閑話~エメラインと死王~ 5
「朱雀からの返事はまだか!?一体いつまで私を待たせる気だ!?次期皇帝たるこの私を!」
私の目の前で、兄上は自分の忠臣である貴族達を叱責していた。
この兄上の姿を、顔を、声を、私はよく知っていた。
私や父上を気遣い、心配していた先程の兄上とは違う姿、違う顔。
私が皇太子となってからの10年間で………一番見た兄上。
この兄上は……いつも私を睨み、恨み、憎み、怒鳴りつける兄上の姿と同じだった。
私が兄上の『次期皇帝』という言葉に疑念を抱いている内に、兄上の忠臣達は必死に、憤慨する主…兄上を宥めようとしていた。
「も、もうしばらくお待ちを!」
「朱雀は『此度の件、依頼が依頼だけに一族で慎重に吟味したい』と申しておりまして」
「ふざけるな!暗殺ギルド朱雀ともあろう者達が!何を怖気付いている!標的は皇太子ともてはやされてる小娘だ!小娘一人殺す決断を下せんとは!」
(っ!?兄上……今のお言葉は……どういうことですか?)
私は兄上の言葉に驚きつつも、なんとか言葉を発しようと口を動かそうとした。
でも口は動かず、声も出なかった。
そんな私に構わず、兄上は声を荒らげ続けた。
「あの小娘!何が皇太子か!女のくせにっ!妹のくせにっ!私より後から生まれたくせにぃいいい!許せんっ!あやつなど!さっさと死ねばいいものを!」
「お、皇子様。例の男を連れて参りましたが…いかが致しましょう」
「なにっ!?さっさと言わぬか!この……馬鹿者めっ!」
私の隣にいた男が兄上に声をかけると、兄上はテーブルに置いてあった銀のコップを彼に投げつけた。
相当お怒りのようだった。
だが私を見つめた瞬間、兄上はニヤリと笑顔を浮かべられた。
「よく来たな。さぁ座るがいい。特別に私と同じテーブルにつく事を許してやる。次期皇帝たる私のな。光栄に思え」
兄上が何を言っているのか分からないまま、何故か私の体は勝手に動き、兄上の真正面の椅子に座った。
兄上も椅子に座られると、侍女が酒の瓶と酒の入ったコップをテーブルに置いた。
「飲むがいい。これは中々手に入らん、大和の上等な酒だ。なに。毒など入っていない」
私の手が勝手にコップを持ち上げた時、コップの中で揺らめく酒の水面を見て私は驚いた。
水面に映っていたのは………私ではなく、私の愛しい彼の顔だったから。
その時………私は気づいた。
これは彼の記憶なのだ、と。
その証拠に私の意思とは関係なく、口は勝手に開き彼の声を奏でた。
「僕にお酒くれる為に呼んだの?違うよね。用は何?」
「貴様!皇子様になんという口を!」
「よいよい。こやつの強さは夕方に証明されただろう?そんなこやつには明日、私の役に立つという立派な仕事が控えているのだ。次期皇帝である私のな」
「次期皇帝の皇太子って、あの女の子でしょ?君じゃないじゃん。何言ってんの?頭大丈夫?」
「こやつ!」
「よいと言っているだろう。お前達は少し黙れ。話が進まん」
憤慨する忠臣達を黙らせると、兄上は笑顔のまま彼に自分の計画を話した。
その時の兄上の顔は……私に初めて負けた時と同じ。
とても醜いものだった。
「お前は明日、闘技場に出る事となった。それは聞いているな?」
「うん。聞いてる」
「私も闘技場に出るつもりだ。最後の選手として、な。そこで……お前にはわざと、私に負けてもらう」
「はぁ?だから何言ってんの?」
「まぁ聞くがいい。あの小娘と互角に戦えるお前だ。私では恐らく……いや。絶対に、私はお前に勝てないだろう。お前の強さは既に城中の者が知っている。そして明日になれば、全ての国民が知る事にもなる。皇太子並の強者であるお前に、皇太子に負け続けた私が勝てるなど、誰一人として思わん。だからこそ……お前は私に負けろ。そうすれば……私が次期皇帝となる未来を、誰もが認めるようになる」
何故そのような事を兄上は彼に頼むのか?
