三十一話 待ちかねた隣人
昼頃。
給湯室で、俺はシエルと昼食に何を作るか相談していた。
「水に余裕があるからスープがいいんじゃないかな?」
「そうでありますね。あとは、セイカルを炒めましょうか。予想よりも雨が強かったので、ダメージを受けているであります。痛みかけているやつから消費していくであります」
「おっけ。んじゃそれでいくか――っと。」
ポケットのスマホが、メールを受信したと訴える。
確認すると、相手は静奈だった。
「姉ちゃんだ」
「おぉう、何か進展があったのでしょうか?」
メールの内容は『玄関に来い』だ。
ただ、それだけ。
「いい知らせなのか、悪い知らせなのか……」
「行ってくるでありますか?」
「まあ、無視する理由はないよな。悪いけど、料理、頼めるか?」
「任せるであります」
メイドなシエルは、胸をドンと叩いた。
そんなわけで、俺は正面玄関へと足を運ぶ。
結界の向こうには、地べたに、どっかりとあぐらをかいている静奈の姿があった。
「よ」
「よ、じゃねえよ。昨日は、随分と世話になったな」
「こちらこそ、ウチのがお世話になりました。あんたにメイド趣味があったとは知らなかったよ」
「俺じゃねえ。ウチの裁縫師の趣味だ」
静奈は、ゆっくりと重たそうに腰を上げる。軽く尻をパンパンと払う。
「ひとり?」
「そうだよ。誰か連れてきた方が良かったか?」
「うんにゃ、好都合」
「……用件は?」
俺は、腕を組んで、むっつりと問いかける。
「昨日は悪かった」
俺は、何も言えなかった。
立場があるとはいえ、ああいう形で敵対しているという事実を認識させるのは、あまり気分のいいものではない。
「さて……どう切り出したらいいのかね」
「なんだよ。会社の取引相手じゃないんだし、単刀直入に言えばいいじゃないか」
「ん、まぁ、いいか。ええとね。――リュカさんと話しがしたいんだ」
「リュカと……? 何か進展があったのか?」
「あった」
「何が?」
静奈は意地悪そうな笑みを浮かべた。
「教えてやんない。直接言うよ」
「ここに呼べってのか?」
「いや、あたしがそっちに行くよ」
『は?』という一言が出そうになった。けど、飲み込んだ。
冗談で言っているのだろうか。結界のこちら側に入ってくるなどありえない。
昨日、あんなことがあったのだ。今回だって、何か企んでいるに違いない。
「入る必要はないだろ。ここに連れてくる」
「それじゃ意味がない」
静奈は、掌を結界に触れさせた。
「話し合いに、この壁は邪魔だ。心理学的に、こういった遮蔽物のある場所で親和性は生まれない。そういう細かい配慮が、交渉にどういった効果をもたらすか、あんたならわかるだろ?」
「……まあ、聞いたことはある。けど、相手は姉ちゃんだ。そっちのペースに持ち込まれたくない。つーか、襲撃しといて親和性なんて笑わせるわ」
すると、静奈は地面に置いてあったビニール袋を持ち上げる。
「土産もあるよ。肉食いたいだろ、肉」
「どうせ一服盛ってんだろ?」
「そういうと思って、缶詰で用意したよ。ズワイガニもあるよ。ほぐし身の缶詰。いつもあたしらが食べてるフェイク蟹じゃないよ。本物の蟹の缶詰だよ」
今更、そのようなアイテムに釣られる俺たちではない。
疑いのまなざしを向ける。
「……何を企んでる?」
「対話」
「対話以外の何を企んでるのか聞いてるんだ」
静奈の瞳は真剣なように見える。
少し、珍しかった。どんな事件でも、彼女はいつも冷静。
顔も瞳も余裕があるように見せるはずなのにーー。
静奈は黙ったままだった。俺が口を開くのを待っているのだろう。
長い沈黙に感じるが、たぶん一分も経過していない。
耐えられなかった俺は、平静を保って口を開く。
「なぜ、このタイミングなんだ? 話し合いなら、襲撃前でもよかったんじゃないか?」
「これが最後のチャンスだからだよ。姉ちゃん、もうすぐこの件から外されるから」
「な……」
「結果を出してないから当然だよね。話しあいに来たのも、これが最後になるから。そんなわけで、中に入れてよ」
「ちょっと待て! 姉ちゃんがいなくなったら、誰が――」
そこまで言って、自分が感情を剥き出していることに気づく。
由々しき事態だが、冷静にならなければならない。
「いや」と、ワンクッション置いてから、おとなしい言葉で会話を続ける。
「姉ちゃんが、本当のことを言っているかわからないよな」
身内を疑いたくはないが、襲撃の件がある。
身を挺して守ってくれたリュカのことを思うと、この会話は自分のためだけではない。
「問題点が変わってるね。姉ちゃんの要求は、そっち側に行って、トコトン話すことだ。本当かどうかは、晴樹たちがあとで議論すればいい。それに、もし、ここで『ノー』と答えたら、真実か嘘かはともかく、その議論する情報すら失うことになる。ただ――」
「ただ?」
「……何度も言うけど、姉ちゃんもあんたも、リュカさんたちのために『最善』を尽くそうとしている気持ちは変わらない。最後の最後ぐらい、ちゃんと顔をつきあわせて話をしたい。条件があるなら飲むよ。身体検査をするのは当然だろうし、手錠をつけてこいってんならそうする。人質にされる覚悟もしているんだ」
「そこまでして、話したいことなんてあるのか?」
「後任が誰なのか、聞きたくない? これからどうすればいいのか知りたくない?」
「そんなこと言って、降伏を促すつもりだろ?」
「まあね。けど、とにもかくにも、晴樹は姉ちゃんの要求を飲むしかない。姉ちゃんひとりビルの中に入ったところで、どうしようもないのはわかってるでしょ? 少しでも情報は欲しいだろうし。敵の総大将が、ホームでの交渉に乗ってやるって言ってるんだからさ。望むトコロなんじゃないかな――?」