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馬車の窓から入ってきた強い風が、ぼんやり外を眺めていた私の下へ海の気配を運んできた。それに釣られて、私の体に緊張が走る。
とうとうここに戻って来てしまったと。
この地には、二度と足を踏み入れないと決めていたのに。
私は、背筋を伸ばして座席に座り直した。そして、目の前に座っているリセナイア様をそっと窺い見た。
帝都を発って二日、私にとってこの道中は、肉体的に楽だった反面、精神的には中々に酷なものとなった。何しろ、移動中はずっと、リセナイア様と一緒だったから。侯爵家の高性能馬車で、至れり尽くせりの待遇を受けていたのに、全然気が休まらなかったのだ。
私は、少しだけ恨めしい想いを込めて、リセナイア様の膝元に視線を下げる。そこには、こうなった原因である猫達が、気持ちよさそうに寛いでいた。
元々、私は、自分の馬車でシグネル家のカントリーハウスに向かう予定だった。
けれど、出発当日、わざわざ様子を見に来たリセナイア様に、キャルだけでなくネル達までもが陥落。リセナイア様から離れなくなってしまった。その結果、私も彼と一緒の馬車に乗る他なくなってしまったのだ。
ネル達三姉弟が、初対面の男性に懐くなんて珍しくて、その様子に呆けていたら、いつの間にか私も侯爵家の馬車に乗せられていた、が正しい表現だけど。
どうにも、リセナイア様の策略に乗せられているような気がしてならない。
そんな疑惑を込めて、再びリセナイア様に視線を向けると、こちらを見つめる光を孕んだ彼の瞳と交わった。
すると彼が柔らかな笑顔を浮かべる。その途端に、私の心臓が高鳴った。
優しいリセナイア様は、心臓に悪い。
これがギャップというやつだろうか。
あれだけ冷たくされたからか、優しくされるとドキドキしてしまう。
自分がチョロ過ぎて凄く嫌。
道中のリセナイア様は、ずっと、私に気を遣ってくれていた。彼は、私に無理に話しかけることはせず、常に程よい距離を空けていたのだ。そこに、さり気ない気配りを見せながら。
それが、私には、擽ったくって、心地良くて、どうしようもない程嬉しかった。でも、そう思ってしまう自分を、私はまだ受け入れられない。
私は、この複雑な心境を隠すために、リセナイア様から視線を逸らし、外の景色に目をやった。
そんな落ち着かない時間を過ごしていると、程なくして馬車が止まった。
結婚して初めて、シグネル侯爵家の本邸へ足を踏み入れた私の前には、使用人が勢揃いしていた。彼らは一様に頭を下げて、私とリセナイア様に恭順の意を示している。以前とは大違いだ。
その中に、いく人か見覚えのある顔を見つけて、私は顔を顰めた。
すると、人好きのする笑みを浮かべた年若い執事が、こちらに近付いて来た。以前の執事は、初老の男性だったから、代替わりしたのだろうか。
「お帰りなさいませ、旦那様、奥様。そして、奥様、今までの無礼、大変申し訳ございませんでした。使用人一同、心より謝罪いたします」
執事が跪いた瞬間、全ての使用人が、一斉に私に向かって頭を下げた。中には泣いている者までいる。
そんな異様な光景に、私が一歩後ずさると、隣にいたリセナイア様まで、その場に膝を突いた。
「使用人達から、貴女を追い出すために嫌がらせをしていたと告白を受けた。ここにいる者は、どんな罰でも受ける覚悟がある。もちろん、それは私もだ。処分は、セリナ殿、貴女に任せる」
「ええっと…、その…、間違いは、誰にでもありますし。今回は、その…、謝罪だけでいいのではないかと…」
本当は、言いたい事も、やり返したい事も沢山あった。でも、元来の私は、小心者だったらしい。これだけ大勢の謝罪を受けたら、今までの恨みなんて忘れて、すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られてしまった。
「貴女は、なんて優しい方なんだ!皆、鞭打ちぐらい覚悟していたというのに!」
「鞭打ち!?いつの時代ですか!?私、そんな事しませんよ!それよりも、ララに会わせて下さい!さっきからキャルが怒ってます!」
私は、侍女が抱えている籠を指差した。その中では、不機嫌そうに、キャルがモゾモゾ動いている。
「そうだな…、謝罪はまた後に。では、ララの下へ行こうか」
リセナイア様は、さっと私にエスコートの手を差し出す。
けれど、私は、その手を無視して、籠からキャルを抱き上げた。
不機嫌なキャルは、いきなり抱かれて唸っていたけど、私のためにもう少しだけ我慢してもらった。




