第十一話
「ねえ、零。もう今から行こうか」
「……授業中です」
「勉強ならオレが教えてあげるよ。順位では負けたけれど、一年生の内容なら分かるからね」
「……行きません」
ついて行ったら、この前のように襲われるかもしれない。
身を守るためにもお断りしたいし、鉄のガリ勉としても授業をサボるなんて大罪を犯すことはできない。
「じゃあ、ここでしようかな」
不穏な言葉が聞こえてきた。
恐る恐る「何を?」と聞くと、大天使クリス様と拝みたくなるような満面の笑みを向けられた。
「オレはいいよ? どこでも」
「…………」
何をする気か分からないが、こんな人目のあるところでされるとまずいことだということは分かる。
そして、ちゃんと話をつけないと、いつまでも追いかけてきそうだ。
……今日こそ決着をつけるこるか。
ガリ勉の神様、ごめんなさい。
家に帰ったら知恵熱出るまで勉強しますので許してください。
※
物音を立てないようにこっそりと席を立ち、ホールを抜け出す。
手は繋がれたままで離してくれない
この廊下は室名札のないあの部屋に続いている。
あそこに行くんだろうなあ。
頭にタカアシガニを浮かべながら、警戒度マックスで臨もう。
強く握られた手をこっそり解くことができないか、手を少し引いてみる。
ガッ! っと一気に引っこ抜けばいけるかな?
「駄目だよ、逃げちゃ」
すぐにバレてしまった。
貴久先輩はお見通しだと言いたげな視線向けてくる。
「お姫様だっこしようか」
「このままでいいです」
逃げるのは……多分無理だな。
たとえ手を解くことができても足では勝てない。
うぉりゃー! と投げ飛ばすなんてもっと無理だ。
また、ああいうことをされそうになった時は全力で防御しないと……。
辿り着いたのはやはりあの部屋で、今日も指紋認証でロックを解除した。
僕の部屋よりもハイテクだ。妬ましい。
「さあ、入って?」
「…………」
これ、一度入ってしまったら二度と出てこられない扉じゃないよね?
そんなことが頭に浮かんで足が竦んだのだが、貴久先輩に肩を抱かれ、あっさり中に入ってしまう。
「ねえ、零。どうしてここに連れて来たか分かる?」
前回はソファに座ったが、今日は入ってすぐのところで立ったまま話すらしい。
向かい合って両手の指先を絡ませるように繋がる。
引きちぎりたい……タカアシガニの足なら食ってやるのに……。
「分かりません」
ぶっきらぼうに答えながら、別れてからの方が二人きりの時間が多いような気がする……と首をかしげたくなった。
あんなに頑張ってお願いしても聞いてくれなかったのに、どうして今更……。
「昨日湊としたこと、全部教えて?」
「!」
顎を掴まれ、目が合うところまで顔を持ち上げられる。
「こういうこと、してない?」
あ……今が逃げなきゃいけない時だ!
貴久先輩から離れようとした、その時――。
「クリス先輩!」
バンッ! という大きな音と共に扉が開いた。
そこには眉間に皺を寄せ、辛そうな表情をしている早川が立っていた。
「千鳥?」
「ごめんなさい……後をつけて来ちゃった。でも……!!」
早川は怒りを隠さず、床を踏みつけるように足をダンダンッと鳴らしながら僕に近づいて来た。
目の前まで来ると両手を出し、思い切り僕を突き飛ばした。
「何するんだよ!」
僕の抗議など気にせず、早川は今まで僕がいた場所に入り込み、貴久先輩の両腕に縋り付いた。
「クリス先輩! こんな奴よりボクの方が先輩のことが好きだし、可愛いよ!」
こんな奴ってなんだ!
早川の見た目は可愛い事は認めるが、中身は全然可愛くない!
「……うん、千鳥は可愛いよ」
貴久先輩は苦笑いをしているが、早川の頭を優しく撫でてやっている。
「…………」
思わず盛大に顔を顰めてしまった。
まだこの光景を見なきゃいけなのか! もういいって! うんざりだよ!
