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リセナイア様に案内され、本邸の奥まった場所を進んでいくと、猫のシルエットが描かれた扉の前に辿り着いた。
その扉をリセナイア様は、躊躇うことなく開ける。
光が燦々と降り注ぐ扉の先は、圧巻の美しさを誇る応接室になっていた。そして、なんとそこは、壁一面がガラス窓になっていて、温室と直結している。
こんな優美な応接室は、今まで見た事がなかった。
「ここは、親族専用の応接室だ」
「応接室なのに親族用なのですか?」
「ああ。亡くなった曽祖母が大の猫好きだったのでな。曽祖母は、自分の大事にしていた猫の婿を迎えるために、この部屋を作って、候補の雄猫を招いたんだ。それ以来、ここは、親族と猫しか使わない」
「まあ!なんて素敵なのかしら…」
その話に感動した私は、誘われるように温室へ続くガラス扉を開いた。すると突然、腕の中で大人しくしていたキャルが、暴れながら飛び出していく。慌てて名前を呼んだけれど、キャルは振り向く事なく、温室の草花の中に消えてしまった。
「キャル…」
「セリナ殿、大丈夫だ。ほら」
大きく逞しい手が、私の肩に乗る。その温もりに振り返ると、優しい顔をしたリセナイア様が、温室の先を見ていた。
彼の視線の先には、キャルによく似た白猫がいた。キャルと白猫は、おずおずとお互いの鼻先をくっつけた後、嬉しそうにその体を擦り寄せ合う。家族の再会を喜び合うかのように。そこへ、いつの間に来ていたのか、ネル達兄弟まで交ざり出した。
「キャル、良かったわね…」
キャルに帰る場所があって良かった。
子供達が受け入れられて良かった。
美しい花に囲まれて、猫達が楽しそうにじゃれ合っている。そんな幸せな光景に、私の目から自然と涙が流れ落ちた。
薄汚れた姿で助けを求めていたあの日のキャルと、誰にも信じてもらえず惨めに過ごしていた自分の過去が、やっと昇華されたような気がして、色んな感情が溢れてしまったのだ。そんな私の涙は徐々に増え、もう猫達の姿は、ぼやけて見えない。
すると突然、私の体を長い腕が、囲い込んだ。そして、トントンと優しく私の背を叩く。心地良い体温と安心する匂いに包まれた私は、抵抗出来ずに、その広い胸を借りて泣き続けた。
可愛い猫の親子を眺めていたら、あっという間に時間が過ぎ去っていた。名残惜しく思いながらも、私は、重い腰を上げる。
すると、思いの外近くにいたリセナイア様と至近距離で目が合った。今の私の顔は、泣いたせいで不細工になっているから、近くで見られたくないのに。
私は、慌てて、リセナイア様から距離を取った。
「あの、侯爵様!キャル達を、少しの間預かっていただけませんか?」
「預かる、とは?」
「せっかく再会した親子をすぐに引き離してしまうのは可哀想なので、キャル達を暫くこの邸に置いて欲しいのです。その間は、私もシグネル領に留まろうかと。今日のところは、そうですね…。とりあえず私は、近くのホテルにでも泊まろうと思います」
「待ってくれ!この邸の女主人は貴女だ。これからは、ここで何をしても構わない。それでも、この邸で過ごすのは嫌か?」
「それは…」
和解したとはいえ、このままここにいるのは、私の中でまだ抵抗がある。侯爵家の使用人達だって、困惑しているはずだ。だから、今は距離を置いた方がいい。
それに、私にはキャネマル商会の商会長として、猫達の生活を向上させるという使命があるのだ。侯爵家の奥様なんてやっている時間はない。
だから断ろうと私が口を開いたその時、リセナイア様が、こちらへグッと顔を寄せてきた。それに驚いた私は、反射的に上半身を大きく仰け反らせる。その反動で、私の体が、ゆっくりと後ろへ傾いた。
その瞬間、リセナイア様の酷く焦った顔が目に入る。その澄み渡った青の瞳に魅せられた私は、無意識に彼へ手を伸ばしていた。
「だ、大丈夫か!?」
「あ、はい。そ、の…、ありがとう、ございます」
倒れそうになった私の体を、リセナイア様の逞しい腕が包み込むように支えてくれている。私が伸ばした手をしっかりと掴んだまま。
恥ずかしい。
リセナイア様にはきっと、私の煩いほどに脈打つ鼓動が、聞こえてしまっているはずだから。
でも、先程散々泣いて縋った場所に戻った私は、不思議と安堵に満たされていた。
そんな私達の下へ、突然、執事が現れる。
私は、咄嗟にリセナイア様の胸を思いっきり押して、彼から離れた。一瞬、リセナイア様から舌打ちが聞こえたような気がしたけれど、気のせいだろう。
「お、お取り込み中、申し訳ありません。その、旦那様に、お客様が来ておりまして…」
「客?今は、取り込み中だ。待たせておけばいい」
「それが…、皇帝陛下から送られてきた使者なのです。すぐに旦那様の返事が欲しいと書状をお持ちでした」
「チッ!面倒な…」
リセナイア様が、憎々しげに、帝都のある方角を睨みつけている。
そんなリセナイア様を横目に、私は、ゆっくりと後ろへ下がった。皇帝陛下と聞いて、何だか面倒事になりそうな予感がしたのだ。このどさくさに紛れて逃げた方がいいと。
けれど一足遅く、リセナイア様に腕を掴まれる。そして、肩まで抱えられ、私は完全に、逃げられなくなってしまった。
「もう日が暮れる。今から港町に行って、ホテルに空きがなければ大変だ。今日は、諦めてここに泊まっていきなさい。ヘルマン!セリナ殿に最高のもてなしを!」
「畏まりました!」
ヘルマンと呼ばれた執事が、私の返事も待たずに駆けていく。
私も一応、彼の主人にあたるはずなのに。
「ほら、おいで、セリナ殿」
「こ、侯爵様!私、まだ…、泊まるなんて…」
リセナイア様は、優しいけれど有無を言わさぬ強さで、私の背中を押した。その強引なエスコートに、私は彼の提案を受け入れるしかなかった。




