壁紙の傷跡
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
お、ここのお店、壁紙換えたんだ。結構、来ているつもりだから、つい最近のことかな。
ふ〜ん、花柄の壁紙か。嫌いじゃないけれど、前のシックな色の方が好みかねえ。
そういえば君は部屋の壁紙を、自分で取り換えたことがあるかい? 慣れると、柄選びから張り付けるまで、なかなか楽しめるもんだよ。何しろ、僕は油ものを調理するせいか、台所周りの汚れがどうにもひどくてね。そこの部分だけは、ひんぱんに交換しているんだ。
まあ、もしもそこまで汚れていなくても、壁紙に傷が入っていたのを見つけたら、極力、別のものに張り替えることをおすすめするよ。テープとかの応急処置じゃなく、ちゃんとした新しい紙にね。
――いかにも、「メンドくさい」って顔だねえ。
じゃあ、説得力を増すために、君の好きなストーリーという奴を語ろうか。
これは僕の兄から聞いた話だ。兄は大学に入ってから一人暮らしを始めてね、ようやく手に入れた自分だけの空間に、そうとうはしゃいでいたらしい。
何度か部屋にいったことがあるけれど、本にゲームに、飲みかけのペットボトルまで、ベッドの近くに散乱している。兄曰く、ゴミ屋敷じゃなくて、不精屋敷なんだとか。すぐにいじりたくなるものを、枕元に置いているだけなんだと。
一人暮らしをするようになってから、生来のメンドくさがりが、一気に表面化してきたんだ。干してある服とか、布団カバーそのものが、どことなくじっとりしていてさ。今日みたいな夏の日なんかは、特にぞっとしたねえ。
ちゃんと洗いなよと注意すると、「男なんて、たいていこんなもんだろ。友達の家とかもそうだし」と、まるっきり馬耳東風で改める様子が全然ない。
そんな兄は壁紙もあまり気にかけていなかったんだけど、ある時期を境に考え方がすっかり変わることになる。
そのきっかけは、ある友達の家に泊まりに行った時。例の不精屋敷にお住いの人だ。宅飲みが当時の兄の楽しみで、色々なカクテルを作りつつ、業務用スーパーで買ってきた大量の冷凍唐揚げを堪能する、というのが休みの夜の過ごし方だったとか。
その日も二人で分担して、お酒と唐揚げの準備をしていたんだけど、兄はふと気がついたんだ。
ガスコンロの裏手に貼ってある壁紙。油汚れに半ば黒く染まってしまったそれの、ほぼ目線の延長線上の高さ。そこにカッターが横一線に走ったかのような、傷が切れ込みができていたんだ。
長さは、ちょうど兄の中指一本分くらい。空気が入り込んだのか、「下くちびる」にあたる側が、わずかに膨らんで外側にめくれかけている。
目に留めてしまったけど、人の家だ。そこまできつく言う必要もないだろう。そう思った兄は、いつも通りに飲み食い騒ぎ。丑三つ時になって、ようやく敷いた布団で二人ともそろって横になった。
寝入ってから一時間くらい。兄はふと目が覚めた。アルコールが入ると、往々にして眠りが浅くなると聞くけれど、そのためだけじゃない。
友達の寝息が聞こえなかったんだ。つい先ほど、眠りに落ちる前には聞こえていた、鼻と喉の震える音。それがぴったりやんでいたんだってさ。
もしやと思い、隣の布団に目を向ける。友達はこちらに背中を向けて、寝返りを打っていた。その肩は上下していない。兄はそっと、友達の背中に触れてみる。背骨からかすかに左にずれた、心臓の位置に向けて。
動いている。兄はふうっと息を漏らした。気づくと、寝息も肩の動きも、聞こえて目に見えるようになっていた。
睡眠時無呼吸症候群。少し前、耳にした病名がふと頭に浮かんだ。けれど、一般的な特徴だと言われている、大きないびきをかいていた様子はない。もっと別の病気なのかもしれなかった。
翌日。十時過ぎにゆっくり起き出した友達にそのことを話したけれど、はなから信じていない顔で、形ばかりのお礼を言われ、それでおしまいだったらしい。
それから、兄は友達の家に時間を見つけては、足を運ぶようになったんだ。友達の様子を見るためにね。
「これでお前がかわいこちゃんだったら歓迎なんだがなあ」と苦笑いをする友達。その屈託のなさと、寝ている時に消えてしまう呼吸のコントラストが、兄には恐ろしく感じるようになっていたんだ。
そして、これは何もお人好しからばかりじゃない。兄の部屋のガスコンロ。その真後ろの壁紙、ちょうど自分の目線の位置が、ぱっくりと横一文字に割れていたんだ。ちょうど友達の家と同じようにね。
