Ⅲ
「稲綱山の」
松井左馬丞が言った。
「子喰い猿を知っているか?」
「子喰い猿」
永吾は眉を上げた。
「よく大人が子供を怖がらせるあれか? 悪さをすると、稲綱山の子喰い猿が浚いにくるぞ、とかなんとか」
「そう、そいつだ。稲綱山の奥に昔から棲むと言われている」
「知っているぞ、俺も」
同輩の嶋東三郎が口をはさんだ。いつも笑っているような細い目をした丸顔の男だ。
「こんな話がある」
宿直のつれづれ、皆で詰め所の火鉢を囲んでのよもやま話だった。深まった秋の夜は、しんしんと冷えてきている。
「ある男が遠眼鏡を手に入れて、喜び勇んで稲綱山に登った。峰の高い所に立って、あちらこちらを眺め回していたそうだ。向こうの峰を見ると、一匹の猿がいる。そいつは両手で木の枝につかまって、楽しそうにぐるぐる回っていたというよ。やがて逆立ちしたり、宙返りしたり、曲芸じみたことをやりだした。男もおもしろくなって、ずっと猿を見ていたら、突然、遠眼鏡から猿が消えた」
「消えた?」
「ああ。男は遠眼鏡から目を離した。すると目の前に、たったいま遠眼鏡で眺めていた猿がにやりと牙をむきだして立っている。男と同じくらいの大きさで、金色の毛だ。男は悲鳴を上げて逃げ出した。あれは子喰い猿だったに違いないと、後になって人に話したそうだ。自分が子供だったら、取って喰われたところだったと」
「一瞬で峰を渡ったわけか」
永吾は半信半疑だった。
「子喰い猿はおそろしく俊足らしい」
うかない顔で左馬丞が言った。
「この頃は城下にまで下りて、子供を浚って行く」
「本当か? それは」
「嘘などつくものか。はじめは近在の村の子供が二人ばかりやられた。次は九軒町で、一昨日は田原町だ。田原町のは姉におぶわれた赤ん坊で、姉がはっきり大猿の姿を見ている」
左馬丞はさらに顔をしかめた。
「昔は二三年に一度、山里の子供が浚われたくらいだというが──困ったことだ」
左馬丞は小さな子供たちの父親だ。人ごとではないのだろう。永吾も頷いてやった。
「だが、なんでまたこんなしょっちゅう現れるようになったんだ?」
「わからん。町の子に味をしめたのか、人里近くに巣を変えたのか」
「昔とは違うやつかもしれんぞ」
東三郎が言った。
「昔はこう、なんというか愛嬌があったが、今のはただの人喰いだ」
永吾は腕組みしながら考えた。
矢兵衛は、この話を聞いているだろうか。
犬の矢兵衛は、今でもちょくちょく城下の夜に現れていた。永吾も矢兵衛の姿を求めてつい出歩いてしまう。
見かけても黙って遠目に眺めるだけにしていた。矢兵衛に卑屈な思いをさせたくなかったし、なにより悠然と夜気を裂いて駈ける白い獣は、一匹でいる時こそが美しい。
しかしまた、ともに戦えるかもしれない機会が訪れた。
矢兵衛と肩を並べて化けものに相対することは、とてつもない悦びだった。その時、永吾の命は矢兵衛と繋がっている。自分たちが、唯一ひとつになれる時なのだ。
くりかえす平凡な毎日に、矢兵衛の存在が耀きを与えてくれていた。たとえ死ぬことになろうとも、犬の矢兵衛が側にいてくれるなら満足だと思う。
評定橋の上で、永吾は矢兵衛と出会った。
永吾の姿を見ると矢兵衛は速歩をやめ、ゆっくりと近づいて来て永吾を見上げた。
「では、子喰い猿のことをご存じなのですね」
「矢兵衛もか?」
