海へと 3
部下達と別れた久遠は、ただひたすらに歩き続けた。
内裏を離れ、都を離れ、山奥に入り日が傾いても彼の足は止まらない。
前へ前へ進む彼の目的地は、大和の端。
鬱蒼とした木々のせいで、夕暮れの赤い光すら感じられなくなった頃……久遠は目的の家を見つけた。
「これはまた………随分と…」
久遠は目の前の家……いや、家と言っていいのか?…とにかく建物を見つめる。
遠目でも分かるほどにボロボロで、あちこち崩れているソレはもはや家の形をしているだけの物。
敷地は広いらしく庭があるようだが、雑草が生い茂りもう庭とは呼べない。
遠目に池も確認出来るが、水は酷く濁り、魚や蛙といった生き物はいないだろう。
粗末で、荒れ果てた…かつて家だった物の成れの果て……あばら家という表現が見事当てはまるソレを見て呆然とする久遠。
人が住んでいる以前に、雨風をしのげるのかも怪しい。
とはいえ、人の気配を感じるのも間違いないので、久遠は迷いつつもボロボロになった門を開けようとした。
しかし久遠が門に触れる直前。
ギィ………。
「っ!?」
腰までの高さしかない両開き式の門は、勝手に左右に開く。
まるで誰かが……久遠を誘っているように…歓迎しているように。
少し躊躇いつつも、久遠は意を決して門の内側へと足を踏み出した。
久遠があばら家の敷地内に入った瞬間、彼の目に映る景色は一変した。
荒れ果てて雑草だらけだった場所は美しい花が咲く庭となり、濁っていた池の水は透明に澄んで何匹もの錦鯉が泳いでいるのが見える。
庭にある木々は桜が満開だったり、紅葉が真っ赤に染まっていたりと季節感が無い。
よく見ると庭に咲いている花も四季折々の物で、同時に咲いているはずの無いものばかり。
間違いなくあばら家だった建物は、豪華でしっかりとした屋敷へと変わっている。
それどころか……この敷地に入った途端、頭上には青空が広がっていた。
時間的にも今は夕刻…いや、既に夜だというのに。
あばら家だった時以上に呆然とし、その場に立ち尽くす久遠。
そんな彼の元に、貴族の子供のように身なりを整えた童子が近づく。
少女か少年かも分からぬその童子は、久遠に一礼すると彼へ向けて口を開いた。
「『杠久遠』様ですね。どうぞ屋敷へ。主様がお待ちです」
「っ!?何故俺の名を?」
自分の名を言い当てた童子に驚きを隠せず、腰にあった剣に手をかける久遠だったが、童子は笑顔を崩すことなく答える。
「主様はなんでもお見通しなのです。貴方様が誰か?何故ここに来られたのか?全てを。さぁ久遠様。どうぞ。我が主…『安倍晴明』は久遠様を歓迎しております」
そう言うと童子は久遠に背を向け、屋敷へと歩き出す。
久遠は戸惑いつつも足を進め、童子の後をついていった。
童子に案内されるまま屋敷の中の一室に入ると、そこには酒を飲む一人の男の姿。
「これはこれは。由緒ある杠家の次男にして、誉れ高き天馬将軍、杠久遠殿。ようこそいらっしゃいました。帝や女王陛下からの信頼厚い貴方様が、わざわざこのような場に来て下さるとは光栄の至り」
手に持った盃はそのままに、久遠へ頭を下げるでもなく話す男。
陰陽師の職も位も剥奪されたはずなのに、陰陽師の装束を身に纏う美しい男は、久遠を見つめ微笑みながら呟く。
「………貴殿が…あの安倍晴明か?」
久遠は警戒を解かぬまま、目の前の男に尋ねた。
久遠が聞いた話では、かの稀代の陰陽師、安倍晴明はもう50を過ぎているはず。
なのに目の前の男の美しい顔には皺一つなく、烏帽子から見える黒髪にも白髪は一本も見当たらない。
久遠と同年代……二十代頃に見える。
もしここに蓮姫がいれば、また『見た目と年齢が一致しない美形が出た』と思っていただろう。
久遠とて男の顔はともかく、年齢と見た目が違い過ぎる事に関しては同じ事を思った。
しかし目の前の男からは……得体の知れない不気味なプレッシャーを感じている久遠。
警戒する久遠とは違い、『安倍晴明か?』と問われた男は惚けたように答えた。
