第七話
散々な思いをしたあとの午後――。
秀海学園での一日は、午前が一般的な高等学校で習う授業、午後はそれぞれ専門の分野の研究に別れている。
生物に着目して海洋のありかたを解明していく学問、『生物海洋学』を専攻している僕は、午後から海洋研究所で学ぶ。
各研究所での授業が終わると大半の生徒は帰宅するわけだが、僕は海洋研究所に残る。
生活費を稼ぐためのアルバイトタイムが始まるからだ。
アルバイトと言っても、表向きは『お手伝い』ということになっている。
普通にするアルバイトより給料は少ないが、勉強する時間もお金も欲しい僕にとっては一石二鳥でありがたい。
「はあ、癒やされる……」
今がその『お手伝い中』で、僕は水槽のクラゲを観測している。
ここのクラゲ達はちゃんとした設備で育てているから長生きだし、生命力があって綺麗だ。
今見ている水槽にいるのはカラージェリーフィッシュという種類で、比較的飼育しやすい。
名前の通りに色にバリエーションがあり、ほわほわ泳いでいてとても可愛い。
昼間の貴久先輩にされたキスのことなんて忘れられ……ああっ!! 記録するために持っていたボールペンを落としたーっ!
水槽の中じゃなくて、床に落ちてよかった……ってよくないな。
呆けていては駄目だ。しっかりしよう。
これからもガリガリ勉強して一位を死守し、そして生徒会補佐として頑張るのだ!
あ、そういえば……。会長とは、貴久先輩に強制連行されたときに別れたままだ。
ちゃんとした話を聞けていない。
明日、会長を探してみよう。
「……よし。今日のお手伝いはこれくらいかな。そろそろ帰ろう……あ。深海魚の方を見てからにするか」
僕はデメニギスが好きだ。
頭が透明でコックピットみたいというか、どこかロボっぽいし名前がかっこいい。
めずらしい深海魚でここには標本しかないのが残念だ。
水槽にいる子の中では、タカアシガニが好きだ。
オスはハサミ脚を広げると三メートルに達する大きさで迫力がある。
うーん……? タカアシガニを思い浮かべていると、なぜか貴久先輩の姿も脳裏に浮かんだ。
名前の『タカ』が一緒だし、足が長いというのも共通点ではあるが……。
これから貴久先輩と出くわしたら、動揺しないようにタカアシガニだと思うことにしよう。
「うん?」
学生は全員帰ったし、先生たちも今はいないはずなのだが……近づいて来る足音が聞こえた。
「あれ? 会長」
「よう」
不審者が入って来たのか!? とドキドキしたが、現れたのは生徒会長だった。
「どうしたんですか?」
「もう少しちゃんと話をしておきたくてな。お前がここにいると聞いて寄ったんだ。押しかけて悪いな」
「いえ! 僕も気になっていたところでした」
笑顔で答えると、会長が微笑んだ。
「作業は終わったのか? もう少し話せるか?」
「はい! 終わったところです。あ、先に着がえてきていいですか?」
「もちろんだ」
会長を長い間待たせるわけにはいかない。
手早く着がえると、僕は会長の元へ戻った。
「家が一緒の方向なんですね」
「そうみたいだな」
研究所から外に出ると、空が暮れかけていた。
どこかに立ち寄ってゆっくりする時間はなさそうなので、帰りながら話すことにする。
学園都市内は、研究所関連の人達の帰宅時間ということもあり、人の姿も車の通りも多い。
大通りから一本中に入った、比較的落ちついて歩くことのできる道を会長と並んで進む。
会長は背が高くて足が長いからか、歩くのが速い。
ちょっとついて行くのが大変だ。
「あ、悪い。早かったか?」
「ちょっと……でも、大丈夫です」
時折ちょこちょこと走れば引き離されることはない。
少し先を歩いていた会長に追いついた。
「……ペンギンか?」
「?」
会長が大きな手で顔を押さえながら呟いている。
「ペンギン? 何ペンギンですか? エンペラーですか? フンボルトですか? マカロニ……」
「待て、そこまで詳しく知らない。……これくらいで大丈夫か?」
どうやら歩くペースを落としてくれたらしい。
でも、これはちょっと遅すぎかなあ?
僕はコガタペンギンじゃないぞ。
でも、ゆっくりだと会長と長く話ができるからいいかもしれない。
「早速明日、昼に生徒会に見学に来ないか?」
「行きます!」
早く生徒会の補佐の仕事をしたい。
二つ返事で頷いたら、会長も嬉しそうに笑った。
「会長は一人暮らしですか?」
秀海学園の生徒は、学園が指定している住居なら無料で入ることができる。
そのため、学園都市の中では学生の一人暮らしが多い。
「ああ。学園指定のところに住んでいる。木野宮は?」
「僕もです!」
会長にあの趣しかない昭和アパートを紹介するのは恥ずかしが、学校指定だと分かっているのだから、こんなところに割り当てられるなんてツイてないな、と笑ってくれるだろう。
「あ、ここです」
タイミングよく僕が住むボロアパートが目の前に見えてきたので、指をさして教えたのだが……。
「……どこだ?」
会長が顔を顰めている。え?
ちゃんと指差しているし、会長もボロアパートを見ているのに見えないの……?
まさか、僕のアパートおばけアパートじゃないよね?
存在しているよね!?
「だから、このアパートのここです!」
僕の部屋がある、一階の真ん中辺りにあるドアをもう一度指差すと、会長は事件にでも遭遇したかのような驚愕している顔になった。
「本気で言っているのか?」
「そうですけど?」
「オートロックじゃないじゃないか!」
「鍵はついてますよ?」
「当たり前だ! こんなに道路からダイレクトに部屋があっていいのか!?」
そう言われましても……僕は日々、このダイレクトスタイルで生きています。
「どうしてこんなところに住んでいるんだ?」
「指定のタダのところなので」
「指定? 指定……指定!? こんなところが指定になっているのか!?」
会長が今までで一番大きな声を出した。
動揺していると、真剣な目をした会長に両肩をガシッと掴まれた。
「木野宮、引越だ。今日……はさすがに無理があるから明日だ」
「?」
なぜ急にお引っ越し?
明日でも無理があると思うのだが……やっぱりおばけアパートなのですか?
「こんなにセキュリティ面が不十分なところが、学園の指定を受けているのはおかしい!」
「え? そうなんですか?」
「ああ、徹底的に調べる」
凜々しくそう言った会長からデキル男の匂いがした。デメニギスよりかっこいい!
「安全面が心配だ。今日は俺の家に泊まれ」
「え? でも、荷物がありますし、ここでいいですよ?」
危険だと言われても、今まで普通に住んでいたのでぴんとこない。
「駄目だ。どうしてもここが良いのなら、俺もここに泊まる」
「ええ? 布団一組しかないですよ」
「床でいい」
「じゃあ、一緒に寝ます?」
「そうだな。……え?」
テンポ良くキリッと答えていた会長が、僕を見ながら固まった。
「じょ、冗談ですよ? 男二人で一緒に寝ても、はみ出しちゃうだろうし意味ないと思いますし」
「あ、ああ、分かっている」
こんな反応をされるとは思わなかった!
軽く流されると思ったのに、びっくりされてびっくりした……。
「本当に泊まっていくんですか?」
「ああ、頼む」
まじか。なんて面倒見がいいんだ。
やっぱり生徒会長になる人ともなれば、責任感がある。
感心しながら、我が昭和の城にダイレクト入室したのだった。