2-25
痛い。
苦しい。
死にたくない。
でも、どんなにもがいても、死神の手は私の首から離れない。
誰か、お願い、助けて…。
助けて、リセ…。
「セリナ!」
名前を呼ばれた瞬間、闇が晴れた。
そのまま導かれるように目を開けると、そこは見覚えのある部屋だった。
風を孕んだレースのカーテンが、青の壁が映える部屋の中を揺蕩っている。その光景は、まるで海の中にいるよう。
そう言えば私は、この部屋の窓から見える海を殊更気に入っていたのだった。
私は、カーテンの隙間から溢れる日の光に手を伸ばした。
すると、その手をそっと掴まれる。
「良かった、目が覚めたか…」
「リセ」
「安心していい。ここは、侯爵家の貴女の部屋だから」
私は、リセの手を借りてゆっくり体を起こし、周りを見回した。久しぶりの自分の部屋は、出て行った時と何も変わっていなかった。
帰ってきたんだ…。
ふと、私はそう思った。
あれだけ嫌いだったこの邸が、いつの間にか私の帰る場所になっていた。
「ありがとう、リセ。私を助けてくれて」
「間に合ってよかった…」
ベッドに腰掛けたリセが、優しく私の頭を撫でる。壊れ物を扱うかのように、恐る恐るといった手付きで。
その顔には、なぜか悲痛の表情が浮かんでいた。
「ど、どうしたの、リセ?もしかして、貴方も怪我をしたのですか!?」
「違うんだ、セリナ…。私は、貴女を裏切ったんだ。すまない…、本当にすまない」
突然、リセが立ち上がり、床に膝を突く。そして、何度も謝罪の言葉を口にした。
私を裏切ったとは、きっとディライラ王女のことだ。
リセは、私と離婚して、彼女を迎え入れたいのだろうか。
リセがそう思うのも仕方ない。
私のような可愛げのない女より、愛想のいい美しい王女の方がいいに決まっているもの。
でも、今はまだ、そんな話は聞きたくなかった。
そして、今更ながら自分の気持ちに気付いてしまった。
私は、リセに絆されていたらしい。
関わりたくないと、どうでもいいと思っていた人なのに、今は、離れると寂しい。
毎日のように粘着質な愛を押し付けられて、私は、いつしかこの愛を、心地良いと思うようになってしまっていたのだ。
それがたとえ偽りだったとしても。
心の何処かが決壊して、私の目に涙が溢れ出す。
その涙が流れ落ちる瞬間、体を強く引き寄せられた。私の体をリセの温かな腕が包み込んだのだ。
「泣かないで、セリナ。全ての責任は、私が取るから。どうか私に、罪を償わせてくれ」
「グスッ、…リセの、馬鹿…」
「そうだな。そんな愚かな男の話を聞いてくれるか?」
私は、抱き締められたまま、諦めの気持ちで、リセの話に耳を傾けた。
そして、私は思った。
思っていたことと違うと。
そもそも、王女とリセは恋仲ではなかったらしい。あの王女と結婚なんてありえないそうだ。私は、偽の新聞に騙されていた。
だからこの際、私のことが本当に好きなのかと、リセに聞いてみた。そうしたら、好きを通り越して、どこかに閉じ込めたいほど愛しているのだと力説された。
ここまで愛されると逆に、私の淡い恋心は引っ込んでしまう。
先程まで私が感じていた悲しみと後悔は何だったのだろう。
溢してしまった涙を返して欲しい。
私は一度、リセの腕から抜け出して、彼と真正面から向き合った。
「セリナ、本当にすまない。貴女の大切な研究に泥を塗ってしまった。私はこの手で、貴女の名誉に傷を…」
「リセ、大丈夫です。私は名誉なんて気にしていません。もう謝らないで下さい」
今回の騒動の顛末を聞いて、私にはもう一つ思った事がある。本来の囮は、私ではなく、リセだったのではないかと。
皇帝陛下は、この計画にリセを引っ張り込むために、私を表面上の囮にしたのではないだろうか。
なんだか、皇帝陛下にいいように使われているリセが可哀想になってきた。
私は、そんなリセの苦労を労るように、彼の頭を撫でた。
その手を、リセがパッと掴んで、自分の方がに引き寄せる。
「私を許してくれるのか!?」
「許すも何も、リセは何も悪くないのではないかと…」
「しかし、私は、故意に貴女の大切な研究成果を、あの女に盗ませたんだ」
「でもあの鎮痛薬、使えなかったでしょう?」
研究段階では分からなかったけれど、ネーレの出産のために作ってみたら、重大な欠陥があることに気付いたのだ。水に混ぜた状態のものに触れると皮膚が被れるという欠陥に。
副作用がないことを謳った薬なのに、そんな欠陥があったのでは使えない。だから私は、その鎮痛薬の製法を破棄し、新たなものを作り直したのだ。
「あの鎮痛薬が未完成だった結果、王女の罪を炙り出せたけれど、同時に、薬害の被害者も出してしまいました。それは、私の責任でもあります。だから、このままにはしておけません」
「セリナ…、貴女は本当に優しいな。どうか、私にも手伝わせてくれ」
「貴方が協力してくれたら助かります。よろしくね、リセ」
「ああ」
二人で頷き合うと、なぜか再びリセに抱き締められた。




