Ⅳ
このところ、永吾は眠れない。
子の刻過ぎに、かならず目が醒める。
一人で寝ているはずの部屋なのに、ひたひたと近づく足音を感じる。すると突然胸のあたりが重くなり、身動きできなくなるのだ。
目を開こうにも開けない。閉じているはずの目の中に白い光が広がり、それが誰かの顔を形作るような気がする。
誰だろう。
必死で身体を動かそうとしながら考える。わからないのがもどかしい。そうしているうちに、息が苦しくなってくる。全身に力をこめて、やっとのことで息を吸い込む。あえぎながら、はっきりと目を醒ます。それからは目が冴え、床の中で遅い冬の夜明けを待つことになるのだ。
「金縛りにあったことはあるか? 壱助」
ある朝、何気なく訊いてみた。壱助は、薄い眉を上げた。
「若いときには何度かありましたな」
永吾をまじまじと見つめ、
「お顔の色が悪いのはそのせいですかな?」
「いいや」
永吾は、あいまいに顔をそむけた。
「訊いてみただけだ」
「どこぞで、女子でも泣かせているわけではないでしょうな」
いつもの心配顔で壱助は言った。
「生き霊というのも、怖ろしいものですぞ」
「壱助もそうだったのか?」
反対に訊いてやった。
「いやいや」
壱助は、あわてて首を振る。
「世間の話ですて」
永吾は声を上げて笑って見せた。
「世間のな」
むろん、心当たりがあるはずもない。
あるとすれば、いままで殺した化けものどもだ。
祟りというやつだろうか。どうも気持ちが悪い。ねちねちとしつこいやり方だ。化けものの幽霊など聞いたことはなかったが、いっそのこと姿を現してくれたほうがさっぱりするとさえ思う。
矢兵衛の方はどうなのだろう。
梅雲寺以来、ずっと会っていない。矢兵衛のおかげで、両肩の傷は驚くほどはやく治ったが、その礼も言えないままだ。
夜に歩いても、矢兵衛の姿は見かけなかった。あれほど騒いでいた魔性の虫が、今は収まっているのだろうか。永吾の生き血を少しばかり飲んだところで満足するとは思えなかったが。
とはいえ、それならそれで、喜んでやるべきかもしれない。矢兵衛の人間である部分は、女房との静かな暮らしを望んでいる。
自分にはそう言い聞かせたものの、足はふらりと東町に向いていた。
青みをおびた厚い雲が、低く空を覆っていた。山地の方は、すでに白い。城下にも、そろそろ雪が積もるころだった。
矢兵衛は店番をしていた。
永吾が暖簾をくぐると、はっとしたような顔をして、すぐに静かに頭を下げた。
「根付けが欲しくてな」
「では、ご覧になって」
矢兵衛は根付けの箱を持って来た。丸形、瓢箪型、十二支をはじめとする動物たち。材質も形も違う様々な意匠の根付けは見ていて飽きないものなのだが、永吾の頭は別のことで占められている。
「最近」
永吾は、ささやくように言った。
「外には出ないのか?」
矢兵衛は、さらに声を低くして答えた。
「ここしばらく、女房が床に伏しておりまして」
永吾は眉をひそめた。
「病か」
「もともと丈夫なほうではないのです。医者には診せているのですが、胸が悪いそうで」
「それは、心配だな」
「側についていてやらなければ」
矢兵衛は美しい顔を曇らせ、息を吐き出した。元気づけてやりたかったが、自分に出来ることは何もない。永吾は、ただ深くうなずいた。
「大事にしてくれ」
永吾は、円盤に龍が彫られた根付けを買って店を出た。
冷たいものが鼻先に落ち、永吾は雪の舞い始めた暗い空を仰いだ。
金縛りのことなど言い出せなかった。それでなくとも、矢兵衛は眠れぬ夜をおくっていることだろう。考えてみれば、魔性のものが金縛りになどあうだろうか。
ここに来たのは、犬の矢兵衛に会いたいがための方便にすぎなかったのだ。
苦笑するしかない。人の矢兵衛を見て、いっそう犬の姿が懐かしくなってしまった。あの様子ではお夕のために、矢兵衛は当分犬にならないだろう。
家に帰って、ふと考えた。
化けものの祟りが矢兵衛ではなく、その身近な人間に向けられているとしたら?
