2-15
「キャネマル商会の本店をこちらに移すのはどうだろうか?」
「え?」
強い意思が籠った声色で、リセが、私にそう言った。その時の彼の瞳が、どことなく憂いを帯びているように感じたのは、私の気のせいだろうか。
けれど、瞬きをした一瞬の間に、潤んだ青の瞳は、普段の彼のものに戻っていた。
私は今、リセから何を感じ取ったのだろう。
僅かに抱いた疑問に首を傾げていると、私の肩に置かれていたリセの手が腰へと下りていく。そして、その腕が、きつく私の体を抱きしめた。
「セリナ、私は、貴女の全てが愛しくて仕方ない。ずっと側にいてくれ。お願いだ…」
最近、スキンシップには慣れたと思っていたのに、これは駄目だった。
耳元を擽る甘い吐息、薄い寝衣越しに伝わってくる熱と鼓動が、私を狂わせていく。呼吸が浅くなって、体中の血がもの凄い速さで駆け巡った。
「リセっ…」
「私から離れていかないでくれ。何でもするから…。帝都に帰りたいなら、それでもいい。私も共に行く。私との間に子供が欲しくないのなら、養子を取ろう。侯爵夫人の仕事だってしなくていい。だから!」
「リセ、落ち着いて!」
リセは、私の体をギュウギュウに抱え込んで、肩口にグリグリと額を押し付ける。
一心に私だけを欲するリセの姿が、私の心を大きく揺さぶった。
そして、リセにこんな事をさせている原因が自分だと思うと胸が締め付けられる。心も心臓も暴れすぎて痛かった。
でも、それ以上に、肩が痛い!
冗談ではなく、鎖骨が折れそう。
私の肩に押し付けられたリセの額が強く擦れて、今にも皮膚が抉り取られそうなのだ。
本当に痛いから、今すぐ離れて欲しい!
「わ、わかった!分かりました!いる!一緒にいる!だからお願い、落ち着いて!」
「本当か!?ありがとう、セリナ!」
暴れるような心臓の昂りと肩への激しい痛みに我慢が利かなくなった私は、冷静な判断力を失ってしまっていた。だから、私の口から、考えなしのいい加減な言葉が飛び出す。そして、我に返って、自分のまずい発言に冷や汗を流した。
それでも、リセが本当に嬉しそうな、幸せそうな顔で笑っていたから、訂正なんて出来なかった。
これは、詰んだのかもしれない。
「えぇっと…、その…、ハハハ…」
私から諦めの乾いた笑いが漏れ出る。
けれど、言ってしまった言葉は、もう取り戻せない。
仕方ない。
腹を括ろう。
どうせ私達は別れられないのだから。
でも、今日はこれ以上何も考えられる気がしなかった。具体的にこれからどうするか、二人で色々と考えなければいけないのに、この時私の頭は、正常に働いてはくれなかった。
そんな私の下に、猫達が集まってくる。
私は、巻き付くリセの腕を無理矢理外して、猫達をこれでもかと愛でまくった。癒しのひとときで、少しでも現実から逃避するために。
その後、私は、朝までぐっすり眠ってしまったらしい。朝日の眩しさに瞼を開けると、リセが私を抱え込んで眠っていた。
もちろん、それを見た私は、大きな叫び声を上げた。
麗らかな午後、予定通り帝都へ戻る皇帝陛下を見送るために、シグネル家一同がエントランスに勢揃いしていた。大貴族であるシグネル家の親類や使用人が、一様に神妙な様子で居並ぶ様は、見ているだけでもお腹がピリピリする。非常に居心地が悪い。
その最前列、リセの隣に並ぶ私は、ひたすらに気配を消して静かに佇んでいた。これ以上、面倒な事に巻き込まれないよう必死で祈りながら。
そんな私の心の内などどうでもいいかのように、皇帝陛下が私へ声をかけてきた。
「シグネル夫人、そなたとの時間は、実に有意義なものだった」
「それは、大変光栄でございます。ぜひ、またお越しくださいませ。道中お気を付けて」
私は皇帝陛下に向かって深く頭を下げる。
これでやっと緊張から解放されると思うと、私の肩から少しだけ力が抜けた。
けれど、その時、こちらに背を向けたはずの皇帝陛下が足を止めて振り返る。その口角を僅かに上げて。
「そういえば、近々ここへ、青真国からの商船がやって来る。今回の礼に、その荷を見せてやろう。夫人は、東洋の薬に興味があるだろう?」
「青真国の薬ですか!?そんな希少なものに私が触れてもよろしいのですか!?」
「ああ。そなたなら何の問題もない。そうだろう、侯爵?」
皇帝陛下から是非を問われたリセは、無表情で頷き返す。そこにどことなく不機嫌さを感じ取ったけれど、薬のことで頭がいっぱいになっていた私は、他のことに気を向ける余裕はなかった。