「はて?どの安倍晴明かは分かりかねますが、貴方様の目の前にいるのは、この安倍晴明にございます」
「………随分と戯れが好きなようだな」
男がふざけていると判断した久遠は、いつものように眉間に皺を寄せる。
久遠の迫力ある不機嫌顔を見ても、目の前の男…安倍晴明は怯むことすらない。
「戯れでもせねば、このつまらぬ世を生きてはいけませんからね。さぁ、こちらへどうぞ。せっかく来て頂いたのです。美味い酒を馳走させて頂きましょう」
「いや、俺は酒を飲みに来た訳では」
「そうでしょうとも。しかしどのような方であれ、客人をもてなすは家人の礼儀というもの。それに今日は月が大きく、空に雲もない。このように美しい夜空は久々です。一緒に月見酒と洒落込みましょう」
天井を指さしながら話す清明の言葉に久遠は更に顔をしかめる。
この男は何を言っているのか?と。
ここは屋敷の中なので当然空は見えなず、頭上にあるのは天井のみ。
すると清明は、天井を指していた指を口元に当てた。
天井を見上げたまま人差し指と中指を開き、その隙間からフゥ…と息を天井向けて吐き出す。
その直後、天井は消え去り、二人の頭上には美しい夜空が……光り輝く星々と大きな月が映る。
「っ!?これは……いや、これが陰陽術か?」
「さようにございます。この屋敷の見た目を変えているのも、庭の木々や花々も全ては陰陽術によるもの。せっかく宮仕えという堅苦しい職を解かれ、隠居しているのです。美しい物に囲まれ、誰の邪魔なく余生を暮らしたいと思うは当然でございましょう?さぁ、久遠殿。こちらへ。なに、陰陽術で貴方様を酒の肴にして食ったりはしませぬゆえ」
クスクスと笑う清明に、馬鹿にされたと嫌悪感を抱く久遠。
だが久遠が突っ立っている間に、先程と同じような姿をした童子が何人も現れ酒と肴、料理を持ってくる。
「この童子達は?」
「あぁ。これも陰陽術にございますよ。この子らは式神というもので、身の回りの世話をさせております。しかし私は正真正銘の一人暮らし。久々の客人と酒を酌み交わしたい」
どうあっても久遠と酒を飲みたいらしい清明。
断り続けても彼は折れないだろうし、そうなると聞きたい話も聞けなくなるかもしれない。
そう判断した久遠は、渋々清明の向かいに用意された膳の前に座る。
「久遠殿がその気になって下さって良かった。そういえば、久遠殿は内裏から来られましたね」
「あぁ」
久遠は清明を見もせずに、酒の入った盃を持ち上げ返事だけをした。
清明もそんな無礼を気にする様子なく、ニコニコと笑顔を久遠へ向ける。
「では久遠殿は帝の使いとして参られたのでしょうか?さてさて、今度は帝からどのような毒が贈られてきたのやら」
「っ、なに?」
その言葉に久遠は反射的に顔を上げ、清明を見つめ返した。
持っていた盃を落としそうになる久遠だったが、平静を装い清明へと聞き返す。
清明は呑気に盃に酒を注ぎながら久遠へと答えた。
「帝はいつもいつも、隠居したこの私めに猛毒の贈り物をして下さいます。ある時は酒に混ぜ、ある時は菓子に混ぜて。刺客が来た事も何度あったか。久遠殿もそうなのでは?貴方様は帝のお気に入りですからな」
「……俺がそのような卑劣な真似…すると思うか?誇り高き杠家の者であり、天馬将軍である…この俺が」
久遠は湧き上がる怒りを抑える事無く清明へと問いただすが、清明は久遠からの怒りを向けられても全く動じない。
「いえ、全く。貴方様はそのような事はなさいますまい。卑劣な真似を何より嫌う…そういう卦が出ております」
「では今の言葉はなんだ?ただの俺への侮辱だとでも?」
「そう目くじらを立てますな。これも戯れ…ですよ」
清明は盃に入った酒に映る月と星を見つめると、一気に飲み干し久遠へと向き直る。
「久遠殿は戯れを嫌う方のようだ。ならば早々に本題へ入りましょう。ここへ来られたのは帝など関係ない。久遠殿自身、私に用があったのでしょう?光の君様について」
自分の要件を見事に言い当てた清明に、久遠は目を見開く。