お夕の病は、そのために重くなったのかもしれない。
何も知らないお夕が、気の毒になる。
僧か修験者に祈祷を頼んでみるか。
いや、そんなことをすれば、矢兵衛の正体も分かってしまう。自力でなんとかしなければ。
思いつき、永吾は一振りの刀を持ってきた。奥州鷲杜住藤房国貞の銘がある。先祖が藩主から拝領した業物。唯一の家宝だ。
すらりと抜いた。手入れは怠りないので、波のような濤乱刃の刀紋が美しい。
抜き身のまま枕元に置いた。邪気払いになってくれればありがたい。
もし効き目があるようならば、こっそりと矢兵衛に貸してやろう。
そう思いながら眠りについた。
足音など感じなかった。
来たのは突然の衝撃だった。
なにか重いものが、どさりと胸の上に落ちたのだ。永吾は一瞬息もできなくなった。激しくもがいて目を開けた。
夜更けにいつでも家を抜け出せるよう、永吾は庭に面した部屋に蒲団を敷かせている。なので、障子からはうっすらと月の光が射し込み、あたりのものがかろうじて見分けられた。
永吾の上に、何者かが馬のりになっていた。永吾は悲鳴をようやくこらえた。
覆いかぶさっているのは、憎悪むきだしの顔だった。眉はなく、血走った目はつり上がり、口は大きく横に避けていた。そして、振り乱した髪の中から覗く二本の角。
鬼だ。
役立たずの家宝を罵る間も与えず、鬼は永吾の首に両手をかけてきた。無言でぐいぐいと締めつける。
永吾は、必死で鬼の手を振り払おうとした。鬼の力は強く、びくともしない。ひと思いに締めてしまえばたやすく殺せるだろうに、鬼はまるで永吾の苦悶をじりじりと引き伸ばし、楽しんでいるかのようなのだ。
首から上が充血し、気が遠くなりかけた。
永吾は、鬼を押しのけていた両手をばたりと床に垂らした。抵抗をやめたと見せかけて、ありったけの気力をふりしぼって、枕元の刀に手を伸ばした。
柄を握り、刃で鬼の手を薙ぎ払った。
確かな手応えがあった。鬼は無言で飛び退った。
永吾は、肩を喘がせて立ち上がった。刀を両手に持ち直し、部屋の隅にうずくまる鬼に向かって振り下ろした。
忽然と鬼は消えた。
永吾は立ちつくし、ついで障子を開け放った。
雪が、夜目にも白く降り続いていた。庭に積もった雪には足跡ひとつない。庭木も外塀の雪も乱された跡はなく、ただ静かに月の光を弾いていた。
これは、金縛りのつづきの夢だったのか。
いや。
振り向いて、ぶるっと頭を振った。
乱れた蒲団の上に、鬼の片腕が落ちていたのだ。
左の肘から下の部分だった。赤銅色で筋張り、黒く鋭い爪が生えていた。
出血の跡はなかった。すっぱりとした斬り口を見せた左腕は、流木か何かのようにねじくれ、転がっていた。触った感触は硬い革だ。
永吾はしげしげとそれを見つめ、やがて紅花染めの風呂敷を見つけてきて、きっちりと包んだ。赤は魔除けになるだろう。
手元に置いておかなければ。
渡辺綱の昔から、鬼は斬られた腕を取り戻しに来ると決まっている。
朝から永吾は部屋に籠もった。再び現れるかもしれない鬼とどう戦うべきか考える。
そもそも、なぜ自分が鬼に襲われたのだろう。あれは、化けものとは異質のものだ。鬼に恨みをかうようなことをした憶えはない。
矢兵衛に相談したかった。しかし、矢兵衛はいま、お夕のことで頭がいっぱいだ。自分ひとりで戦うしかあるまい。
鬼の出方を待とうと思った。幸い、家宝は役に立ちそうだ。永吾は鬼の腕と国貞の刀を引き寄せて一日を過ごした。
夜になって蒲団にもぐりこんだが、目はしっかりと開けていた。
雪は、降ったり止んだりを繰り返していた。風が少し出てきたようだ。あおられた庭木が枝の雪をばさりと落とし、そのたびに永吾は身構えた。
と、外に風のせいではない気配を感じた。
ほの白い障子に影がさした。
「隅倉さま」
矢兵衛の声だ。
永吾はむくりと身を起こし、刀を取った。
鬼は、近しい者に化けて現れるのではなかったか。
「矢兵衛か」
「はい」
永吾は刀を抜き、そろそろと障子を開けた。
雪の白さにも増して白い、犬の矢兵衛が縁側をへだてて立っていた。永吾が逢いたくてたまらなかった姿で。
だが、気は許せない。永吾は身構えを解かなかった。
「本物なのか」
矢兵衛は静かに首をさしのべた。
永吾はためらいながらも手を伸ばし、矢兵衛の耳の後ろに触れた。指をうずめ、首筋から背中へと、やわらかな毛並みの感触を確かめる。
「腕をお返し下さい。隅倉さま」
永吾は、はっと手をひっこめた。
「お夕が、死にました」
矢兵衛は、悲しげにささやいた。
「もとに戻してやらなければ」
永吾は、ぎょっとして矢兵衛を見つめた。
「どういうことだ」
「それは、お夕のものです」
「ばかな」
永吾は部屋に戻り、震える手で風呂敷をほどいた。紅の布の中から、冷たく青ざめたものがあらわになった。
鬼のものではなかった。
痛々しいまでに華奢な女の腕。
