朱雀と呼ばれる男 2
「っ!?…い」
「犬ですね」
森の奥から現れたのは、灰色の毛皮を持つ四足歩行の動物。
ノアよりも大きいが、魔獣と呼ぶには普通すぎるサイズの犬。
いや、犬というよりは……。
「犬…というか……多分、狼だよね」
「犬っころには違いないですよ」
蓮姫の指摘にもユージーンは素っ気なく答える。
本当に動物には全く興味が無いらしい。
そんな二人のやり取りにも構わず、狼は一歩一歩近づいてくる。
蓮姫がジイッ…と狼の方を見つめると、翠色の瞳が蓮姫を捉えた。
グレーに包まれた全身の中で、その翠はとても映えて美しい。
狼は吠えるでも唸るでも、飛び掛るでもなく、ただ蓮姫を見つめ返しながら歩み寄ってくる。
「綺麗な瞳…」
「姫様。いくら綺麗でも犬っぽくても狼ですからね。それともここで『こわくないこわくない』を試しますか?」
「その話いつまで引っ張る気?」
アホな会話を二人が繰り広げている間に、灰色の狼は二人の数歩手前で座り込む。
その姿は『お手』と言ってしまえば前足を出す犬のよう。
野生の狼には似つかわしくない程に、この狼は人に馴れているように見える。
ただ、何がしたいのか二人には見当も付かない。
「なんなんですかね?こいつ。恵んでもらいたいんでしょうか?言っとくけど、姫様と俺プラスその他一匹の貴重な食料はやらん」
「動物相手に何言ってんの?」
蓮姫はバシッと後ろからユージーンの肩を小突くと、後ろにあった果物と魚を手に取り狼に近づこうとした。
が、それは狼を見据えたままのユージーンの腕に止められる。
「…ジーン?」
「姫様。迂闊に近づいてはいけません」
ユージーンはこの狼の気配を感じてから、ずっと狼から視線を外さなかった。
視線では狼を、背後の気配では常に蓮姫を捉えている。
「この狼……普通の狼じゃありません。そもそも普通の狼だとしてもそんな簡単に近づかないで下さい」
「で、でも」
蓮姫の方を見ずに告げるユージーンに、蓮姫は言い淀む。
確かに、狼に限らず森の中で野生の獣に遭遇した場合、むやみやたらと近づくべきではない。
それくらい蓮姫にもわかっている。
しかしこの狼からは威嚇も危険さも感じない。
「まったく。猫に続いて次は犬ですか?姫様は調教師やブリーダーの素質でもあるんですかね?」
「素質あってもこんな経験はそうそう無いでしょ」
「そうですね。こんな不気味な狼が寄ってくるなんて、普通じゃありえないでしょうから」
「不気味って……」
「だってそうでしょう?目の前に獲物とも言える人間が二人も居たら、殺気くらい出るはずです。自分より格上の魔獣であるサタナガットが居たら逆に怯えたり怯んだりするはず。………ですが……この狼にはどちらもまったく感じないんですよ。普通の野生の狼ならありえません」
「………誰かのペットとか?」
「誰が狼なんて飼うんですか?どんな狼が人様に尻尾振るってんですか?」
ユージーンは蓮姫の意見を呆れて返す。
だが………やはり視線の先は蓮姫ではなく狼。
狼の方は座り込んだ場所から動こうともせず、二人の方をただ見ている。
「姫様……俺より先に出ないで下さい。この位置はギリギリの距離です。お互い一歩でも前に出れば、相手を一瞬で殺せる。この狼はそれをわかってて近づいて来ないんですよ」
つまりジーンとこの狼の距離は間合い。
一歩でも踏み込めばユージーンの攻撃は狼にはよけられず、逆に狼もユージーン目掛けて飛び掛かれるということだ。
しかし、相手が刺客や軍人ならわかる。
何故狼にそんな事までわかるのか?
