序章
ウェイン・ファラム(新暦1126~1184)
中代サフィオーネ王国の歴史学者。アスタリア公の庇護を受けて、さまざまな書物を後世に残している。サフィオーネ王国の歴史を研究する者たちにとって、ファラムの著書は非常に重要な資料であったが、近年は権力者の意向に忖度したものも多いことが発覚し、その資料性に疑問を持たれつつある。
サフィオーネ神話についても多くの著書を残している。
ファラムの歴史書
「古サフィオーネ史」 第四章、皇帝ラグラノスの愚行と破滅
――戦神レダを侮辱するなかれ。さもなくば、神罰の恐ろしさを身をもって思い知るだろう――
果てしなく遠い古代の世界。魔界を統べる皇帝ラグラノスは、ついに人の世界までも手中に収めるべく、百万の軍勢を進軍させた。
その強大な魔族軍は、わずか一週間でノースティアの地を制圧し、フォーラントからアスタリア王国へと侵攻した。これらの地を支配するアスタリア王の軍勢では歯が立たず、北部征服は必至であった。皇帝ラグラノスは進軍を命じ、アスタリア王国の命運は尽きるかと思われた。
進軍の途中、戦いの女神「レダ」を祀る神殿に遭遇した。連勝に次ぐ連勝で驕り高ぶっていた将軍たちは、傲慢にも自分たちはもはや神をも超えたと言い、レダの神殿ごときが進軍の邪魔をするなと、神殿を破壊せよと命令した。
それを聞いたラグラノスは驚き、慌てて止めさせた。誇り高き戦士でもあったラグラノスは、戦神レダに敬意と信仰を持っていたのだ。それに神への冒涜は、途轍もない代償を払うことになる。
すぐに神殿の破壊は中止され、迂回して進軍することになった。しかしこれは、驕る将軍たちには大いに不満であった。
皇帝は何を恐れているのか、そんなことで征服できるのか、と口々に批判が出るが、ラグラノスはそれを無視して進軍を再開するが、事件は起こった。
後方の軍にはラグラノスの弟、バラドネスがいたが、彼は特に蛮勇の将軍であり、神をも恐れぬ荒武者だった。バラドネスは神殿を迂回するのが特に不満で、自身の率いる軍団が神殿の前にやってきた時、家来と共に神殿内で巫女たちに乱暴し、挙句にレダの像を破壊した。
粉々に破壊されたレダの像を見て、満足そうに笑みを浮かべるバラドネス。そのまま進軍を再開させた。
しかし……これは非常に不味い行為であった。
このことがラグラノスの耳に入ると、慌てて弟を呼び出し、叱責した。そして至急、神への謝罪を行わせた。レダは公正や尊厳を重んじ、それを踏み躙る行為には容赦のない制裁を与えるとされていたのだ。実際に、古の王国がレダを侮辱して滅亡した例もある。
大きな祭壇を作り、そこで罪を許してもらうよう、三日三晩、皇帝自身が祈りを捧げた。
しかしこの謝罪で、戦神レダは許すことはなかった。
不穏な空気が渦巻く空の下、ラグラノスの元に非情なる神の言葉が舞い降りる。
――許されざる罪、その破滅をもって償え――
次の瞬間、空は暗雲が立ち込め、神の雷が百万の軍勢を襲った。その怒りは凄まじく、一瞬にして五十万の軍勢が消滅した。恐れ慄き、必死に祈り懸命に赦しを乞うラグラノス。しかし、その祈りは届かない。
暗雲から一筋の閃光が舞い降り、神々しく輝く鎧を纏った少女が降臨した。その者はレダの怒りを代行する者だ。神の使いであり、この代行者の行為がそのまま神の判決となる。
代行者の名は「アンシェラトス」。その大いなる力をもってレダの怒りを代行する。
ラグラノスは罪深き弟の命と引き換えに、代行者に赦しを乞うが、その答えは「破滅」のみだった。打ち拉がれるラグラノスは、縋るように代行者に直訴した。
せめて私と決闘し、勝つことができたなら赦して欲しいと訴えた。何とそれは受け入れられた。レダは姑息な手段を使わず、正々堂々とした一騎打ちを好むといわれるからだ。
ラグラノスは魔界に伝わる魔法の剣を持ち出した。この剣は神をも斬り裂くとされる名剣で、代行者を斬り捨てることができるかもしれないと考えていた。