しかしその大きく開かれた目は段々と細く切れ長になり、清明を睨んでいた。
「何故わかった?」
「陰陽術の一つ、占術で。今日この日、貴方がここに来られる事も、何を尋ねに来られるのかも、私は既に把握しております」
「占術……占いでか?」
「はい。それに久遠殿とは初対面ですが、貴方が至極真面目なお方なのは、貴方という方を間近で感じて直ぐに分かりました。顔にも声にも、そういう卦が出ておりますからね」
微笑みながら酒をまた飲む清明に対して、久遠はいつものように不機嫌顔を浮かべる。
(始めから全て分かっていながら……戯れていたと?こういう男は信用出来ん。だが、稀代の陰陽師としての功績は大和の誰もが知るところ)
「どうぞ」
久遠が清明を凝視していると、童子の一人が久遠に声をかけ空いた盃に酒を注ごうとした。
「っ、あ、あぁ」
一瞬驚いた久遠だったが、童子を見ながら盃に口をつける。
(この童子……どこからどう見ても人間の子供にしか見えん。それに他の童子達やこの屋敷………陰陽師としての力は確かなようだな)
今まで目の当たりにしてきた清明の陰陽術の数々に、久遠は清明への認識を改める。
気に入らない点は変わらないが。
「全て分かっているなら、単刀直入に聞こう。ある陰陽師が帝に告げた言葉。光の君様がご存命という話は……本当か?」
「本当ですよ。宮仕えしている陰陽師達にも、それくらいの事は分かるでしょう。何より……光の君様の命の輝きはとても強く美しい。その光に何らかの大きな動きが訪れようとしているなら、多少力のある陰陽師なら誰でも気づきます」
「では………光の君様は大和へお戻りに?」
「いえ。それは有り得ません」
久遠の言葉を真っ向から否定する清明。
その言葉には絶対的な自信のようなものを久遠は感じた。
「光の君様は生きておられますよ。だからといって……あの方は大和に戻りますまい」
清明はまた酒を一口飲むと、満天の夜空を仰ぎ見た。
「あの方には大和の帝という汚い椅子は似合わない。あの方に似合うのは……キラキラとどこまでも輝く広大な……あの方の御芳名のように、光り輝く美しい世界なのですから」
遠い目で夜空を見つめる清明。
まるでその先に光の君がいるように。
「光り輝く…美しい世界?」
「はい。この世の何より美しく…また恐ろしい場所でもありますね。光の君様はそこにおられます。そして光の君様には今……光の君様以上の強い光が邂逅しようとしている」
「光の君様……以上の?それは一体?」
「それは………ふふっ。貴方もそのうち知る事になる。いえ、貴方だけではない。この大和の者、そして世界中が知るのですよ」
楽しそうに笑いながら話す清明に、久遠はまた眉間に皺を寄せた。
「随分と思わせぶりな言い方をする。それも戯れ…いや、俺を揶揄う為、適当に嘘でも言ったか?」
「心外ですね。確かに私は戯れを好み、人並みに嘘もつきますが……仕事に関して偽りを申した事はありません。これからも」
「ならば全て話せ。その大きな光とはなんだ?光の君様は今後どうなる?」
「はてさて。私にも分かりかねます。自らよりも強い光と出会った事で、その者がどうなるかなど……当人にしか分かりませんからね」
つまり清明は、その強い光について『話す気は無い』という事だ。
清明がこれ以上何も言わないのなら、久遠とて聞くつもりはない。
根掘り葉掘り聞きたい気持ちは当然あるが、こういう男には何を言っても意味が無いと久遠は判断した。
「おや?久遠殿の気分を害してしまったようですね。申し訳ない。詫びに上等の雉肉でも振る舞いましょう」
「結構だ。貴殿の言う通り、俺は気分を害したのでな。これで失礼する。馳走になった」
「おやおや。ふふっ」
久遠は盃を盆に置くと、その場から立ち上がり部屋を出て行こうとした。
しかし、そんな久遠を清明は引き止める。
「あぁ、お待ち下さい。久遠殿にはもう一つお伝えしておきましょう」
「………今度はなんだ?」
「貴方様の傍にいた…しかし、いなくなってしまった者について」