野生の勘なのか、それは蓮姫にはわからない。
それはユージーンも同じ。
警戒してはいるが、この狼の正体は未だにわからない。
「姫様。念の為に結界を」
「わ、わかったよ」
「うにゃん?うにゃにゃっ!うにゃっ!!」
「……っ!?ちょっ!ノア!」
蓮姫とユージーンのやりとりがあまりに暇だったのか、ノアールは蓮姫の腕から暴れてピョンッ!と抜け出してしまった。
ノアールを抑えようとした際に蓮姫の腕からナイフが落ちる。
蓮姫がノアと落ちたナイフを拾おうとした瞬間、ユージーンも蓮姫の腕から武器が落ちた事に気づき、無意識に蓮姫の方へ視線をチラリと向けてしまった。
本来のユージーンならば、それぐらいでは動揺したり狼から視線を外したりはしなかっただろう。
だが長く蓮姫と一緒にいたおかげか、そのせいか、ユージーンは蓮姫の行動に極端に反応するようになっていた。
そしてその一瞬を狼は見逃さなった。
狼は一歩前に出ると、蓮姫の方へと飛び掛ったのだ。
それは先程までの無害な狼とは違う。
その身には刺客達のように殺気を纏っている。
「姫様っ!」
ユージーンは蓮姫と狼の間に割り込み、右腕を曲げて顔の前に出す。
狼はその右前腕に鋭い牙を食い込ませた。
「ジーン!?」
「姫様っ!結界を!」
「っ!?ノアっ!!」
蓮姫がノアールを呼ぶと、ノアールはピョンッ!と再び蓮姫へと飛び込んだ。
狼は噛み付いた腕から牙を外そうとするが、ユージーンの空いた腕がガッチリと狼を、固定する。
「逃がしませんよ。せめて姫様が結界を張るまではね」
「ジーン。もう大丈夫」
ほんの数秒。
だが、前日の事もあり蓮姫は普段よりも集中して結界で己の身を包んだ。
(姫様……?今の…結界を張る時間…僅かに早かったか?想造力に慣れてきたのか…)
蓮姫の迅速な対応に少なからず驚いているユージーンの耳元に、不意に言葉が響く。
「あ~あ。姫さんに結界張られちまったらこっちが不利だぜ。失敗したな~」
聞こえたのは男の声。
当然ユージーンではない。
蓮姫はノアールを抱えたまま、キョロキョロと辺りを見回す。
だが、人影など何処にもない。
「姫様。この近くには俺達以外の人間はいませんよ」
「いない…?でも今、男の人の声がしたじゃない」
ユージーンの言葉に蓮姫は怪訝そうな顔をして聞き返す。
確かに聞こえた。
それも自分が姫だと知っている発言を。
刺客が何処かに潜んでいると考えるのは普通だろう。
しかしユージーンがいない、とキッパリ言い切るという事は確実にいない事をさす。
蓮姫は、もしや今の声の主は自分にしか聞こえないのではないか?
人間でないのなら……。
薄暗い森の中で、蓮姫は青い顔をしながらブルリと震え怖い想像をしてしまう。
「はぁ。姫様、顔を見なくてもだいたい何を考えてるかわかりますから言わせてもらいますよ。幽霊とかじゃないですから。んな怖がらなくてもいいです」
「そ、そうなんだ。良かった」
「良かないですよ。目の前に刺客がいるんですから……ねっ!!」
ユージーンは言葉を言い切る前に、狼を抑えていた腕を外すと残った片手を大きく振り狼を払った。
狼は後方に飛ぶと、見事に着地をしユージーンと蓮姫を見つめる。
その行動とユージーンの言葉で、蓮姫も悟るが彼女は、信じられない、と目を大きく見開き狼を見つめ返した。
「……まさか…この狼?」
「そうです。ただの狼ではなく魔獣だというのは気づいてましたが……魔狼族だったようですね」
「ご名答。お姫さんは知らないみたいだけど、そっちの旦那はご存知のようで」
ユージーンの言葉を返したのは目の前の狼だった。
蓮姫はギョッ!としたが見てしまっては信じない訳にもいかない。
狼が喋る姿を、シッカリと彼女もその目に捉えていたのだから。
狼はニヤリと笑ったかと思うと、ムクムクと身体を変形させていく。
狼が後ろ足の二足で立ち上がったかと思うと前足は腕に、後ろ足は人間の足へと伸びていった。
全身を包んでいた灰色の毛皮は黒い装束へと変わり、頭の方の毛はピンピンとはねるグレーのクセっ毛へと変わった。
少し長めの襟足は赤いリボンで纏めてあり、前髪は三ヶ所ほど赤いメッシュが入っている。
