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白犬奇譚  作者: ginsui
2/4

 矢兵衛の正体を、永吾はむろん誰にも話さなかった。

 九軒町で別れて以来、家を訪ねることもしなかった。遠まわしに、評判だけは聞いていたが。

 店は、矢兵衛めあての女客で、なかなか繁盛しているようだった。人間のあの容姿では無理からぬことだ。しかし矢兵衛は他の女には目もくれず、夫婦仲は人も羨むほどだとか。

 このまま放っておいてやることが、矢兵衛のためになることはわかっていた。

 しかし、むしょうに会いたくなった。

 犬の矢兵衛の、かがやくような美しい姿をまた見たかった。

 そのしなやかな身体に触れることはできないにしても。

 その夜、永吾はふらりと家を出た。

 下河原でまた処刑があったと聞いたのだ。

 中秋が近かった。満ちるばかりの月は、頭上で白々と光を放っている。

 夜気は冷たい。あちこちで虫がすだいていた。弥勒川の土手ではそれがいっそうさかんになって、耳と言うよりも頭蓋に浸みこむようだった。

 永吾は河原に下りた。刑場に近づくと、月影にすらりとした獣の姿が浮かび上がった。

 矢兵衛だ。

 覚えず永吾の胸は高鳴った。

 矢兵衛は、むさぼるように河原の血痕を舐めていた。永吾の気配に、ふと顔を上げた。

 三間ばかり離れた場所に永吾は立っていた。矢兵衛はすぐに永吾と認めたようだ。なにか言いたげに永吾を見つめ、後ずさった。そしてすばやく身をひるがえし、土手上の闇に消えてしまった。


「旦那さま」

 翌日、朝飯をおえた永吾が書見でもしようとしていると、壱助(いちすけ)が声をかけてきた。

 隅倉の家では最年長。痩せて小づくり、灰色のわずかな量の髷をちょんと頭に乗せている。父の代からいる家人なので、永吾もぞんさいには扱えない。

「なんだ?」

「夕べはどちらへ」

「月が美しかったのでな、ちょいと散歩してきた」

「ほう」

 壱助は、なにもかもお見通しというような顔をして、

「夜遊びもよろしい。ただ、気になる話を耳にしましたので」

 永吾は眉を上げた。

「おとついの夜、中島町の堀ぞいで人死にがありました」

「人死に?」

「染物屋の(せがれ)です。茶屋帰り、柳の木の下に倒れていたとか」

「殺しか」

「いや、それが」

 壱助は肩をそびやかし、声をひそめた。

「身体中の血がなくなっていたそうです。身体が、妙な具合に干からびていたと」

 永吾は笑いかけた。

「馬鹿な」

「検分した岡っ引きの安吉に聞いたのですから間違いはありません。傷らしい傷はなく、ただ首筋に二つの穴があいていたそうで」

「ほう」

 永吾は壱助の険しい顔を見つめた。

「しかも、三日前にも同じことが起きていたと言います。茣蓙(ござ)を抱えた年増の夜鷹、龍林寺(りゅうりんじ)の参道前に倒れていたと」

「血を抜かれて?」

「はい」

 永吾は眉をひそめた。

「奇妙な話だな」

「ですから」 

 壱助は大きく頷き、語気を強めた。

「旦那さまも、夜歩きにはくれぐれもご用心」


 城に登っても、この話で持ちきりだ。化け物のしわざに違いないというのが大方の意見だった。

「なにしろ、見た者がいる」

「化けものを?」

「ああ」

 宿直(とのい)仲間の松井左馬丞(さまのすけ)が頷いた。永吾と同い年だったが、こちらは三人の子持ち。態度も父親然として、永吾よりもずっと落ち着いて見える。

「染物屋の息子をはじめに見つけた爺さんが家に出入りの者でな。夜回りの帰りだ。死体の側に、白い大きな獣がうずくまっていたそうだ」

「白い?」

「不思議な白さだったということだ。犬のようにも見えたが、あれは絶対化けものだと爺さんは言っていた。牙をたてて、血をむさぼり尽くしたんだろうとさ」

 永吾の心はざわめいた。

 河原で血痕を舐めていた矢兵衛の姿が思い浮かんだ。

 矢兵衛は魔性がこらえきれなくなったのではないだろうか。たまに罪人の血を舐めるぐらいで抑えていたものが、猫又との戦いで大きく呼びさまされてしまったのでは。

 永吾とて、猫又の首に刀を突き刺したときの感触が忘れられずにいる。

 右手に伝わってきた断末魔の蠢きをどこかでもう一度味わってみたいとすら思う。

 魔性の誘惑はそれ以上のものにちがいない。

 だとすれば、悪いのはこの自分だ。

 矢兵衛に会わなくては、と永吾は思った。

 会って、確かめなければ。


 小間物屋の暖簾をくぐると、矢兵衛の女房が店番をしていた。

 永吾を憶えていたらしく、静かに頭を下げた。

 お夕と言う名だったか。薄紅色の小紋に前掛け姿。昼間見ると、ほっそりとした色白の顔は、まだ少女のような可憐さを残している。

 女房には知られたくないと言ったときの、矢兵衛の辛そうな顔が目に浮かんだ。どんなに愛おしんでいることだろう。

「矢兵衛は?」

「卸問屋に行っております。間もなく戻るかと」

「煙草入れを見せてもらおう」

 お夕はこくりと頷いて、棚から煙草入れの並んだ箱を出してきた。永吾が上がり框に腰を下ろしてあれこれ吟味しているうちに、矢兵衛が帰って来た。永吾を見、表情を強ばらせた。