「店を開いていると様々な話が入ってきます」
「なるほど」
たしかに、町場の方が騒ぎが大きいにちがいない。
「隅倉さまがいらっしゃるころだとは思っていました」
永吾は笑みをこらえることができなかった。矢兵衛も同じく戦いを求め、自分を待っていてくれたのだ。
「で、どうする?」
「わたしなりに探ってみました。気になる場所がひとつ」
「どこだ?」
「稲綱山の入り口に、梅雲寺という廃寺があります。住職が死んだのはだいぶ前で、継ぐ者も無く荒れ果てたままになっているのですが、そこから新しい血の臭いがするのです」
「人間の?」
「はい」
「子喰い猿の塒なのだろうか」
「いかに子喰いが俊足でも、稲綱の山奥と城下では離れすぎていますから。そこを足場に、町に出入りしているのかもしれません」
「覗いてははみなかったのか」
「一人では危険かと」
「そうか」
永吾はゆっくりと頷いた。
「ならば、二人で行ってみるか」
「はい」
永吾と矢兵衛は顔を見合わせた。
互いのまなざしに、同じ渇望を見だした。
永吾は思わず矢兵衛の頭に手を伸ばしかけ、とどまって矢兵衛の脇にしゃがみ込んだ。目を同じ高さにして、
「よろしく頼む」
矢兵衛は頷き、軽く尾を動かした。
昼すぎに永吾が九軒町を抜けると、約束通り犬の矢兵衛がかたわらに現れた。
町の向こうは広々とした田園地帯だ。とうに刈り入れの終わった田圃が、土色をむき出しにしてどこまでも続いていた。冬間近の冷たく冴えた空の下、青白い鳳連峰が地平いっぱいに長々と横たわっている。その連なりが領内に突き出たところが稲綱山だ。
昼間だというのに、点在する茅葺きの農家のまわりには二三の人影しかなかった。もちろん子供の姿もない。子喰い猿を怖れて、家の中に閉じこもっているのか。
永吾と矢兵衛は歩み続けた。まだらに紅葉を残した稲綱山は懐をひろげて目の前にある。
農地は切れて竹藪混じりの雑木林へと変わり、坂道の先に古びた石段が見えた。登りきれば梅雲寺の境内。
急な石段は、繁る熊笹に狭められていた。先に登った矢兵衛が足を止めた。熊笹にひっかかっていた何かをくわえ上げる。永吾は手に取り、眉をひそめた。
産着の切れ端。しかも血がついていた。
風に飛んできたのだろう。ここが子喰い猿の塒なのは確かなようだ。
二人は用心しながら傾きかけた山門をくぐった。境内には太い銀杏の樹があり、吹き下ろす山風が黄色い落ち葉を舞い散らしていた。僧坊はすでに崩れていたが、本堂はまだ原形を残し、後方の山陰に沈んでいる。
本堂の階段も枯葉に覆われていた。広縁の奥の扉はぴったり閉ざされ、内はしんと静まり返っている。
しかし、子喰い猿がいるとすればこの中だ。
永吾は刀に手をかけ、一歩踏み出した。
扉が音をたてて開いた。
矢兵衛が吠えると同時に、永吾は本能的に身をかわした。かわしたものの、左肩に鋭い痛みを覚えた。血が吹き出ている。かまわず刀を抜き、身構えた。
子喰い猿はすぐ前に、忽然と立っていた。
永吾より一回り大きい。赤みを帯びた金色の巻き毛がびっしりと身体を覆い、そこだけむき出しの顔と手足の先は褐色で、てらてらと光っていた。
人間の造作にいやに似ている猿の顔は、形相凄まじかった。目は血走り、鋭い歯をむきだし、永吾を威嚇する。縄張りが侵されたことを怒っているのだ。
子喰い猿は俊敏だ。身をかわすのが一瞬でも遅かったら、永吾は首を喰いちぎられていただろう。