尖った耳は段々と短くなり、ピアスのついた人間の耳へと変わった。
裂けそうな程に大きな口も小さくなり、最終的に狼は人間の青年へと姿を変えた。
狼の時と変わらないのは、エメラルドのような翠の瞳だけ。
「っ!!?ひ、人になった!」
「魔狼族ですからね。姫様ご存知なかったですか?王都にいた頃、本とかで読んだ事ありません?」
「まろうぞく?わ、わかんない」
ユージーンの問いに蓮姫は困惑しながら答えた。
ノアールのように大きく変身するだけなら、まだ蓮姫には理解できた。
しかし狼が人に……全く違う動物に変身したのには驚きを隠せない。
魔狼族
魔獣の一種であり狼と人、二つの姿を持つ。サタナガットのように知性が高いが彼等と違って人の言葉を話し人間としても獣としても生きられる。獣とも人とも子を成せるが殆どは同族としか子を成さない。純血であれば真の姿は狼の方だが、他の獣や人との間に生まれたものはそちらが真の姿となる。サタナガットよりは格下の魔獣だが、危険度、戦闘能力は高い。
「って訳。わかった?お姫さん」
狼……いや目の前の男は軽い口調で蓮姫に説明する。
敵意や先程のような殺気は微塵も感じない。
人当たりの良さそうな……しかし何処か人をバカにしているような笑顔を浮かべている。
が、未だ困惑しているからか、自分に問いかけられたからか、蓮姫は男へと言葉を返した。
「……わ、わかっ…た。狼男とは……多分違うけど、なんか近い存在?っていうのもわかったよ」
「狼男?想造世界だと俺らをそう呼ぶってわけ?その呼び方も悪くねぇけどさ、魔狼族には女もいるし…あいつらの前では言わない方がいいぜ。魔狼族の女はプライド高くて好戦的な奴多いしな」
「ベラベラとよく喋る犬っころですね。刺客としても男としても……犬としても喋り過ぎです。向いてないんじゃないですか?あぁ、魔狼族としてとか刺客としてとかじゃなく、生きてる事に」
「随分と辛口な旦那だな。見た目は滅茶苦茶いいってのに。そんなんじゃせっかくの綺麗な顔が台無しだぜ」
「いいんですよ。口悪かろうが何処が悪かろうが、ソレを補える顔だって自覚してますし」
「………そいつは…逆に凄いな」
ユージーンの言葉に男は引きつった笑みで答える。
やはり危険な感じはしない。
だが、蓮姫もユージーンの口から再度出た単語を聞き逃さなかった。
「ジーン、この人刺客なの?」
「えぇ、そうですよ。この犬は姫様の命を狙う刺客です。……それも魔術師な上にかなりの手練」
「……褒めてもらってんのは嬉しいんだけどよ……なんで姫さんが人っつったのに犬って言い直したかね」
「何言ってるんです?貴方犬でしょう?」
「いっそ清々(すがすが)しく言ってくれんね。まぁ、旦那の言う通り……殺しに来ましたよ…弐の姫さん」
男はユージーンにはハァ、とため息を返したが、蓮姫に対してはウィンクしながらとんでもない事を言ってくる。
ユージーンは不快感を全面に出しながら男と蓮姫の間に立つ。
蓮姫の視界に男が入らぬように。
「そのまま結界を張って、動かないで下さいよ。姫様」
「へぇ~…随分と姫さんを大事にしてんだな」
「当然でしょう?俺の姫様ですからね」
「俺の…ねぇ。普通弐の姫にそこまで執着するぅ?つーかさ、随分前から姫さんを狙ってんだけど……あんたのせいで全然実行出来ないんだよな。事実、姫さんピンピンしてっし。旦那の事だから俺の存在には気づいてたんだろ?」
「えぇ。王都の森を抜けた時から……まぁロゼリアは違いますけど、ずっっっと視線は感じてました。うっざかったですねぇ。初めて姫様が刺客に襲われたあの宿屋……あの時、刺客の中にはいませんでしたが…側にはいましたよね?」
「あ~~~らら。やっぱし気づいてたってわけ?」
ユージーンと男のやりとりを蓮姫は黙って聞いている。
ユージーンはこの男の存在に以前から気づいていた。
刺客に襲われた時も、遠くからの視線が常にまとわりついていた事に。
あえて蓮姫にそれを伝えなかったのは、正体もわからない視線の話などをして自分の主を不安にさせない為だ。
ユージーンの意図も蓮姫は理解した。