「これにしようか」

 永吾は、鴛鴦(おしどり)の金具がついた腰下げの煙草入れを買った。

 矢兵衛を促すように外に出る。

 矢兵衛はお夕に声をかけ、永吾の後をついてきた。

 永吾は人気のない路地に入って足を止めた。

「すまんな。もう会うまいと思っていたのだが」

 矢兵衛はうつむいていた。永吾の方がやや背が高いので、見下ろすかたちになる。

「中島町の殺しを知っているか?」

 矢兵衛は身じろぎした。

「聞いております」

「仏の側に」

 永吾はささやいた。

「白い犬がいたそうだ」

「いえ」

 矢兵衛はきっと頭を上げ、激しく首をふった。

「わたしではありません、隅倉さま。あの時には、もう」

「もう?」

「信じて頂けないかもしれませんが、妙な気配を感じて堀端に行ったのです。死体には、舐めるほどの血も残っていませんでした」

「妙な気配とは、どんなものだ」

「人でないことは確かかと」

「化けものか」

 矢兵衛が嘘を言っているとは思えなかった。永吾はひとまず安心した。

「また現れるかな?」

「人の血に飢えているもののようです。おそらく」

「ならば、あまり出歩かない方がいい」

 永吾は言った。

「城下の者は、おぬしの仕業と思ってしまうぞ。正体がわかれば──」

「ここにはいられません」

 矢兵衛は暗い目で永吾を見つめた。

「お夕とも別れるしかない」

 永吾はうなずいた。

「気をつけろ」

「ですが」

 矢兵衛はうめくように言った。

「だめなのです、隅倉さま。わたしとて、ずっと人の姿でいたい。それなのに、夜になるといてもたってもいられず、犬になってしまう。猫又を殺してからは、ことにひどくなってしまいました。身体が、血なまぐさいものを求めてしまうのです」

 矢兵衛は、両こぶしを白くなるほど握りしめていた。

 永吾は心が痛んだ。責任の一端は自分にある。

「すまん」

 矢兵衛はかぶりを振った。

(さが)なのです。どうしようもありません」

「矢兵衛」

 永吾は思わず口にした。

「もう一度、化けものと戦わないか。おれと」

 矢兵衛は、はっと永吾を見つめた。

「隅倉さま」

「そいつがいなくなれば、おぬしに疑いがかかることもない。城下も守れる」

 城下か。

 言ってみたものの、永吾はおかしくなった。城下のことなど考えていない。永吾はただ、矢兵衛とともに戦いたかっただけだった。

 屋敷を出る時は忠告だけのつもりだったのに、いざ矢兵衛に会ってみると、むき出しになったのは自分の願望ではないか。

 永吾は、猫又を倒した時の高揚感をもう一度味わいたかった。死と紙一重のあの感覚を。どんな化けものであっても、かたわらに矢兵衛がいれば立ち向かえそうな気がする。

 矢兵衛には、心底すまなかった。疑いをはらすと言いながら、永吾はその魔性をいっそう呼び起こそうとしているのだから。しかしそれにも増して、この思いは抑えきれなかった。

 矢兵衛は目を伏せた。長い睫が震えていた。

 男でもふるいつきたくなるような美しさだ。

 だが、永吾が求めているのは矢兵衛の別の姿。完璧な四肢をそなえた純白の犬だった。

「かすかですが、そいつの臭いは憶えています」

 ややあって、矢兵衛は言った。

「そいつの出そうな所を歩いてみましょう」

「ああ」

 永吾は笑みを押し殺してうなずいた。

「今夜からでも」


 化けものは、人の血を求めている。

 人家が近く、夜に人通りはなく、たまにふらりと誰かが通りかかる場所。

 屋敷街の黒塀沿い、上水堀の柳並木、弥勒川に架かる大小の橋。そういった所を毎夜犬の矢兵衛とともに巡ることは、永吾にとって新しい喜びとなった。

 壱助たちの目をぬすんで屋敷を出ると、門の近くで矢兵衛が待っていた。永吾の前になり、後ろになりして矢兵衛は歩く。月のない夜でさえも、矢兵衛の白い姿は見えるようだった。提灯の明かりが、かえって邪魔のような気がしてくる。