そして同時に、金縛りの白い光の中に現れたのが誰の顔だったかはっきりと悟った。
恨みに満ちたお夕の顔だ。
「なぜなんだ」
永吾は矢兵衛を振り返った。矢兵衛の白い身体は、雪に溶けこみそうだ。黒々とした目が潤んでいる。
「わたしのせいです」
矢兵衛は言った。
「お夕は、わたしのために魔に堕ちてしまった」
「そんなことが──」
「わたしが」
矢兵衛は首を振り、ようやく低く声にした。
「あなたの方ばかりを向いていると、お夕は思ったのです」
永吾は言葉を失った。
死期が近いと悟ったお夕の、思いだけが迸しってしまったのか。
自分には届かない結びつきを矢兵衛と永吾に感じていた。どうしようもなく嫉妬し、鬼に変じた。死ぬのなら、永吾もろともに、と。
「おれはただ、犬のおまえといたかっただけだ」
「わたしも、この姿で隅倉さまといれば心地よかった」
矢兵衛は呻くように小さく唸った。
「ですが、お夕のことをもっと考えてやるべきでした。わたしと過ごした時間が長かっただけ、わたしの魔性がお夕に染みこんでしまった。最後の最後に、鬼にしてしまった」
罪は永吾にもある。永吾が矢兵衛の正体さえ暴かなければ、お夕はこんな最期をむかえずにすんだのだ。矢兵衛は魔性を抱えながらも、お夕と穏やかに日々をおくれたはずだった。
永吾は、お夕の腕を見つめた。細い、細すぎる指は、何かをつかみ取ろうとするかのように、むなしく宙に向かって曲げられていた。
「すまない」
永吾は、がくりと両手をついた。
「可哀想なことをしてしまった」
矢兵衛はしばらく黙り込んだ。
泣いているのかもしれなかった。
「わたしは、怖ろしいのです、隅倉さま」
やがて、矢兵衛は言った。
「わたしとかかわる者は魔性を帯びてしまう。あなたまで」
「そんなことはない」
「いえ」
矢兵衛は苦しげに言葉を続けた。
「おかしいとは思いませんか。いままでおとなしかった化けものが、なぜこのごろ城下に現れだしたのでしょう」
「なぜ?」
「なにかに導かれてだとは思いませんか」
永吾は考えた。幽霊や妖怪、化けもの話は昔から山ほど伝わっている。だがはっきりと形をなし、人間に危害を加えたのは最近の大蜘蛛と子喰い猿だけだ。
「呼んでいたのです、わたしたちが」
永吾ははっと目を見開いた。
たしかに、永吾は矢兵衛とともに戦う機会を追い求めていた。相手がなんであれ、ただ犬の矢兵衛の側で刀を振るうことが悦びだった。
おそらく矢兵衛にとっても。
「おれたちが、化けものを引き寄せていたというのか」
「お夕がこうなってしまい、気がつきました。あなたにもわたしの魔性が及んでいる。だから心が合わさって、やすやすと力を得たのです。自分たちが望むものを呼び寄せる力を」
永吾は愕然とした。
大蜘蛛も子喰い猿も、自分たちがいなければ人里になど現れなかったのか。彼らに襲われた者たちも、命を落とさずにすんだのか。
「みな、わたしが悪いのです」
「ちがう」
永吾は激しく首を振り、ようやく言った。
「おまえに会う前から、おれはこんな生き方がしたかった。ずっと、おまえのようなものを求めていた。おまえのせいじゃない」
「隅倉さま」
「おれには、たぶん最初から魔がひそんでいたんだ」
矢兵衛は永吾を見、お夕の腕に視線を移した。
「そうかもしれません。人の心のずっと奥にも、魔はかくれているのでしょう。ですが、わたしというものは、それを取り返しのつかないまで露わにしてしまう」
矢兵衛は辛そうに首を振って、縁に上った。
永吾に近づき、
「このままではまた化けものたちがやって来ます」
「ああ」
「無害だったものたちが、わたしたちの欲を充たすためにだけ禍を撒き散らす」
そして永吾と矢兵衛は彼らと戦い、戦いだけに悦びを見だし、さらに新しい獲物を呼び寄せることになるのだ。
永吾も遠からず、鬼になるかもしれない。矢兵衛はそれを怖れている。
「わたしは、あなたの側にいてはいけないのです、隅倉さま」
永吾は、矢兵衛を見つめた。
矢兵衛の漆黒の眼が、しばし永吾を映した。やがて矢兵衛は眼をそらし、お夕の腕をそっと咥えた。
「矢兵衛」
低く名を呼ぶ。
矢兵衛は永吾に目礼した。次の瞬間には、美しい犬の身体はひるがえって庭に下りていた。一度永吾を振り返ると、軽々と跳躍して塀を越えた。
永吾はその場に座り込んだまま、矢兵衛が行ってしまった闇にいつまでも目をこらしていた。
風はやみ、雪が静かに降りつづいた。
朝までには、矢兵衛の足跡も消えてしまうにちがいなかった。
東町の小間物屋が、女房の葬式を出した後、店をたたんで城下を去ったと聞いた。
それでも永吾は、夜の街を彷徨い歩かずにはいられない。
月の光にほのめく、白い影が現れるような気がして。
もう一度その姿が見たかった。
もう一度その美しい毛並みに指を埋めることができるなら、魔に墜ちても、鬼になってもかまわないとすら思えるのだ。