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「キャル?」
邸の至る所にある猫用の扉から入ってきたキャルは、気不味い空気など気にも止めず、のんびりと私の前を通り過ぎる。そして、リセナイア様の膝によじ登り、あろうことか、彼の顔に頬擦りした。私にも、あまりしてくれないのに!
「な、何で!?どうしてなの、キャル!?浮気!?浮気なのね!?酷いです、侯爵様!」
「浮気!?私は、そんな不誠実なことはしない。私が求める人は、貴女だけだ!」
「何を言っているんですか!?侯爵様の浮気なんて、どうでもいいんですよ!それよりも、その無駄な色気で、うちの可愛いキャルを誘惑しないでください!不潔です!」
「不潔!?無駄な色気!?ま、待ってくれ!私は…」
「もう、帰ってください!本当に邪魔です!」
私が、リセナイア様からキャルを取り返そうとすると、彼女はスルリと逃げてしまう。それでも、キャルは、リセナイア様の側から離れようとしない。嫉妬に駆られた私は、このどうしようもない怒りをリセナイア様にぶつけた。
そんな私を、リセナイア様が優しく宥める。その落ちた態度が、更に私を苛つかせた。
その時、私とリセナイア様に挟まれていたキャルを、彼の従者が持ち上げた。
「リセナイア様!この猫、マリーですよ!」
「何!?」
「ほら、見て下さい、このブチ。こんな特徴的なブチを付けた猫なんて、マリー以外にいませんよ」
従者はそう言うと、キャルのお腹にある均等に並んだ三つの黒ブチをリセナイア様に見せた。その雑な持ち方に、私は思わず、抗議の声を上げる。
「ちょっと!レディのお腹を晒すなんて破廉恥よ!もっと丁寧に扱って!」
私は、従者からキャルを取り上げて、そのお腹に頬擦りする。すると、怒ったキャルに噛みつかれた。助けてあげたのに酷い。
「あの…、奥様は、その猫をどこで拾ったのですか?」
「シグネル領のカントリーハウス裏にある森の中よ。弱っていたところを、私が保護したの。この子は、もう私の家族だから、たとえマリーであっても、渡さないわよ!」
私は、フンっと鼻息荒く宣言する。そこへ、徐に近寄ってきたリセナイア様が、キャルの頭に手を伸ばした。そして、慈愛の表情を向けながら、優しく撫で始める。
「無事でよかった。随分探したんだぞ?お前の母も心配していた」
「はは?…母!?キャルのお母様!?」
リセナイア様から聞き捨てならない言葉を拾った私は、驚きのあまり叫んでしまった。
「ああ。シグネル家は、長年、猫を飼っているんだ」
「キャル!貴女、やっぱり由緒正しい猫だったのね!」
だから、キャルはこんなにも高貴だったのだ。その美しい姿をマジマジ観察していると、キャルは私の腕からすり抜けて、リセナイア様の足に擦り寄った。それが、羨ましくて、本気で悔しい!
「頼みがある、セリナ殿。マリー、いや、キャルを母猫に会わせてやってくれないか?あの子は、ずっとキャルの帰りを待っているんだ」
「…そっ、それは…」
「貴女もぜひ、キャルの母ララに会ってやってほしい」
「うっ、………はい」
突然聞かされた事実に、今の私は、ひどく混乱している。でも、キャルを母猫に会わせてあげたいと思う気持ちが、心の内からどんどん湧き出てきてしまった。その結果、キャル達が、シグネル家に帰ってしまうかもしれないと分かっていても。それでも、キャル達の幸せが一番だと思ったのだ。
だから私は、可愛い猫達を連れて、シグネル領に行くことを決意した。
そして、一週間後、仕事を切り上げた私は、もう二度と戻らないと思っていたシグネル侯爵家の本邸を目指して王都を発った。