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第三十話

『ありがとう、電話に出てくれて』


 そう呟く声は、とても安堵しているようだった。

 副会長から連絡はあったけれど、本当かどうか疑っていたのかな。


『今は家? 話したいことがたくさんあるんだけど……大丈夫かな?』

「えっと……大丈夫です」


 家ではないけどゆっくり話をすることはできる状態だ。

 副会長は同じマンションになるという件を伝えていないと言っていたけれど、ホテルにいることも話していないようだ。

 僕の返事を聞くと貴久先輩は嬉しそうに「よかった」と零した。


『……何から話そうかな。電話をかける前にシミュレーションしたんだけど、いざ話してみると上手くいかないね』


 貴久先輩の苦笑いをしている声が聞こえる。

 なんでもできる貴久先輩が上手くいかない、なんておかしなことだ。

 その要因が自分にあると思うと、変な感じがする。


「…………」


 沈黙が流れているが、言いたいことは既に伝えてあるから、僕から何も言うことはない。

 大人しく貴久先輩が話し始めるのを待った。


『零、たくさん傷つけたね。……ごめんね』

「…………」

『この前、あの部屋でのこと。本当に馬鹿なことをしたと思う。零に「千鳥といろ」と言われて頭に血が上ってしまって……。本当に千鳥にキスをするつもりはなかったんだ。ただ、零の中にまだオレが残っているのか、どうしても確かめたくて、あんな愚かなことをしてしまった。ごめん、もう二度としない。すまなかった』


 確かに「早川の方が可愛いから、早川といろ」と言った記憶はある。

 あれが貴久先輩を煽ってしまっていたのか。


「僕はもう気にしません。謝るなら、早川に……」

『千鳥にはもう謝ったよ。……ちょっと困ったことになっちゃったけど』

「え?」

『許して欲しかったらちゃんとキスしてくれって言われてね。でも、できないから……謝り続けてはいるんだけど』


 うわあ……そんなことになっていたのか……。

 さすが早川、転んでもただでは起きない強かさに脱帽だ。

 貴久先輩の声が疲れているように聞こえるけど、自分でまいた種だから頑張って解決してください。


 なんだか早川の話を聞いたら気が解れた。

 ベッドに正座していた足を崩す。

 スマホを耳にあて直していると、何か考えていたのか、黙っていた貴久先輩が再び話し始めた。


『零がどうして離れて行ったか、ずっと考えていたんだ。皆にいい顔をして、一番大切な人を蔑ろにした愚かなオレに愛想を尽かせてしまったんだろう?』


 愛想をつかした、というより、これ以上悲しい思いをしたくなかった、という方が正確だが、やっと僕の気持ちを概ね理解してくれたらしい。


『最近よく、零がオレに想いを伝えにきてくれたときのことを思い出すんだ。今まで告白されることは何度もあったけど……あんなに嬉しかったのは初めてだった』


 嬉しかった? 本当に?

 告白をしたものの、返事も聞かず逃げ出した僕を追いかけて来てくれた姿はよく覚えている。

 ……そのあと、抱きしめてくれたことも。

 笑顔も覚えてはいるけど、時間が経つにつれて、あの笑顔が気持ちの現れだったのかどうかも疑わしくなっていた。


『零は入学してからずっとオレを見てくれていただろう?』

「え?」


 学校で貴久先輩を見かけてからは、いつもその姿を探していた。

 見つけると嬉しくて追いかけて……人気者の貴久先輩を遠くから見ていた。


『気づいていたよ? 迷子になっていたあの時の子だって』

「そう……なんですか?」


 貴久先輩が気づいていたなんて驚いた。


『迷子の零に「大丈夫?」って声を掛けた時、零はオレを見て本当に嬉しそうに笑ったんだ。ありがとうございました、って別れる時もね。零のあどけない笑顔を見て……気づけば頬に触れていた。そんなことをしたのは初めてだった』


