ヒト愛す二クノール
”二クノールとは、民主国家シュブダラにて社会の安定の為に全国民へ定期的に配布されていた無色透明の飴である。製造方法は安全性のため国家機密となっており、模倣品を作ることは重罪とされていた。飴として配布されていたが果汁などを用いた一般的な飴ではなくコンタブロンと呼ばれる植物の抽出液の結晶を糖分を含む被膜で包んだ錠剤のようなものであった。” (オンライン百科事典より)
三月のある雪の降る日に、ジョン・スミスは寒さに身を震わせながら歩いていた。肩には雪が薄く積り、靴や靴下には融けた雪が滲みこむ。
新品の靴なら多少は水を撥ねたかもしれないが、そんなものを買う余裕は無く、今の運動靴も10年前から履き続けていて、いつ底が破けてもおかしくないような状態だ。
しかし、彼と同じかそれ以上にぼろぼろな靴で雪道を歩く人は珍しくない。
というのも、靴は買うものではなく支給されるものだというのが彼の住む地域の常識だからだ。靴は生産優先度が低く、なかなか市場にまでは流れてこないため値段も高い。
とはいえ、年々降雪や豪雨が増えているこのシュブダラでは靴がなければ労働にも行けなくなってしまうため、生産され次第支給申請者に配られることになっている。彼の今の靴も12年前に申請し、その2年後に漸く届いたものだ。
次の申請は来年で、少なくともあと数年と九ヶ月はやり過ごさなければいけないだろう。
工場は兵器を作るのに忙しく、日用品が生産されるのは膠着状態で軍備の消費が少なくなった時ぐらいだが、国を守る彼らの為なら国民は喜んで雪のしみる靴を履く。
ジョンはここ数年間電気を通されていない街灯が並ぶ大通りから外れて、狭い路地裏を進む。段ボールやビニールシートが壁沿いに点々と敷かれ、カラスが何羽か集まっている。
ゴミが腐敗した悪臭を避けるために冷たくなった手で鼻を抑えながら急ぎ足で目的地まで歩き、錆びた取っ手のドアを開ける。
「いらっしゃい、今日は1個1万円だよ。ってアンタかい。鍵は空いてるから見てきな。」
ここは「野菜売り場」と呼ばれる店で、所謂闇市で、店主の老婆は同僚の話によると30年以上ここを経営しているらしい。
ここで売っているのは米や芋のような野菜などではなく、二クノールという飴だ。
国によって月に一度配布されるその飴はこの国では老若男女問わず人気で、それを舐めている時が国民にとっての一番の幸福だ。
当然、国からの分だけじゃ満足できなくなる人もいて、そういう人はここにやってくることになる。ただ、老婆だけでは飴の在庫にも限りがある。そのためにここでは飴の買い取りも行われるが、老婆曰く生活のために売る人しかおらず、今の時代に進んで飴を売るようなのは自分だけらしい。
自分はいつもここで飴を売っているが、それを舐めたことは一度だけある。
二クノールが配られても大体の子供は親に取り上げられてしまう。
だから、初めての二クノールは今の家に住んですぐのころだった。
口の中にそれを入れてみたら、嫌な甘さがしたが、それは二クノール自体ではなくそれを包む部分の味だということは知っていたので、そのまま口に入れ続けた。
そして目が覚めると顔面が液体でぐちゃぐちゃになっていて、いつの間にか寝ていたらしかった。
その次の日は自然に二クノールを舐めようとしていて、口に入れた途端に甘さへの嫌悪感を前日よりも強く感じて思わず吐き出した。
もったいなくて拾い上げたが、毛が付いていたので捨ててしまった。
それ以降は使う気が起きなくなってしまっていたため、支給された二クノールを暫くマンションに備え付けられた冷蔵庫に放置していた。
飴を冷蔵庫に貯め始めて一年経つぐらいの時、同じ仕事場の人をたまたま見かけたが、その様子が少し変だったためこっそり後を付けていた。
当時は反政府組織も活動が盛んであったこともあり、もしも同僚がそうであったら我々にも反逆者の疑いがかかると思い、政府に摘発するための決定的瞬間を目にしようとしていた。