「っ!!?」
清明の言葉で久遠の脳裏に浮かんだのは、いなくなった副官の姿だった。
「その者はとても美しい光を持っていました。家族を愛する暖かい光を。まるでどこまでも澄んだ…清らかな水色の光。しかしその光は今………暗く深い闇の中に沈み…まるで地獄の業火のように禍々しい光を放っている」
「っ!?それはどういう意味だ!彼に一体何が!?いや、彼は今何処にいる!?」
久遠は激昂したように叫ぶが、清明は今までの笑顔を消し去り、無表情で久遠へと答える。
「これは本来、貴方が知るはずのない事。だからこそ助言致します。彼の事は……諦めた方がいいでしょう。これ程までに禍々しく、苦しい光を感じたのは私とて初めてです。こうなった人間は…恐らくもう戻れない」
「なんだと!?」
「彼を取り巻く闇は深く重い。彼は今……激しい怒りと憎しみ、殺意。そして深い悲しみに蝕まれている。光が失われていないのは、負の感情が強すぎるから。これは誰もが持つ命の輝きはなく、いずれ全てを、そして自らも滅ぼす為、業火の如く燃えているだけなのです」
そう語る清明の瞳にも、声にも、哀れみのようなものを感じた久遠。
ここまで語るのなら、彼の居場所を教えて欲しい。
彼を救う手立てを教えて欲しい。
「清明。お前の言うその男は俺の副官…俺の部下だ。部下が誤った道を行くというのなら、正してやるのが上官の務め。もう一度尋ねる。彼は今、何処にいる?」
「申し訳ありませんが……靄のような物が邪魔をして、正確な居場所までは分かりません。分かるのは……彼の未来。彼の身にこれから起こる…彼がこれから出会う存在」
「彼の未来だと?彼が一体、誰と会うと言うんだ?」
「大きな光です。光の君様が邂逅する強く大きな光。それはまた…貴方様の元部下とも邂逅するようです。近い未来…必ず」
清明はしっかりと確信を持って告げるが、その内容こそ久遠には靄がかかっているように聞こえた。
当たらずとも遠からず、といった所だろう。
これは清明の戯れではない。
清明は久遠をはぐらかしているのではない。
稀代の陰陽師とて、これ以上は分からぬのだろう。
「何故それを…俺に話した?」
「貴方様は信頼していたその部下とやらを心配し、また自分の元から去った事で落胆もしている。私の言葉を聞き、上官だからと彼を救おうと思っているようですが……それは無駄です。あのような禍々しい光など…救える者はそういない。貴方には彼を救えない」
「っ!?貴様っ!」
「貴方を侮辱しているのではありません。誰もがそうなのです。貴方だけではない。多くの人間が太刀打ちなど出来ない程に歪んだ光なのです。それに先程も申し上げたとおり、彼は強い光と邂逅する。その光は恐らく……彼の光を打ち消すでしょう。三つの光の邂逅は確定された未来。もはや誰にも止められません」
淡々と告げる清明に、歯を食いしばりながら怒りを抑える久遠。
久遠には彼の居場所も分からない。
彼が去って行く時、何も話してすらもらえなかった。
彼の妹達が自殺した時も、久遠は彼をろくに慰める事すら出来なかった。
久遠にとっても、彼にとってもお互いが信頼出来る上官と部下だっただろうが…それだけだ。
友のように心を開いていた訳ではない。
所詮は他人でしかない久遠には、彼に出来ることなど一つも無かったのだ。
「清明。なら、これだけは聞かせてくれ。光が消えるというのなら……彼は死ぬのか?」
「これもまた確定は出来ませんが、そうなる可能性は極めて高い。…ですが……」
清明は一度言い淀むと、童子が酒を注ぎ直した盃を見つめる。
酒の水面には、大きな月と二つの星が浮かんでいた。
清明は顔を上げると、空に浮かんだ月と星を眺めながら呟く。
「違う可能性も残されてはいます。彼の光が飲み込まれるか?打ち消されるか?あるいは……元の美しい光に戻れるか?全ては……その誰よりも、何よりも強く輝く、大きな光次第なのです」
清明の言葉を聞いて、久遠もまた頭上の月と星々を…祈るように眺めた。