 ……頬を触られたっけ? それは覚えていない。

 あの時の僕は、貴久先輩を意識しすぎて頭がフワフワしていた。


『案内が終わっても離れたくなかったけど……そんな時にどうすればいいか分からなかった。帰ってから名前だけでも聞けば良かったと、どれだけ後悔したことか。だから、学校で見つけたときは嬉しかった。零もオレに気づいてくれているのが分かったから、余計にね』


 ……貴久先輩も僕と同じだったんだ。

 完全な一方通行だと思っていたのに、貴久先輩も僕を見ていてくれていたなんて……。

 今だから言う作り話なんじゃないの? なんて邪推をしていないと、冷静でいられそうにない。


『でも、二人で話せる機会が中々なくて――。チャンスを伺っていたときに、零の方から来てくれたんだよ』


 ……やっぱり、作り話なんじゃないかな。

 あんなに人に囲まれていた中で、そんなことを考えてくれていたなんて信じられない。


『嬉しくてすぐにでも抱きしめたかったのに、零はすぐに走り去ろうとしただろう? 好きだって言ってくれたのに、ごめんなさいって離れて行くから……あれには焦ったよ』


 貴久先輩が笑っている。

 だって、あの時はまさかOKを貰えると思っていなかったから……!

 僕にとっては諦めるための告白だったから、想いを告げたらすぐに消えてしまいたくなった。

 分かってはいるけれど、告白を断る言葉なんて聞きたくなかった。


『慌てて追いかけて……やっと捕まえた。もう絶対に離さない。そう思っていたのに……オレが間違えた」


 明るかった貴久先輩の声が沈む。


『オレは周りにお願いされると断れない。そばにいたい、と言われたら、好きにすればいい、と思っていた。オレは零さえ側にいてくれたら、それでよかったから』

「え……」


 僕は二人きりになれないことは、愛して貰っていないからだと思っていたけど……貴久先輩は人がいても、どんな環境でも僕がいればよかった、ってこと?


『零がそれを良しとしていないことには気づいていた。でも……零が妬いて、甘えてくれるのが嬉しかった。零がオレを好きでいてくれると確かめることができたし。零を傷つけて試すことでオレは安心していた。そんな愚かな毎日に慣れてしまって……』


 貴久先輩が言葉を詰まらせている。

 その間も僕は、さっきの「零さえ側にいてくれたら」という言葉が引っかかっている。


「……僕のことを、本当に好きでいてくれたんですか?」


 だって、あんなにその他大勢と一緒だったじゃないか。

 でも、貴久先輩にとってはあの人達は、いてもいなくても一緒で……?

 思考がこんがらがってきた……考え方の相違、というものなの?


『……ごめんね、零。オレはそんな台詞を言わせるほど、自分が求めるばかりで零のことを大事にできていなかったんだね。大好きだよ、零。愛している。許されるなら、どれだけオレが零のことを想っているか伝えていきたい。ちゃんと言葉で、行動で。だから……オレのところに戻って来てくれないか。もう一度チャンスが欲しいんだ』


 ……副会長の言っていた「話し合った方がいい」は正しかったのかもしれない。

 僕は散々自分の気持ちを言ったつもりでいたけれど、貴久先輩の考えを聞けていなかった。

 そんなのちゃんと言ってくれないと分からないよ、と思う気持ちもあるけれど……。

 そこまで話し合えなかったのは、お互いに理由がありそうだ。

 

 今までの自分の気持ちが報われた喜びと、分かり合えなくて別れた後悔がぐちゃぐちゃになっている。

 少し前の僕なら、すぐに貴久先輩の元に戻っただろう。

 でも、気持ちを断ち切り、一歩踏み出して、色んなことを頑張ろうとしている今は……。


 そして、どうしても会長の顔が目に浮かぶ。

 貴久先輩との時間を取り戻すよりも、会長とご飯を食べたり、知育菓子の粉を吹っ飛ばして笑ったり、魚のことを力説して呆れられる時間の方が愛おしいのだ。

 こんな気持ちで、やり直すなんて……無理だ・

 

「……貴久先輩のところには戻れません」


 もう、僕の心は変わってしまった。

 変わったことには後悔はないが、想い合えたはずの人を傷つけてしまうことがつらい……。


『……やり直せないんだね?』

「……はい」


 元には戻れない。

 でも、貴久先輩の気持ちを知ることができてよかった。


『分かった。……諦めるよ』

「……ごめんなさい」

『謝ることはないよ。やり直すことは諦めた。でも零のことは諦めないよ』

「…………え?」


 ……えっと、意味が分かりません。


『もう一度、零に好きになって貰えるように、片想いからがんばるよ。……湊にはやらない』

「はい? え?」


 貴久先輩が吹っ切れたような、覇気の強い声になっているが……え?

