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「お待たせして、申し訳ございません、シグネル侯爵様。キャネマル商会長のセリナでございます」
「久しぶりだな、セリナ殿。こちらこそ、急な訪問で申し訳ない」
以前の不遜な態度は幻だったのかと思うほど、目の前に座るリセナイア様の表情は、穏やかだった。しかも、そこには、私への親愛の情まで見て取れた。
一体、彼に何があったのだろうか。初めて会った時のリセナイア様は、研ぎ澄まされた刃のように近寄り難い人だったのに。
なんだか詐欺に遭っているようで、胃がピリピリと痛んだ。
警戒を強めた私は、営業用の微笑を貼り付けて、嫌味入りの言葉を吐いた。
「これでも私、とても忙しいのですよ。要件は、手短にお願いしてもよろしいでしょうか?」
「…ああ。私は…、今日、今までのことを貴女に謝罪するために、ここへ来た」
「謝罪…」
「ああ」
「貴方が、謝罪…」
苦情を言われると思って気構えていた私は、ポカンとした顔でリセナイア様を見つめる。
すると、彼がいきなり立ち上がって、床に膝を突いた。その様子に、側で控えていた侍女や、彼の従者が息を呑む。
「セリナ殿、愚かな私は、偽りの噂を鵜呑みにして、貴女に酷いことをした。申し訳なかった。シグネル家を代表して、貴女に謝罪する」
「はあ…、そうですか」
突然過ぎて、何も考えられない私は、薄い反応しか返せない。そんな私に、リセナイア様の従者が、慌てて声を上げた。
「奥様!リセナイア様が、騙されたのには理由があるんです!」
「止めろ!」
リセナイア様が止めると、従者は神妙な面持ちで、口を閉じた。
「すまない、彼は、私の長年の従者で、名は…」
「あっ!紹介していただかなくて結構です!シグネル家と関わる気はありませんから」
私が、リセナイア様の言葉の先をバッサリと切り捨てると、彼と彼の従者は、ショックを受けたように目を見張った。
それでも、私は、彼らを傷つけたいわけじゃなかった。やり返したいわけでも。けれど、これだけはケジメとして、はっきり言わなければいけないと思ったのだ。これからの私達のために。
「謝罪、確かに受け取りました。シグネル家と我がクライブ家が啀み合っていても良いことなんてありませんから。でも、私達は、今まで通り、関わらずに過ごしましょう。今更私が、侯爵家に入っても、混乱を招いてしまいますもの。ですから、侯爵様は、愛妾をお迎え下さいな」
「そんな不誠実なことはしない!」
「そうですか?でも、後継は必要でしょう?」
私達の結婚は、皇帝陛下の勅命で成されたものであるため、離婚は難しい。だから、愛妾の提案をしたのだけれど、リセナイア様はお気に召さなかったらしい。彼の顔色が、真っ青だ。
それで、私はピンと閃いた。
「あっ、なるほど!分かりました!侯爵様は、商会が独占販売している薬が欲しいのですね!」
帝国最大の海の玄関口であるシグネル侯爵領の港は、他国の商船や貴賓を乗せた軍艦など、多種多様な船や民族がやって来るため、トラブルが多発していると聞く。そこを警備するシグネル侯爵家専属の騎士団は、それだけ怪我人も多いのだ。だから、万能傷薬を確保するために、商会長である私との繋がりを失いたくないのだろう。
「侯爵様、万能傷薬の件でしたら、ご心配なく。シグネル領とも、きちんとお取引しますよ。もちろん、お得意様には多種多様なサービスもございますので、何でもご相談下さい」
私は、常備している申し込み用紙を侍女に持ってきてもらった。
「こちらが申し込みの書類でございます。必要事項を記入して、商会までお持ち下さい。担当の者を準備して、お待ちしております」
「あ、ああ…、って!いや、そうではなく…」
私が発言する度に、リセナイア様が気力を失くしていっている気がする。けれど、次の瞬間には、持ち直したのか、はたまた、覚悟を決めたのか、彼は、床に膝を突いたまま、真っ直ぐに私と視線を合わせてきた。
その青灰色の瞳に、確かな熱を浮かべて。