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「そろそろ私のことは、『リセ』と呼んでくれないか?」
耳元に蕩けるような熱を吹き込まれて、私の体がピシリと固まる。
私は、今言われた言葉を反芻してから、リセナイア様の方へ、ぎこちなく首を動かした。
「な、な、なぜ、でしょう?」
「私達の仲を確認しに来るであろう陛下の前で、お互い余所余所しい呼び方は出来ない。今の内から慣れておいた方がいい」
「た、確かに、そ、うですが…」
せめて、「リセナイア様」では駄目なのだろうか。いきなり「リセ」なんて呼べない。
「ほら、今から練習だ、セリナ」
「ギャ!」
自分の名前を呼ばれただけで、こんなにも衝撃を受けるなんて知らなかった。こんなの耐えられる気がしない。
「セリナ?」
「む、無理です!無理無理!絶対無理!心臓が破裂しちゃう!」
私は思わず、胸の前に両腕を重ねる。すると、その腕ごと、リセナイア様に抱き締められた。
「ハハハ!セリナは、こんなにも私を意識してくれているのだな!」
「なっ、なっ、何なんですか!?放してーーー!」
「こんな可愛いセリナを放せるわけがない。ほら、セリナ、リセと言ってみなさい」
こんな開放感のあるエントランスのど真ん中で恥ずかし過ぎる。
みんなが見ているのに。
声だって響いているのに。
私は、少しでも早くこの羞恥から逃れたい一心で口を開いた。
「…リセ…」
弱々しい私の声が、シンと静まり返ったエントランスにこだましたような気がした。
私は、リセナイア様の反応が気になり、恐る恐る頭を上げる。すると、そこには、顔を真っ赤にしたリセナイア様がいた。
動揺を隠せていないリセナイア様を目の当たりにした私は、その珍しさから、まじまじと彼の顔を見つめてしまった。すると、少しずつ私の中に、歓喜が湧き出てきた。初めて彼にやり返してやったのだと。
けれど、私が勝ったと思えたのは、その一回のみ。
後に散々させられた練習で、私は恥ずかしさに耐えきれず、何度も気を失いそうになったのだった。
早朝からシグネル家の邸内には、バタバタと人が走り回る音が、そこかしこで聞こえていた。
教育が行き届いたシグネル家の使用人にしては珍しい。けれど、皇帝陛下を迎える今日は仕方ない。かく言う私も、朝から慌ただしく支度に取り掛かっていた。
そして、準備を完璧に終えた昼過ぎ、近衛騎士の大隊を連れた華々しい一団が、シグネル港に到着した。
ゆったりとした旅装で現れた皇帝陛下は、その簡易な格好にも関わらず、強者の威厳に満ちていた。にこやかに笑っているのに、目が捕食者のそれなのだ。だから、非常に怖い。
「ようこそお越し下さいました。シグネル侯爵家一同、陛下の来訪を心より歓迎致します」
「侯爵、出迎えご苦労。此度の視察、楽しませてもらうぞ」
「はっ!」
心の中でプルプル震えている私とは違い、リセナイア様、もといリセは、堂々と皇帝陛下へ挨拶を述べる。そんな彼の影に隠れて遣り取りを傍観していると、突然、二人の視線が私に向いた。
残念ながら、私はこのまま傍観者でいられないようだ。
「セリナ、こちらへ」
案の定、リセに呼ばれて渋々彼の横につく。もちろん、必殺の淑女の微笑みで不満は隠して。
「お久しぶりでございます、陛下。長旅で疲れてはおりませんか?すぐにお部屋へご案内致します」
「久しぶりだな、夫人。貴女に会えて嬉しいぞ。ゆっくり才女の話を聞きたかったからな。晩餐を楽しみにしている。ぜひ、心躍る話を聞かせてくれ」
皇帝陛下は、重圧を与えるような一言を残して、シグネル家本邸の中へ入って行った。
その後ろ姿に、私は大きく肩を落とす。この後の地獄の晩餐を想像して。
すると、リセが、項垂れている私の頭を撫で始める。それにイラッとした私は、力一杯彼の手を振り払った。




