第六話
貴久先輩に手を引かれ、辿り着いたのは食堂とは別にある校舎の一室だった。
校内の部屋には基本室名札がついているが、ここには何もついていなかった。
貴久先輩は指紋認証のロックを外すと、僕をそのまま中に押し込んだ。
部屋の中は、高級感のある応接室のような作りになっていた。
いかにもブランド物なソファに、部屋の角には簡易の給湯室もついている。
「ここはオレが自由に使っていい部屋なんだよ」
「そうなんですか?」
学校内に私室のような部屋があるなんて、貴久先輩って何者?
学園の上層部に貴久先輩のファンがいるのだろうか。
ありえる……。
「零、おいで」
「おわっ」
ソファにドカッと座った貴久先輩に急に強く手を引かれ、転んでしまうと思ったが……違った。
僕を上手くキャッチした貴久先輩の膝の上に、横向きに座らされる。
脇腹にまわされた手が、僕の体をさらに引き寄せた。
バランスが取れず反射的に手をついた場所は貴久先輩の胸だった。
こんなにくっついている状態で、更に自分から身を寄せていったことに顔がカーッと熱くなった。
「零」
名前を呼ばれたらすぐに貴久先輩の目をジーっと見てしまう。
これは付き合っていた間についたクセだが、僕の身体はまだ忘れていなかったらしい。
気がつけば貴久先輩の硝子玉のような綺麗な蒼い目を覗き込んでいて、そこには戸惑っている自分の姿が映っていた。
「零」
もう一度名前を呼ばれる。
今度は貴久先輩の綺麗な手が僕の頬に添えられた。
ああ、この感じ。拗ねている時に誤魔化されるいつものパターンと似ている。
……ということは……キスされる!
慌てて回避しようとしたが……間に合わなかった。
「んぐっ!」
全力で顔を逸らして、いつの間にか後頭部を押さえられていて離れられない。
むしろ深くなって……死ぬ……動揺して暴れることで、どんどん酸素がなくなっていく!
いつの間にか後頭部を押さえられていて逃げる事ができない。
どうして別れたあとでこんなことをされないといけないのか――。
だんだん腹が立ってきた僕は、全力で閉じていた口を開き、がぶっと噛んでやった。
「痛っ」
……わけが分かんない!
呼吸が乱れていて話せない代わりに抗議の視線を向けると、なぜか貴久先輩はにこりと笑った。
「零が一番可愛いよ」
「はい? っていうか、いち……ばん?」
いちばん……ん? んん?? 『一番』って言った?
「……最悪」
『番』って何? その他大勢がいて、順番があるってこと?
危ない、危ない。
顔と声に騙されて絆されてしまったら、せっかく抜け出せたのにつらい日々に逆戻りだ。
僕はナンバーワンになりたいんじゃない、オンリーワンがいいんだ!
「はあ……」
思わず深いため息をついた。
雲の上、天界の人である貴久先輩と分かり合うのは無理だ。
天界にいる神様に対して、僕のような下界の人間が許されるのは信仰のみ。
神様と対等に愛し合いたいなど、恐れ多いこと――。
始めてはいけない恋愛だったのだ。
「零?」
僕を抱きしめようとしていた手を押し避け、貴久先輩の膝から降りた。
「今ここで起こったことは忘れます、なかったことにしてください」
「どうしてそんなことを言うんだ? 零は何に怒っているんだ?」
「怒っていません。もう、何の感情もありません」
キスは逃げられなかっただけだし、怒っているんじゃなくて辛いから逃げたいだけ。
「さよなら、貴久先輩」
「待って、零!」
貴久先輩の顔を見ないように俯き、部屋を飛び出した。
今度はちゃんと別れが言えた……言えたよね?
これでもう、つらい思いをしなくても済む。