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それからの日々は、拍子抜けするほど心穏やかなものだった。
そんな日常の中で、気持ち的には、まだ『仮』奥様な私は、なるべく出しゃばらないよう心掛けていた。とは言え、大変な仕事は、ほとんどリセナイア様がやってくれているため、私は割と時間を持て余した。
だから私は、余った時間でシグネル侯爵領を学ぶことにした。その中で特に、主産業である貿易に興味を引かれた私は、度々、港に降り立った。外国からの商品が多く集まる貿易港は、見ているだけでも勉強になるし、何より楽しいのだ。
そして、私は、気になる物を見つけては、そこから次々に、新たな物を生み出していった。それが後に、シグネル領の特産になっていくとは思いもせずに。
「はぁーーー、今日も沢山働いたわぁー。頑張った私を褒めて!」
私は改築した小さな別邸のリビングで、人目も憚らず猫達と寛いでいた。私が寝そべった大きなソファの横を、猫達が玩具を咥えて駆けていく。楽しそうで何よりだ。
すると、バタンと大きな音を立てて、リビングのドアが開いた。
「みんなが忙しく働いているのに、あんたは、昼寝?随分といいご身分ね!」
突然、ノックもなしに入って来たのは、その顔に見覚えのある本邸の使用人だった。確か、五年前に元侍女長の後ろで私を罵った内の一人だ。あの時侍女だった彼女の制服は、今は下働き用のメイド服に変わっていた。でも、その目は、以前と同様に、私に恨みを抱いている。
「いきなり何かしら?ここへ入る許可は、出していないのだけど?」
「この性悪女!あんたのせいで、使用人が何人も辞めさせられたの!母様だって侍女長だったのに!兄様だって…。私達は、あんたなんかよりずっと、この家に貢献してたのよ!」
「だから?」
「は?」
「そんな事を言うために、私の癒しの時間を邪魔しに来たの?」
私は、ゆっくりソファから立ち上がって、メイドに近付いた。
「使用人と貴女のお母様を辞めさせたのは、シグネル家当主の決断でしょう?不服があるなら、侯爵様に言えばいいじゃない。もしかしたら、考え直してくれるかもしれないわよ?まあ、礼儀知らずの貴女は、下働きのままでしょうけど」
「この、クソ女!」
激昂したメイドが、私に向かってその右手を振り上げる。
一発ぐらい仕方ないかと覚悟した瞬間、私の体が、大きな影に包みこまれた。
「何をしている、ケイニー」
私の頭上からは、リセナイア様の怒りが籠った低い声が、足下からは、猫達の威嚇する声が聞こえる。でも、広い胸に顔を押し付けられている私には、彼らの様子は見えない。
僅かに抵抗してみたけれど、私の体を囲う逞しい腕は、びくともしなかった。
早々に脱出を諦めた私は、体から力を抜く。すると、思っていたより体が強張っていたことに気付いた。リセナイア様の腕に、ホッとしている自分がいることにも。
私は、本当は怖かったのだろうか。
理不尽な怒りをぶつけられる事なんて、何度も経験したから、とっくに慣れたと思っていたのに。
私は、今だけと言い訳をしながらリセナイア様に体重を預けた。
「ナイア!違う、違うの!その女が…、私を馬鹿にしたの。だから…」
メイドが、リセナイア様を愛称で呼んだ。随分と自然に。
それに少し腹が立った私は、無理矢理体をずらして彼の腕の隙間から様子を窺った。
そこから見えたメイドの姿は、先程の太々しい態度をがらりと変え、今にも消えてしまいそうな儚さを醸し出していた。
「だから、彼女に手を上げたのか?」
「そ、それは、ちょっと脅しただけよ!ねぇ、私の味方になってくれないの?私達、小さい頃からずっと仲良しだったじゃない!それに、その女が、学生時代、兄様に何をしたか忘れてしまったの?」
「いい加減にしろ、ケイニー!それは、ライリーの逆恨みだったと説明しただろう!セリナ殿には、何の咎もない!それなのに、彼女を貶めるとは。セリナ殿は、私の妻、正式なシグネル侯爵夫人だぞ!」
リセナイア様の言葉に、メイドは、床に蹲って本格的に泣き始めてしまった。
その騒ぎを聞きつけて、別邸に人が集まってくる。その中から、元侍女長が、人を押し退けながら駆け込んできた。
「ケイニー!何があったの!?旦那様、これはいったい…」
「母様!ナイアが…。ナイアが、私を怒ったの。私は、ナイアのお嫁さんになるはずだったのに…。それなのに、この女が…、兄様を苦しめたこんな女が、侯爵夫人だなんて!そんなの認められる訳ないじゃない!」
「な、何を言っているの、ケイニー!?旦那様と貴女が結婚なんてあり得ないでしょう!なんて、不敬なことを…。しかも、ライリーのことまで…。もうやめて、ケイニー。お願いよ…」
「なんでよ!母様は私の味方でしょう!?ナイアを説得してよ!」
元侍女長親子は、人目も憚らず言い争いを始めてしまった。
それにしても、ライリーとは誰の事だろう。学生時代の私と接点があったようだけど、全く記憶にない。
私は、真上にあるリセナイア様の顔を見上げた。