結果としては、同僚の古い指輪やネックレスと二クノールを老婆に渡す姿があっただけであった。
その後、二クノールの買い取りをしていると聞き、給料日にしか来ないその同僚よりも足繁く通うことになるのだった。
先ほどジョンが何も言わずに、入る許可をもらった部屋はこの店に来ていた客が抵当や代金として置いてったものを保管している倉庫だ。
金がないのに二クノールが止められない人たちや直接紙幣でやり取りすることを恐れる人たちが遺していったものが仕舞われており、それらはほとんど買い戻されることもないので遠慮なく交換されている。
指輪やネックレスなどがほとんどだが、中には写真や本などもある。
印刷もいつからか国が管理するようになったため、裕福な上級市民でも文字が読めるのは週に一度の新聞か、業務上での連絡位で、下級市民である自分ではなおさら文字を読む機会などないはずである。
ただ、ここにはその希少価値から二クノールと交換された本が幾つか残っている。
とはいえ最近は本自体がほとんど消えているので目新しい本は見られず、ここに残る未読の本もあと3冊だった。
今日持ってきた二クノールの数は10個だ。いつも1冊2個で交換できるため、4個残るだろう。取りあえず本を抱え、倉庫を出た。
「この本三冊と余りは現金で。」
そう伝え、二クノールを渡すと老婆は少し困った顔をして口を開いた。
「その本は全部で6個、あまり4個で1個七千円で二万八千円なんだけども、今日は出せる現金が二万五千円しかないんだよ。すまないがあと1個はまた次に出しとくれ。」
「じゃあそれで。」
老婆から金を受け取り、本を上着の下に抱え、出入り口の扉の方を向くと、扉の前に一冊の薄い本が落ちていた。
「おばあさん、これは?」
それを拾い上げて尋ねた。表紙は少し湿っているようだ。
「…いや、知らないものだね。」
睨みつけるようないつもの顔で本を見つめる老婆は、少し不思議そうにしている。
「これは何個で?」
「…1個でいいだろう。」
二クノールを渡して、帰路に就く。雪は止んだが、相変わらず吐いた息は白くなる。
誰にも遭わずにマンションに着いた。
相変わらず埃っぽく、生活音はほとんどせず、備え付けられたエレベーターが動いているところを見たことはない。
しかし、今も戦場で憎き敵国ユイエスダに制裁を下す英雄たちはきっと土の穴倉で全員起立したまま眠るような生活をしているのだ。
ならば、この建物は英雄たちの自己犠牲の賜物であるはずだ。
そう考えると階段を上る足の痛みも我慢できるというものだ。
運よくマンションの住人に顔を合わせることなく九階分の階段を上り、104のプレートが取り付けられた扉の鍵を開ける。
水道とガスコンロ、そして冷蔵庫と箪笥があるこの部屋が自分に与えられた場所だ。
この地区は水道は常時使えるが、都市ガスは正午から三時間だけ通り、電気は主要な場所以外には暫く通っていないが、食料は基本的に毎週配布されるパンとインスタントスープ以外には手に入れられず、そもそも午後7時まで仕事で帰れず、電気を使うようなものは政府にマンションの住民全員で二クノールのために寄付した。
箪笥の中には作業着と寝巻が一着ずつと秘蔵の本と野菜売り場で交換した蝋燭とマッチが入っている。
もしも箪笥の中身が政府に知られたら本や蝋燭とマッチは資源の独占として没収されてしまうだろう。
政府は正しく、本も素直に献上するべきであるが、読書もまた知恵あるシュブダラ国民としては必要なものだろう。
理想的な国民に近づくための新聞は今でも続いているのだから。
薄暗く冷たい室内に暖かい色の明かりを置き、今日買ってきた本をどれから読むべきか考えた。
いつもはタイトルや文章の始まりから考えるのだが今日は不思議と最後に拾った薄い本を読もうと思った。
他の本の半分程よりも薄く、しかし表紙は革に文字の彫られた豪華なものであったからだろうか。
