二十九話 静奈スーパードライ
翌日。午前五時。空が徐々に白んできた。
駆府市が、徐々に動き出す。
車の数が増え、人の影もまばらに現れた。
世界が震撼する事件が起こっているというのに、ビル周辺以外はいつもと変わらない様相を見せている。
寒川静奈は、現場近くのビルの屋上から、それらの光景を、ずっと眺めていた。
電子煙草を吹かしながら、何十分も。何時間も。
そんな彼女の背後には、膝を抱えて「えぐえぐ」と、すすり泣く有馬の姿があった。
放っておいて、静奈は思考を巡らせる。
――あと、三日。
いや、日付が変わったから二日後か。
アメリカからカーライルがやってくる。
その時点で、静奈の役目は終了だ。
根回しに時間をかけただけあって、県警や政治家連中は、この件を黙認しようとしている。
先程、署長にも連絡を入れてみたが、彼も困っているようだ。
カーライルの件が、静奈の耳にも入っていると伝えたら、正直に教えてくれた。
署長は、上層部の連中からカーライルを支持しろと言われた。
政治家からは県警の誇りを守るよう言われた。
さらに別の政治家からは時間を稼げと――。
様々な要求をされていたらしい。
さらに、署長を取り巻く状況は日に日に変わっていった。
前日まで、CIAの関与に否定していた権力者が、突然意見を百八十度変えることもある。カーライルが弱みでも握って、脅迫したのだろう。
そして、今日。署長は『寒川静奈の好きにしろ』と、言った。
もはや、ヤケクソになっているのだろう。
――まあ、好きにしろと言われたところで、カーライルとの交代は避けられないところまできている。
署長以上の権力者が、そう判断しているのだから。
静奈は、フォルトナビルへと視線を馳せる。
包み込む六角柱の結界――。
儚い透明度とは裏腹に、堅牢な障壁ではあるが、おそらくカーライルはものともしないだろう。
――なりふり構わず仕留めにくる。
その先にあるのは、ロクな未来ではない。
現状、すでに権力者の玩具だ。異世界人の気持ちなど、何も考えていない。
カーライルの靴を舐めて、穏便に終わらせられるのなら、どれだけでも舐めるが――まあ、馬鹿を見るのが予定調和であろう。
「あたしも覚悟を決めるか……」
「へ? 静奈さん、もしかして、私に語りかけてます?」
「……」
「うう、口をきいてくれないぃ……。ごめんなさい、ごめんなさい、私が事件のことや、静奈さんの個人情報を漏らしたのが悪いんですぅ……えぐえぐ」
「……」
静奈が甘いから、このような結果になった。
晴樹に軽蔑されるほど、もっとドライに、もっと徹底的に。
それこそ、カーライルがやりそうなことを、静奈がやるべきだったのだ。
けど、嫌われたくないから。
晴樹を人質ではなく人間として見てあげたいから。
尊敬される姉ちゃんでありたかったから――。
寒川静奈が正義の味方であると、有馬や錬太郎に、示したかったから。
冷酷になれなかった。
否。それでいい。
寒川静奈は、最後の最後まで血の通った人間だ。
人の心を読めるからといって、ただただ最適解と効率だけを追い求めるのは大嫌いだ。
人と人との心をかよわせるコトこそが、寒川静奈の仕事なのだから。
「有馬」
「は、は! じ、自分でありますかっ?」
「うん。あんた」
「は、はいっ!」
有馬は、撥ねるように立ち上がると、姿勢を正して敬礼する。
「こっちこい」
二人は、並んでビルを眺めた。
静奈は、腕を持ち上げ、目の前に屹立する要塞を指差す。
「今日、あたしはあのビルに乗り込む」
「静奈さんが……? どうするんですか、雨は止んで、もう突入方法などありませんが」
「なんとかする。たぶん、なんとかなる」
「な、ならば、お供させていただきます!」
「いい。あたしひとりで行く」
