そして次の瞬間、彰人は信じられないものを見た。
カラ……カラ……
窓が、窓が開いていく。ゆっくりと。だが確実に。
バカな。そんなはずはない。窓は、確かに施錠した。開くはずがない。彰人の驚愕とは裏腹に、ついに全開になる窓。女が侵入する。ずるり、と獣が這うように。床をつたう液体のように。
ずるり ずるり
服が畳を擦らせる音が響く。
ずるり ずるり
女が接近してくる。白い手から生えた爪を畳に突き刺し、床を這いながら。
女が通った後には蛞蝓の粘液の跡のように、黒いシミがこびりついていく。鼻腔を槍で刺すかのような強烈な悪臭。恐怖と一緒に胃酸が逆流するような想いだった。
(来るな……来るなよ……!!)
そしてついに。金縛り状態の彰人に、馬乗りになる女。
振り乱した髪の中に彰人の顔が包まれる。女の顔を伝い、ボタ、ボタ、と彰人の顔に落ちる黒い液体。いやいやと払いのけようにも、相変わらず身体はピクリとも動かない。
女が顔を近づけてくる。この顔を見ろ、とでもいうかのように。暗がりと女の髪の中で、視界は完全に闇に閉ざされる。
もうダメだ。――闇に喰われる。呑まれてしまう。
「やめろおおおおおお!!!!!」
絶叫を絞り出したその瞬間。
彰人はようやく、金縛りから解放された。
「――はあっ!?」
勢いよく息を呑み込む形で、彰人は目覚めた。
くわっと見開かれた目。カーテンの隙間から差し込んでくる朝陽の光が眩すぎて、思わずウッと目を瞑る。
ピピピピッ ピピピピッ
こちらの気などお構いなしに、目覚ましがけたたましく鳴り響く。彰人は少々乱暴に、それを叩いて黙らせると、汗まみれの顔を手で覆い、そして拭った。
「……はっ、はっ……はあ……はあ……」
荒い息。体中から噴き出た大量の冷たい汗が、布団のシーツとシャツとを濡らしている。
夢——だったのだろうか。
あまりの恐怖に、失禁という名の寝小便をしていないか、恐る恐る確かめる。股間の一応の無事を確認すると、今度は女が這った部位と窓とを目視で確認する。恐怖の余韻冷めやらぬ中、戦々恐々としながら。
「何ともない……。よ、良かった。夢だった……」
ここにおいて、ようやくただの悪夢であったことを確信し、彰人は胸を撫で下ろした。そして、布団の上に顔面から突っ伏した。
「……最悪の夢だったよ」
「あらら。夢にまで出てきちゃったのね。よしよし」
頭を撫でて慰めようとする琳。夢の中まで怪異に襲われそうになるなど、最悪の夢見である。
彰人は久しぶりに、島津屋、琳と三人で登校することに相成った。
幼き日。まだ互いに歳が二桁にならないような時分に、この三人が揃ったときは、大体が千歳家でゲーム大会になっていた。こうやって外を三人で並んで歩くのは、実は滅多にないことだった。
先日の木曜日は本当に色々なことがあった。本当に。
新たな怪異に遭遇するわ、車で大事故を起こす一歩手前まで追い込まれるわ。挙句、夢の中にまで怪異に襲われるなど、どこにも逃げ場がなかった。
彰人は、少し精神的に参っていた。恥ずかしい話だが、今だけは話を聞いてくれる誰かが隣にいてほしかった。ただでさえ通学路の途中には、あのT字路を経由するのだ。
「彰人氏はそういうのを引き付ける体質でもあるのかも知れぬな」
「最近、本気でそう思うようになってきた……」
彰人は顔を手で覆いながらぶんぶんと首を振る。
「草。お祓いでも行くかね。ドーマンセーマンって」
「それ、たぶん相手が幽霊以外のヤツだったら意味ないですよ島津屋先輩……。そういうの、《《先輩が一番わかってるでしょ》》」
「ムハハ。確かに確かに」
「こーら、恒くん。からかわないの」
「おっと」
一応、島津屋とも彰人は幼馴染ではあるのだが、琳のように「恒くん」とは呼ばせてはくれない。
曰く、この呼び方は「嫁専」。つまり、琳だけにしか使わせたくないらしい。頑なに「先輩」と呼べと言われる。何なら、「先輩」呼びの価値についても、長々と持論を語られたこともある。
例のT字路に差しかかった。正直、近付くのは今は御免な気分だったのだが、島津屋がどうしても見てみたいと興味を持ったのだ。まるで異界の入口に立っているような感覚だった。
「あそこ。あの電柱の下に、例の女が立ってた」
彰人は、夢に出てくるほどまでに縁ができてしまった、例の女が立っていた電灯付き電柱の根元を指さす。
「ここ毎日通るのに、嫌な気分だよね」
心底嫌そうに、眉根を歪ませる琳。
「なるほど。ここが、あの女の電柱ね」
島津屋はほほう、と反応した後、ずかずかと、遠慮なくそのT字路に入っていった。頼もしいのか無鉄砲なのか。
恐れや躊躇いなど感じさせる前に、慌てて琳と彰人はその背中を追った。