 予想していなかった流れに、頭がついていかない。


『ああ、勘違いしないでね。湊に渡したくないから諦めないんじゃなくて、零が好きだから諦めないんだ』

「それは……えっと……困ります……」

『昼にあの部屋で待つのはやめるよ。やり直すために、話がしたくて待っていたけど……手に入れるためには動かなきゃ駄目だよね』

「あの……そういうことじゃなくて……」


 ちょっと待って、流れがおかしいって……。


『零、明日の休みはどうしてる?』

「え!」


 あなたと同じマンションに引っ越しします、とは言えない。


『……湊と約束してる?』

「えっと、会長はいないと思います……」

『湊はいない? でもあの辺りの奴はいるってこと? 彩斗?』


 なんで分かるの!

 僕って分かりやすいのか?

 会長にも副会長にも、大体思考や行動を読まれてしまっている気がする。


『ふふ、零は本当に可愛いね。分かったよ。じゃあ、明日』

「え! いや、その……」

『うん? 長い時間話してしまったから、そろそろ悪いかなと思ったんだけど、まだ話していいの?』

「そういうわけじゃなくて……」

『うん。明日ね』

「明日はその……っても切れてるし」


 最後に貴久先輩の楽しそうな声が聞こえた気がした。副会長に確認するつもりだな?


「副会長! どうぞ、波風が立たないようにお願いします!」


 駄目だ……あの人、バシャバシャ波を立ててはしゃぐタイプだった……。

 気持ちの整理をしたかったのに、猶予を与えては貰えないこの感じがつらい。

 ぱたんとベッドに倒れ、天井を眺めた。


「ん?」


 スマホが震え、電話の着信を告げている。

 貴久先輩、まだ話があるのかな、と思ったら――。


「会長だ!」


 思わずガバッとベッドから身体を起こした。

 何の用だろう。

 ……というか、今は会長の声を聞きたいけど聞きたくない。

 貴久先輩との電話で動揺しているから、弱っているというか……。

 無性に会長に会いたくなっているから、会いに来て、とか言っちゃいそうな自分が嫌だ。

 自分がウザすぎる。


「会長、ごめんなさい……電話は出ないでおきます」


 スマホ向けて頭を下げて謝罪をすると布団の上に置いた。

 あとで何の用事だったかメッセージを入れておこう。


「……お風呂に入ろう」


 お風呂というか、シャワーだけでいいか。

 色々あった直後で、怖くないうちに済ませておきたい。

 コンビニで買って貰った下着やタオルを準備して、すぐにシャワーを浴びた。




「バスローブ、簡単だと思ったのに難しいな?」


 着替えが下着しかないし、制服を着て寝ると皺になる。

 一人だけだし下着だけでもいいかなと思っていたが、バスローブを見つけたのでそれを着てみた。

 家ではこんなもの着ないし、家族や友達と泊まったホテルでは着なかったから初体験だ。

 袖を通したけど、ちょっと大きいし、バスローブは僕にはレベルが高すぎる代物だった。


――ドンドン!


「!!」


 扉を叩く、大きな音にビクッと肩が跳ねた。

 だ、誰!? オカルト現象!?


「……ど、どうしよう」


 中に人がいるとバレてしまうと危ないかもしれない。

 息を止めていると幽霊や怪物には姿は見えない、なんて漫画を思い出したので、息を殺して扉に近づいた。


「おい、木野宮! 木野宮、大丈夫か!」


 あれ、この声……会長だ!

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