 何日目かの夜半、永吾と矢兵衛は城下の南の妙見(みょうけん)橋を渡った。武家屋敷の方から職人町へと続く橋。

 橋のたもとに、一本の(えのき)が植えられている。広く枝葉を張り出した大木だ。

 星月夜だった。空一面に散らばる星々の瞬きを、大樹の影が黒々と覆い隠していた。

 永吾のかたわらを歩いていた矢兵衛が、ぴたりと足を止めた。

 永吾は矢兵衛の視線の先をたどり見た。榎の根元に、小さなものがうずくまっていた。

 永吾は提灯の明かりを向けた。五六才の女の子が、小さな手で顔を覆い、しくしく泣いている。もう声を出すのも疲れたかのように、肩ばかりが大きく上下している。

 こんな夜更けに一人とは。永吾は眉をひそめた。

 迷子にでもなったのか、折檻されて家を追い出されたのか。

 思わず子供に近づいた。子供は涙で濡れた顔を上げた。おかっぱ頭の愛らしい顔だ。

「どうしたのだ?」

 永吾は子供の前に屈み込んだ。

 矢兵衛が警戒の声を上げるより先に、子供がぶつかるように抱きついてきた。

 永吾は、ふいをつかれて提灯を落とした。

 尻餅をついた永吾を、子供はそのまま押し倒した。子供とは思えぬ重さだった。いや、その重さは増してきて、永吾は息ができないほどだった。

 子供はにっこり笑い、永吾の首元に顔をすりよせた。落とした提灯の明かりが、子供の口からのぞいた二本の牙を鈍く光らせた。黒々と輝く目は白眼を失ってふくれあがり、顔の半分までをも占めた。

 矢兵衛が子供に体当たりした。子供は永吾の身体の上から転がって、怒りの声を上げた。

 永吾はふらふらと立ち上がった。榎の根元に四つん這いになった子供の手足が、突き出すように長くなってきた。胴体からも二本づつの脚が生えてくる。節で高く折れ曲がった脚の先端は研ぎ澄まされた爪。

 着物は消え、二つにくびれてむきだしになった身体は、びっしりと赤銅色の剛毛に覆われている。頭の先には二本の触角、上顎からはみ出した鋭い牙。

 蜘蛛だ。

 犬ほどの大きさもある巨大な蜘蛛が、そこでうごめいていた。

 永吾は刀を抜いた。人の血を吸い尽くす化けものとは、大蜘蛛だったのか。

「子供に油断してしまいました」

 低く唸りながら矢兵衛が言った。

「お互いな」

 二人が身構えるうちに、蜘蛛は、思いのほかの速さで榎に取り付いた。するすると幹を伝い、枝葉にまぎれた。紅葉間近の葉が、ひとしきり頭上に降りそそいだ。

 あとは、気配がない。

 どこにも逃げようはないはずだ。永吾は刀を構えたまま、息をひそめて榎を見上げた。

 突然、空気が動いた。

「隅倉さま!」

 矢兵衛の叫びに、永吾ははっと身をのけぞらせた。目の前を鋭い爪がかすめた。

 枝から糸を伸ばして、蜘蛛がぶら下がっている。八本の脚を広げて永吾を捕らえようとしている。

 矢兵衛が飛び上がって、蜘蛛の脚にかみついた。蜘蛛は、別の脚を器用に伸ばして矢兵衛の身体を絡み取った。そのまままた、木の上に戻ろうとする。

 永吾は蜘蛛の脚を斬りつけた。一本の脚とともに、矢兵衛がどさりと地面に落ちた。

 蜘蛛は空中でゆらりと動き、反動をつけてこんどは永吾に向かってきた。永吾は腰を落として待ち構え、蜘蛛の両眼の間に深々と刀を突き刺した。

 のたうつ蜘蛛は糸を切った。体液をしたたらせたまま永吾にのしかかる。蜘蛛の牙が永吾の首にかかる刹那、矢兵衛は蜘蛛の腹を深く咬みちぎった。蜘蛛は身もだえし、永吾から離れた。

 永吾は身を起こして、さらに蜘蛛の頭に、腹に、刀を突き刺した。蜘蛛はずるずると這いずり回り、ついに動きを止めた。

 永吾はがくりと、榎の幹にもたれかかった。矢兵衛も舌を垂らし、大きく息をしている。

「怪我はないか? 矢兵衛」

 永吾は言った。

「爪を立てられただけです。舐めておけば治ります」

「そうか」

 蜘蛛は、身体中の体液を吹き出して、平たくなっていた。頭部の二つの目玉だけが、剛毛の中、虚ろに突き出ている。

 永吾は、袖で顔をぬぐった。身体中がべたべたして気持ちが悪かった。

 矢兵衛も同様だ。地面に落ちたままの提灯に照らされた矢兵衛の白い毛は、赤緑に染まっていた。

「この姿では、家に戻れんな」

 永吾は苦笑した。

「水浴びでもしていくか」

 歯をむきだして笑ったような矢兵衛は、榎の根元を前足で掘り始めた。

「何をしている?」

「こんなものがあったら、見つけた者が驚くでしょう。埋めておきます」

「手伝おう」

 一仕事終えた後、永吾と矢兵衛はそろって川へと下りて行った。

「だいぶ冷たそうだな」

「風邪などひかれませんよう」

「なんの」

 とはいえそれから三日ばかり、永吾は鼻水が止まらなかった。





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