2-13
ホールに響いていた流麗な演奏が、突然、拍子の外れた不協和音に変わる。その音楽で踊っていた男女も、ピタリと動きを止め、こちらを凝視していた。
「あら?どうしたのかしら?」
私の呟きに、誰も答えてはくれない。
私は、益々首を傾げた。
その時、私の腰を支えていたリセの腕が一瞬離れ、今度は背中と太ももに回る。そして、危なげなく私の体を抱き上げた。
これは、俗に言うお姫様抱っこ。
こんなに人目がある所で。
私は、文句を言おうと真上にあるリセの顔を見上げた。するとすぐに、真っ赤に染まったリセの顔が目に入る。彼の額に付いた口紅の跡にも。
その瞬間、私の顔も頭も一気に熱を持った。
「ごめんなさい、リセ!私、こんな人前でなんてことを…。ど、どうしましょ!?誤魔化せばいいの!?それとも逃げるべきかしら!?」
額への口付けは、信頼と深い愛情の印。
それを人前でする事は、決してタブーではないけれど、今後、いわゆる『馬鹿ップル』のレッテルを貼られることになる。
それだけは、絶対に嫌。
私は、間違えてしまっただけ。
猫達と過ごすうちに、可愛いものに口付けをする習慣が付いてしまっただけなのだ。
パニックになった私は、リセに縋り付く。そんな私に、リセがゆっくり顔を寄せた。
「ブフッ……」
柔らかく湿った感触が、一瞬私の額に当たり、離れていく。その様子を瞬きもせずに見ていた私から、奇怪な声が漏れ出た。
そこからは、もう何も考えられなくなった。
私は、リセの胸へもたれかかって、耳を塞ぎ、顔を隠す。そして、リセの歩く振動に意識を集中して、現実から目を背けた。
だから、リセが溢した「可愛い」という囁きは、私には届かなかった。
ぼうっとしている内に、寝支度が整えられ、気付くと私は、自室のベッドに横たわっていた。控えている侍女達も、既に誰もいない。今は切実に、誰かに話を聞いて欲しかったのに。
ソワソワがぶり返した私は、ベッドから出て、月が見える窓際に移動した。
あれからパーティーは、どうなったのだろう。
終盤とはいえ、主催者が途中で消えるなんてありえない。しかも、皇帝陛下を招いたパーティーで。
最後の最後でやってしまったと、私は頭を抱えた。
その時、私の肩にふわりと軽い温もりが掛けられた。肌触りの良い大きなガウンからは、香水とは違う男性の香りがする。
「風邪をひく」
「こんな時間に、レディの部屋に入るなんて!しかもノックもなしに」
「ノックは何度かした。気が付かなかったか?だが、私達は夫婦だ。いつ共に過ごしても何も問題ない」
どさくさに紛れて、リセが私に抱きつく。ついでに頬擦りまでしてきた。
非常に鬱陶しい。でも、温かい。
思いの外、私の体は冷えていたらしい。リセの高い体温が心地良くて離れ難い。
私は、絆されているのだろうか。
少し前まで、彼のこのスキンシップが嫌で仕方なかったのに、今はそうでもない。
私もそろそろこの後の生活を、本気で考えなければいけない時期が来たのだ。
帝都の邸に帰って元通りの生活を送るか、それとも、このままここに残って侯爵夫人を続けるか。
でも、未だ答えが出そうもない。
私はリセに気取られないよう息を吐き出すと、名残惜しい気持ちに蓋をして彼の腕から逃れた。
「リセは、なぜこちらに?」
「隣の私達の寝室に茶を用意したんだ。寝る前に少し話をしようと思って」
「私達の寝室?」
「昨夜共に眠った寝室は、夫婦用の寝室なんだ。私も、普段からあの部屋を使っているわけではないのだが、猫達が騒いだ時だけは、あそこで寝るようにしていた」
それは知らなかった。
前回入った時、お酒の棚など、全体的に男性仕様のような感じがしたからリセの寝室かと思っていた。
でも、だからといって、今更入りにくい。と言うか、気恥ずかしい。
どうしようかと迷っていると、私の足にベルベットのような柔らかな感触がすり抜けた。
「ニャーン」
「あら、キャル!どうしたの?一緒に寝る?」
甘えてきたキャルを抱き上げようとしたら、簡単に逃げてられてしまった。そして、そのまま夫婦の寝室だという部屋に消えていく。
私は、そんなキャルに誘われて、隣の部屋を覗いた。すると、なぜか猫達がベッドの上に大集合していた。
「え?え?なんで?なんで、みんないるの?そんなにリセと寝たいの!?私は!?」
私もベッドに上がって、寝ている猫達に迫った。でも、誰も私に反応してくれない。酷い。
パタンとドアが閉まる音の中に、猫の鳴き声が聞こえて振り返ると、キャルがリセに体を擦り付けていた。私なんて、無視されているのに、リセばかり狡い。
「リセは凄いですね!女性にも猫にもモテモテで!」
「クク、ヤキモチかい?」
「違います!嫌味です!」
「ああ、なんて可愛らしい…」
リセが、怒りで膨らんだ私の頬に触れる。私はその手をはたき落とした。




