リセナイア 12
皇帝陛下より与えられた許可によって、今後青真国から入ってくる多種多様な薬品を研究出来るようになったセリナは、毎日浮かれていた。
そのための研究施設も既に用意されていると聞き、皇帝陛下に心酔すらしているようだった。
元々あの方は、優秀なセリナに研究の一部を任せる気でいたというのに。セリナに与えたイオリアの地に、研究施設を作っている時点で、おそらくそれは、随分前から計画されていたのだ。
本当に私の妻は、抜けている。
まんまと、腹黒い男に利用されているのだから。
けれど、それも今回限りだ。
皇帝陛下といえど、次はない。
セリナは、私の内に囲い込むと決めたから。
愚かな彼女では気付けない蜘蛛の巣のような真綿の檻に。
だから今だけは、聞き分けの良い夫を演じて、セリナをイオリア領へ送り出した。もちろん、私の影の腹心を数名忍び込ませて。
セリナがいない侯爵家は、太陽を失ったように寒々しくなった。
使用人達も女主人の不在に、やる気を失っているようにみえる。セリナの周りは温かく華やかだったから、無理もない。知らず知らずのうちに、凡人は彼女の輝きに惹かれてしまうのだ。
私は、どうしようもない想いを抱えながら、セリナへ手紙を送り続けた。部下のリールに、毎日手紙を送ると迷惑だと忠告されたため、渋々三日に一度にしたが。そのせいで、今回も大分分厚い手紙になってしまった。
セリナは、これを読んでどんな返事を書いてくれるだろうか。
とても楽しみだ。
残念ながら大抵は、一二行の短い挨拶文と、仕事の報告書のような研究レポートが返ってくるだけなのだが。
それでも、彼女が私のために貴重な時間を割いてくれていると思うと心が歓喜に震えるのだ。
私が物思いに耽っていたその時、執事が神妙な面持ちで部屋に入ってきた。
「旦那様、港から連絡がありました。青真国の貿易船と共に、フレイア王国の使者も到着したようです」
「そうか…。予定通りだな。今から向かう」
執事から報告を受け、私は重い腰を上げた。
これから私がやろうとしている事は、セリナへの裏切り。彼女への申し訳なさに、胸が痛んだ。
けれど私は、一度全ての感情を自分の奥底に押し込めた。
これは、シグネル侯爵として仕事をする際の私の儀式。若くして父から爵位を継いだ時に決めた私の覚悟だった。
大貴族の当主は、綺麗な道だけを歩いていけるわけではないから。感情を殺し、その心に仮面を付ける必要があるのだ。
シグネル侯爵の仮面を被った私は、これから罠に嵌める相手の下へゆっくり足を向けた。
シグネル侯爵として、無感情で仕事をしていると、無機質な時間は、あっという間に過ぎていった。
そんな日々は、夜が来ると虚しさが襲ってくる。セリナがいない寝室は、寂しくて仕方がないのだ。
それは、私が日夜相手にしているフレイア王国の使者のせいでもあった。
「リセナイア様!今日はどちらに連れて行ってくれるのです?フフ、今日のデートも楽しみですわ!」
「侯爵殿、本日も姫様をよろしく頼みますぞ。姫様は、貴方を随分と気に入っておられるようですからな」
朝食の席で、騒いでいる派手な女は、フレイア王国第五王女ディライラ。そして、その隣にいる禿げた男が、同国の外務大臣だ。
この二人は、青真国と我が国、そしてフレイア王国の三カ国で結ぶことになった貿易協定を確認しに来た使者だった。
けれど、それは表向きに過ぎない。本来の目的は、無理矢理入り込んだ貿易に、文句を言わせないようにするため、第五王女と私を縁組みしにやってきたのだ。
そんな愚かな二人が、今回、皇帝陛下に押し付けられた私の標的だった。
私は盛大に溜息を吐き出したいのを我慢して、目の前の王女に視線を合わせた。するとまた、王女がその甲高い声で騒ぎ出す。
「それにしても、侯爵夫人は酷い女ね!こんなにも優しいリセナイア様を放っておくなんて!妻失格だわ!巷では、才女なんて言われているようだけど、本当かしらね。ねぇ、リセナイア様。私も母国では、優秀な王女と民に慕われているのよ」
「その通りです。姫様は、自ら商会を運営しているのですよ!自国の経済発展のために。本当に素晴らしい」
「ウフフ。リセナイア様、近々、私の実力をお見せしますわね。そして、夫人よりも私の方が、このシグネル領に有益な人物だと立証してみせます。そうしたら、私をお側において下さいまし」
王女は、席を立つと、身の毛もよだつ笑顔を浮かべて私の右頬に触れた。そして、大胆にも顔を寄せてくる。
私は、咄嗟に手元のグラスを倒して、それを躱わした。
「すみません、殿下。お怪我はありませんか?」
「え、ええ…」
「ああ、そろそろ時間ですね。では、殿下、また後ほど」
吐き気を必死で我慢して、私は不快な空間から脱出した。
部屋に戻る廊下を足早に歩いている内に、押し込めていた感情が湧き出てくる。
愛しい人を馬鹿にされ、私の中で怒りが燃え上がってしまったのだ。
もう少し、あともう少しの辛抱だ。
あの馬鹿な女は、いずれ私の仕組んだ罠にかかるのだから。
私は、自分に強く言い聞かせた。
その時の私は、無意識に、王女に触れられた右頬を、何度も何度も擦っていた。