タイトルは「diary」、著者は不明だがこれはすごいものかもしれない。
"diary"が何を意味するかはよく分からないが、この文字はシュブダラが戦争を始める少し前に禁止されていたと思われる。
今のこの国で使用できる文字はひらがな、カタカナ、そして常用漢字のみだ。
もしかしたら敵国の機密情報が得られるかもしれない。
そうしてこの本を読み始めた。
---------------------------------------
これから日記を始めることになったが、日付は入れない。つまり、これは"記"だ。
でも、"己"について語る気もない。よってこれは"言"だ。なんとなく書類に形も似ている。
さて、なぜ逸脱を主義とする私が一般人のまねごと(彼らのは"日記"だが私のは"言"であり同じではない)をするのかというと一般人が日記を止めるであろうことが最近発覚したからだ。
去年からの印刷企業、製紙企業の頭を見よ。急な方針転換や跡継ぎの失踪で世襲制であった企業までもがみな重鎮の中から社長を選んでいるが、経験豊富な者ではなく、不思議なことに突然入社して社長の次の席によこ入りした者たちが選ばれている。そして彼らは今の国のトップと同じ大学であったり、近所にむかし住んでいたり、一度下で働いていたりしている。これ即ち文章の支配がこれから始まるのである。書店で働く者は職場の在庫数を見よ。印刷業者は設備の稼働率を見よ。
もっとも、この文章が私以外に届くことはないのだが。
まさか同時に英語まで禁止するとは、この後はもう分かりやすい。どれくらいわかりやすいかというと「男女差別」という単語の持つ差別意識と同じぐらいわかりやすい。支配の領域は広がり、それと同時に永続する戦争が始まるだろう。それについては次に書こう。さて、英語が話されているユイエスダにはこんな植物がある。その名はコンタブロン。先住民が精霊を身に宿す儀式のために使用していたものだが、所謂大麻に似た植物である。向精神薬としての利用を研究されていたが、依存性の高さと拒絶反応の出にくさから酒やタバコと並ぶくらい人類がハマる可能性があり研究者たちは必死になって企業に我慢するよう説得していたのだが、それはもうパワポから動物実験、挙句の果てにはミュージカルまでやって(嘘である)、やめとけ、やめとけ、子供が死ぬぞと危険性を主張していたのだが、パブロフ的に植え付けられた妄執によって発展途上国で栽培されてしまっていた。研究者たちはそれを知って真顔でシャーレに入っていた葉を食べ始めたという。(もちろんこれも嘘である)葉を突然食べだしたことから虫に例えられ、その結果本の虫という言葉ができたのであるという嘘はつかないでこれだけは書いておこう。この国シュブダラは食品工場に、英語の書かれた箱を大量に運びこんでいる。軍事訓練から帰港した輸送艦を見よ。
案の定戦争は始まった。この後は基本的な生活すらままならなくなるだろう。国民の余力を無くし、不満を敵に向けさせれば、平和が生まれる。いくら厳しくても政府のルールに従えばそれは自由である。文章やその他文明的な財産を廃棄し、無知な国民が増えればさらにシステムは力を持つ。さて、この国はもともと逸脱を許さない空気を持っていたが、この体制下では逸脱の民は撃たれるのみ。しかし、逸脱こそ私が私である条件だ。そのように生きてきた。というわけで、おさらばする。最後に何かいいことを言っておこう、せっかくだから。
あなたは他人にどう受け取られようとあなたのやりたいことをやりなさい。それが周りに迷惑をかけない一番の方法です。
おっと、カッコいいロックなことを書いていたらもう脱出予定時間だ。ということでさようなら。
-------------------------------
本を閉じたジョンは暫く動きを止めた後…他の本を読み始めたのであった。
「完。」