故意に傷つけたなんてことはしない。けれど、自然に剥がれたにしては、切れ目があまりにきれいすぎる。
紙の下からのぞく壁肌は、やや灰色がかったコンクリートだった。そこにも壁紙と同じように細く横一線に削られた、傷が浮かんでいたらしいんだ。
家にいるのが、少し怖くなった。もしかしたら、自分も友達と同様に、寝ている時に呼吸が止まってしまっているかも知れない。自分がいたから、友達の異変にも気づくことができたが、一人であの状態がずっと続いていたら……。
そう考えたら、友達の家の壁紙を観察し、できるかぎりの分析をして自分の家に役立てたい。そう思うようになっていた。
最初に友達の許可をもらって、壁紙の切れ目に沿ってテープを張ってみたらしい。でも、すぐに力不足だと分かった。数時間もするとテープは剥がれ落ちて、あの壁紙の切れ目をさらけ出す。テープの接着面は、不自然なほど水滴が浮かんでいる。内側から霧吹きを浴びたかのように。
次に縫い糸を試したけれど、結果は同じ。壁紙が玉止めを弾き飛ばし、その傷が大口を開けるのを、止めることができなかった。
その異様さを友達に報告したけど、真剣に取り合ってはもらえなかったみたい。「どうして人の部屋のことに、いちいち手や口を出してくるんだ?」と、言外に訴えかけるような目で見つめられたことも、しばしば。
さすがの兄も、内心では機嫌を損ねたよ。「お前のためじゃない。俺が無事でいたいからだ」と言いたいのを、何度もこらえた。
報われない奉仕を続けているなど、考えただけで心が辛い。なら、本心を捻じ曲げてでも、自己中心的でいた方が、ずっと楽だ。
壁紙の切れ目はとうとう、腕がすっぽり入ってしまうほどに大きくなってしまった。その裏側では、兄の部屋と同じような切れ目が、コンクリートの壁に長く長く刻まれていた。
その傷からは、かすかに風が通るような音が聞こえ、手をかざすと皮膚にグレーの粉らしきものがついて、兄は慌てて手を洗ったとか。
兄の再三の忠告もあり、友達も壁紙を張り直すことに同意したけど、すでに時間は日付をまたぐ寸前。「明日にはやるよ」と、ダメ人間お決まりの文句と共に、二人は眠りについたんだ。
そして兄は、またいつぞやと同じ時間に目が覚めた。
友達の寝息が聞こえない。すでに何度かあり、そのたびに無事だったけど、過去の経験が未来の安心まで保証してくれたためしはない。
これまで何度もしたように、友達の方を見て、兄は目を見開いた。
布団の中に友達の姿がなかった。それが膨らみひとつない、もぬけの殻だったならば、どれだけ良かっただろう。
布団には、友達の代わりにコンクリート片が横たわっていた。どこかの柱からもぎ取って来たように、枕を押しつぶしている先端部分は、粗い目を持っている。
兄は意味の分からない光景に、しばらく身動きが取れなかった。そっと起き上がって、友達がどこに行ったのか探してみるけれど、1DKの部屋で隠れられそうな場所はそう多くない。
風呂場、トイレ、押し入れ……順番に回ってみたけれど、姿はなかった。手探りで玄関まで来てみたけれど、友達の靴はある。外に出ていったわけでもない。
兄は心臓がばくばくし出すのを感じていたよ。もしも、自分の予想が合っているならば、友人は消えたのではなく、初めから動いていない。ただ、変わってしまったのだと……。
もっとよく確かめないと。そう思って兄は、玄関わきの明かりのスイッチをつけて、飛び上がりそうになったよ。
あの壁紙と、その裏の壁の傷。そこからおびただしい量の赤い液体が流れていたんだ。壁紙とのすき間にも流れ込んでいるであろうその液体は、袋のように壁紙を膨らませている。
時々、思い出したように傷口から「ぐっち、ぐっち」と水音を立てながら、定期的に液体が勢いよくあふれ出る。まるで心臓の鼓動のように。
兄はすぐに友達の家を飛び出し、その夜はネットカフェでぶるぶる震えながら明かした。友達にメールをしたけれど、返事は期待していない。
そして始発と共に、自分の部屋に逃げ帰った兄が見たもの。それは玄関に置いておいたゴミ袋や台所用品、そしてベッドとその周りに置いてあった「不精屋敷」の構成員が、すべてコンクリート片と化している姿だった。
傷の入った壁紙は盛大に剥がれて、中からはコンクリート片と同じ色の灰色の液体が、コンロ周辺に巻き散らされていたとのこと。
結局、友達はその日以降、行方が分かっていないんだってさ。