しかしその願望は脆くも打ち破られた。代行者の体に触れた剣は、いとも簡単に折れた。いかなる名剣であれども、神の代行者を傷つけることは叶わなかった。そうなのだ。魔族の力ごときで神の威光に抵抗するなど、そもそも無理な話なのだ。
代行者アンシェラトスは剣を抜いた。眩いばかりの光を放つその剣を見たラグラノスは、もはや自身と自らの帝国が滅亡することを予感した。その光り輝く聖剣「フューリアス」は、レダの最大の怒りを示すもので、この剣を抜かれて助かる見込みは一切なかった。
そしてラグラノスの首は刎ねられ、残りの軍勢はすべて代行者の手によって壊滅させられた。
これによって魔族の百万の軍勢は全滅したが、神の怒りはそれだけでは収まらなかった。
魔界の帝国に降臨した代行者は、その強大な力を持って、国土を破壊した。風が走る草原も、雄大にそびえる山脈も、無数の生命の方舟たる深き森林も、すべて焼き払われた。活気に満ちた街は瓦礫と死体だけしか存在しない荒廃の野となり、魔族の民衆は絶望の中で息絶えていった。これにより魔族の大帝国は滅亡したとされる。
アスタリア王は戦神レダに感謝し、毎年この時期にレダに感謝する儀式と、民衆には盛大な祭りが行われるようになった――
「……とまあ、人間たちってさ、いろいろ話作るのねえ」
青い目をした若い女性は、読んでいた書物を閉じてつぶやいた。
「そうだよ、ユーリ。これはサミューカ人たちが自分たちの正当性を証明するために作った物語だし。そもそもファラムは、アスタリア公のお抱え作家だからね。侵略者であるマドゥーシュ人……ラグラノスを悪く書くのは当然だよ。こんな話はいくらでもある」
燃えるような赤く長い髪をもつ青年が言った。
「それはそうだけど。この話って、元はアスタリア王がラグラノスを裏切ってさ、一度許してもらったのに、また裏切って……そりゃいくら温厚なラグラノスでも怒るでしょ」
「歴史っていうのはね、勝者の手によって作られるものなんだ。滅んだラグラノスが悪く書かれるのは必然なんだよ」
「まあ……でも理不尽ねえ」
ユーリは少し顔を曇らせながらつぶやいた。
「世界の理なんてそんなものだよ。人間たちはそれでもその理不尽の海を泳ぎ続けるのさ。死ぬまでね」
「ラグラノスは大きな軍艦に乗っていたのに?」
「どんなに頑丈な……例え浮沈艦なんて呼ばれた軍艦でも絶対はないよ。まあ、言うならば座礁してしまったのさ。レダ神の怒りに触れたってことで……ファラムが言うにはね――」
二人が話しているとき、部屋に一人の女性が入ってくる。いかにも地位が高そうな衣装を着ており、二人よりも偉い立場の者であろうことが伺えた。何もかも見通していそうな鋭い目が、二人を捉えている。
「聖騎士ユーリ、聖騎士カイン。お喋りもいいけど、ちゃんと仕事はするように」
「は、はい! 副団長イリア様」
二人は慌てて姿勢を正して返事した。
「ところで、聖騎士ノエルと聖騎士アーシェを見なかったかしら?」
副団長イリアは二人に尋ねた。
「ノエルとアーシェですか? ノエルは確か、少し前に東図書室で見かけたけど……アーシェはどこかなあ?」
カインが言った。
「アーシェは見てないからわかりません」
続いてユーリも答えた。
「わかりました、東図書室に行ってみるわ。それからアーシェを見つけたら、エルネスト様がお呼びだと伝えてちょうだい」
「はい」
ユーリとカインは声を揃えて返事した。
部屋を出て行くイリア。それを見送りながら、二人は顔を見合わせた。
「アーシェ……どこにいると思う?」
「多分、どっかで寝転んでサボってるんだろうけど……見つかったら怒られるだろうなあ」
「いつものことでしょ。本当に懲りないんだから」
「ま、そこがアーシェらしいんだけどね」
ユーリとカインは二人して笑った。