「し、しかし――」
狼狽する有馬。押し問答になるのを避けるため、制して、静奈は続ける。
「いいから聞け。……あのビルにいる奴らは、晴樹を含めて全員がいい奴だ。不幸にしちゃいけない、守らなきゃならない世界の財産だ。あたしが保証する」
「は、はぁ……」
「けど、話の内容次第で、あたしはビルから出してもらえないかもしれないし、最悪、殺されるかもしれない」
「い、いったい何をするつもりなんです?」
「……フツーに話をしてくるだけだ」
だが、有馬を突入させた以上、警戒されていることは間違いない。
静奈が不穏な動きを見せれば、すぐさま対応してくるだろう。殺すつもりはなくても、事故という結果で、最悪のケースを迎えることになるかもしれない。
「……他にも、考えがあるんですよね?」
「いろいろと考えていることはある。けどまあ、最後に一度ぐらい、面と向かって、トコトン話してみたいんだ」
「焦りすぎでは……?」
「カーライルが来る前に決着をつけてやりたいしね」
「……うぅ。自分が情報を漏らさなければ……」
「実を言うと、あんまし気にしてない。おまえの馬鹿さ加減には呆れてるけど、今に始まったことじゃないしね」
カーライルが本気を出せば、静奈の個人情報など隠せるわけがない。
遅かれ早かれ、晴樹と静奈の関係はバレる。それが弱みにならないとわかれば、別の弱みを探すだけだろう。
有馬のせいで、楽をさせてしまったのは確かだが。
「しかし、静奈さんひとりというのは危険です。やはり、私もお供させてください」
「いいや。こればかりは、あたしひとりでやるしかないんだ」
「なぜ? 護衛がいてもおかしくないでしょう。向こうだって、それだけの戦力があるのですから」
鋭い視線を向けてくる有馬。任務の時の目だった。
けど、静奈は、くくっと笑って返す。
「あのな、有馬」
「は!」
「人を動かすのは金じゃない」
「はい」
「損得勘定でもない。理屈でもない。――最後に人を動かすのは『心』だ」
心理学は日々研磨されている。
相手を誘導する話術は研究されているし、それで成果を出しているサラリーマンも存在する。有効活用できるという現実に反論の余地はあるまい。
――忘れてはいけないのは、相手が『人間』であること。
条件が、交渉の基本となるのは間違いない。
けど、大事なのは、お互いの信用と信頼。そして誠意だ。
契約書や証拠品などが絶対的な力を持つ時代だが、本当の信頼があれば、そんなものはなくても世界は回る。現に、静奈と晴樹は絶対的な信頼で結ばれている。有馬とも、錬太郎とも、遠山議員とも、仲間たちとも。
「あの子たちと向き合えるのは、あたししかいない。何かあったら、あとはあんたに任せる。カーライルと対立するなり、指揮下に入るなり好きにしていい。とにかく、少しでも多くの人が悲しまないようにしてくれ。できる範囲でいい」
「じ、自分がですか? そ、そんなこと……」
有馬の表情が陰りを見せた。自信がなさそうに俯いてしまう。
「大丈夫。あんたは馬鹿だけど、あたしが世界でいちばん信頼しているダチだ。有馬音羽がいてくれたからこそ、あたしはここまで出世することができた」
「し、静奈さん……」
「ま、安心しな。きっと上手くいく」
言うと、静奈は電子煙草のスイッチを切った。
そして、有馬の胸ポケットに差し込んだ。
「やるよ。本格的に禁煙始めるから。いらなかったら捨てといて」
「は、はい!」
最後の仕事だ。交渉人らしく言葉で。人間らしく感情で。
あの、異世界からの来訪者に挑む。
決意を胸に、寒川静奈はビルを眺めた。
「あの、静奈さん」
「なんだ?」
「これ、くれるってことは、静奈さんだと思ってぺろぺろしたり、しゃぶったりしてもいいってことですよね?」
「やっぱ返せ」