鉄のハートだなんて無理だった。
僕の心は、どうやらアルミホイルくらい薄っぺらいらしい。
動じないなんて無理だ。
どうでもいいと思っていたはずなのに、気持ちがずどんと下がってしまう。
もうしんどい……ホールに戻ろう。
こんなつらいことなんて忘れさせてくれる、楽しい勉強が僕を待っている。
「零? 零! 待って!」
「僕のことは気にしないでください。僕も早川の方が可愛いと思いますので、思う存分いちゃついてください」
自分でも驚くほど低い声が出た。
本当にもう、僕に構わないで。
「零……」
名前を呼ばれても無視だ。
僕の中の貴久先輩に関する事はどんどんデリートしていく。
「じゃあ、千鳥とキスしていい?」
「…………は?」
扉を開けて出て行こうとしたところで、わけの分からない台詞が聞こえて来た。
思わず足が止まり貴久先輩に目を向けると、真剣だけれどどこか鋭い目つきで僕を見ていた。
怒っているの?
怒りたいのは僕の方だよ?
「零が止めないと……するよ?」
そう言うと早川の頬に手をあて、上を向かせた。
僕と同じように驚き、戸惑っていた早川だったが、貴久先輩との距離が無くなり始めると嬉しそうに微笑んだ。
目を閉じ、貴久先輩の唇を受け入れようとしている。
いや……さっきも思ったけど……なんでこんなものを見せられなきゃいけないんだ?
僕が何か悪い事をしたか?
貴久先輩とのことはもう終わっている。
だから止めなくてもいいと思っている。
脳はそう判断しているのに……!
止めなければ、今までの思い出も全部早川に奪われてしまう気がして……。
「……い……やだ」
気づけば声を出していた。
僕が声を発してしまったその瞬間、貴久先輩の動きが止まった。
「零……!」
僕の名前を呼び、僕を見ている。
その目はなんだか嬉しそうで……それが心底腹が立った。
「もう……嫌だ……どうしてこんなに僕を苦しめるの!?」
僕の怒りは爆発した。
悲しくて、悔しくて、腹が立って……涙が溢れてきた。
……こんなに苦しいなら好きになるんじゃなかった。
……好きになったことまで後悔させないで欲しかった。
「れ、零……違うんだ」
焦った先輩が近寄ろうとする。
僕は先輩が近寄ってきた以上に離れる。
「何が違うの!? こんなことに利用されて、早川だって傷つくよ!」
そう叫ぶと貴久先輩はハッと息をのみ、早川を見た。
俯きギュッと拳を握っている早川は涙をこらえているようだった。
早川のことは好きじゃ無いけど、こんな弄ぶようなことをされるのは可哀想だ。
貴久先輩が優しい人だということは知っている。
今のだって僕らを傷つけるつもりではなかったと、つい出来心だったのかもしれない。
でも、ひどすぎる。
「もう離れるから! 僕に一切構わないで! 見えないところでやってよ!」
「零!」
引き留める声を無視して部屋を飛びだす。
ホールには戻れない。
涙が止まらないから、人前には出られない。
誰にも会いたくない。
早く人の目がないところに行かなきゃ。
がむしゃらに廊下を走り抜け、外に飛び出した。
「もう……家に帰ろう」
こんな状態では授業なんて受けられない。
ガリ勉にも休息は必要だ。
「あ、鍵……」
門を出ようとしたところで、家の鍵は会長が持っているということを思い出した。
誰にも会いたくないけれど……会長に会わないわけにはいかないか。
生徒会室に行く約束をしていたけれど、それはできそうにないから謝らなくちゃいけないし……。
会長に次の休憩時間に鍵を渡して貰えないかメッセージを入れてみる。
すると、すぐに「分かった」と返信があった。
校舎に戻って人にこんな顔を見られたくないので、門のところまで持って来て欲しいとお願いすると快く了承してくれた。
生け垣に身を隠し、ボーッとしていると休憩時間に入るチャイムが鳴った。
少しすると、走っている足音が近づいて来た。
「会長だ」
生け垣の隙間から覗くと、会長が小走りで門へ向かっているのが見えた。
走らなくてもいいのに、良い人だなあ。
「会長! ここです!」
声を掛けると会長は僕に気がついた。
泣いている顔を見られないように顔を逸らし、会長に向けて手を伸ばした。
「鍵っ……くだっさい」
……しまった、嗚咽に邪魔をされて上手く話せなかった。
泣いていると会長に気づかれただろうか。
手を出しているのに、一向に手に乗せてくれない。
「木野……宮?」
明らかに驚いているような声だった。
……バレたかな。