刀を身体の前に引きつけて身を守ろうとした刹那、猿は消えた。一瞬で永吾の後ろに回り込み、太い腕で永吾の頭を打ち据えようとした。矢兵衛が飛びかかったので、猿の腕は空にとどまった。振り向きざま永吾は刀を振るったが、矢兵衛をはねのけた猿はするりとかわし、本堂の広縁に上った。
なんて素早いやつなんだ。永吾は舌をまいた。俊足、俊敏──そんな言葉を超えている。動きがあまりにも速すぎる。
永吾と矢兵衛は背中合わせになって攻撃にそなえた。間を置かず、子喰い猿は矢兵衛の横に立ち、がっしりとその胴を掴んで上に持ち上げた。鋭い歯で、腹を噛み裂こうとする。永吾は猿を切りつけた。猿が身をかばう隙に矢兵衛は身をよじって地面に落ちた。永吾の刀は金色の毛をなぎ払っただけだった。
子喰い猿の武器は鋭い牙と怪力、瞬時に移動できる足の速さだ。
考える間もなく、子喰い猿は永吾を押さえつけた。羽交い締めのように永吾の両腕を掴み、大きく開けた口で右肩に噛みついた。
あまりの痛みに永吾は刀を取り落とした。子喰い猿は勝ち誇ったように永吾の身体を左右に振りまわした。永吾の首に手をかけ、へし折ろうとする。
矢兵衛が子喰い猿に負けぬ素早さで、永吾の刀をしっかりと咥えた。そのまま地を蹴り、子喰い猿の脛のあたりを切りつけた。
子喰い猿は一声吼えて、足を抱えた。猿の腕から逃れた永吾は、ふらつきながらも立ち上がった。
右手は使えそうにない。左も傷を負っているが、脇差しを抜くことはできる。
子喰い猿は怒りで我を忘れ、矢兵衛に襲いかかっていた。矢兵衛は巧みにそれをかわし、逆襲の機を狙う。
足の傷のためか、子喰い猿は前のような敏捷さを失っていた。矢兵衛をぐるぐると追いかけ回しているうちに、血に濡れた銀杏の落ち葉に滑り、仰向けにどっと倒れた。
機を逃さず、永吾は脇差しを握りなおした。全身の力をこめ、子喰い猿の胸を突き刺した。
子喰い猿は苦悶の声を上げて永吾を払いのけた。凄まじい力で地面に叩きつけられた永吾は一瞬息ができなくなった。
子喰い猿は、自分で脇差しを引き抜いた。傷口から血がどくどくと流れるのもかまわず、ゆらりと立ち上がった。永吾を見下ろし、お返しとばかり永吾に脇差しを振り下ろそうとする。
だが、そこまでだった。
脇差しは、子喰い猿の手からこぼれ落ちた。
子喰い猿は力尽きた。崩れるようにその場に倒れ、動かなくなった。
永吾は、天を仰いでぐったりと横たわった。
身体中の力が抜けていくようだ。
「隅倉さま」
矢兵衛が、犬の心配げな顔で永吾をのぞき込んだ。
永吾は微笑んだ。
「手強かったな。大丈夫か、矢兵衛」
「あなたこそ」
矢兵衛は、子喰い猿に噛まれた永吾の右肩を舐めはじめた。不思議なことに、痛みがしだいに和らいでくる。矢兵衛の舌は、傷を治す力を持っているらしい。
「矢兵衛」
永吾はささやいた。
「おれの血を呑んでもいいぞ」
矢兵衛はぴくりと身を震わせた。
「死なない程度ならな。そのかわり」
永吾は矢兵衛の首に左手を伸ばし、豊かな毛並みに指を埋めた。抱き寄せ、顔を押しつけた。
「しばらくこうさせてくれ」
矢兵衛はとまどったように短く唸った。
やがてゆったりと永吾に身をあずけ、永吾の肩を舐めつづけた。
風が山の木々をどよもしていた。
銀杏の葉はさらに落ち、永吾たちの上に降りそそいだ。