彼がわざと兄上に負けたからといって、何故兄上が次期皇帝となれるのか?
意味がわからなかった。
「私と共犯……いや、協力者となるお前にも全て話してやろう。邪魔なあの小娘を消し、私が次期皇帝となる未来。その為の今までの準備を。そうすれば……どれだけ魅力的な話か理解出来るからな」
「ふ~ん。あの子に関することか。いいよ。聞く」
聞いている彼は興味など殆ど無いようだったが……私は知りたくない恐怖心を抱えながらも、知りたくて仕方なかった。
「そうだな。まず父上……今の皇帝だが、近いうちに死ぬ。そうなるように私が仕向けたからな」
「父親に毒でも盛ったの?」
「いいや。毒ではない。毒ではないからこそ、誰にも気づかれていない。侍医や他の医師達に薬師達、料理人や使用人、毒味役……そして父上すらも、私は欺いているからな」
そう言うと兄上はまた醜い笑みを浮かべられた。
本当に楽しそうに……歪んだ汚い笑顔を。
「父の病は本来軽いものだが、事例が少ない珍いものでもある。この世界で最も深く医療に精通している玄武しか、父の病については詳しく知らないのだ。だからこそ私は、父の病に効く薬や食事と、逆に病状を悪化させる薬や食事を事細かに玄武の者に二枚の紙にそれぞれ記させた。そして……侍医や料理人達には、悪化させるものを書き記した紙を渡した」
(兄上っ!?)
「へぇ……その病を悪化させるだけの薬や食事。それはある意味猛毒だけど、皇帝にしか効かないってことね」
「その通りだ!健常である者にとっては何の害もない!だが父上には出される薬も!食事も!薬品が微量に混ざった水ですら命を脅かすものとなる!」
(だから……銀の器は何も反応しなかった?……毒味役や…あの時の兄上にも異変は無かったということ?)
「私は父を想う息子を演じた!父とあの小娘の前で毒味までした!毒味など恐ろしくもない!私の身には何の害も無いのだからな!何年もそれを続けた結果!今はもう皇帝は虫の息だ!かつては歴代最強ともてはやされた皇帝が!なんと無様なことか!ハハハハハハッ!」
狂ったように笑う兄上の後ろで、忠臣達ですら後ろ暗い顔をしている。
それは当然のこと。
兄上の忠臣である前に……彼等もまたギルディストの民であり……父上の民だったから。
そんな事にも気づかないなんて……本当に愚かな男は一体誰だというのか?
それすらも分からない程……私の兄は皇太子に……皇帝という地位に取り憑かれていた。
「これも全て…全て私ではなく!あの小娘を皇太子にした結果だ!そんな無能な皇帝なぞギルディストにはいらん!そんな愚かな父など私にはいらんのだ!ならばさっさと死んで!さっさと皇帝の座を明け渡して貰わんとな!」
剣を振る事は愚か、玉座に腰掛け皇帝の執務すら出来なくなった父上。
誰よりもこのギルディストを誇りに思う父上にとって……それがどれだけ…無念な事だったか。
それも全ては……実の息子が引き起こしていたなど……父上は予想すらしていなかったはず。
「皇帝が死ぬっていう話は分かったよ。でも皇帝が死んでも、次の皇帝は君じゃない。あの子でしょ?皇帝に続いてあの子まで死んだら、君が疑われるんじゃないの?」
「その通りだ。あの小娘にも当然死んでもらうが……その前に、既に女が皇太子である事に対して疑念を抱く者は多くいる。騎士団の弱体化が原因だ。今の騎士団はギルディスト史上、最悪最低のレベルと言っても過言ではない。勿論、それも私が仕組んだ事だがな」
「そっちは何したの?」
「簡単な事だ。実力ではなく、賄賂を多く積む者にこそ騎士団へ入らせた。金の無い実力者ではなく、金だけの無能な奴等をな。何年も前から騎士団選抜役となる者を、時には何人も買収し、時には家族を人質にしてな」
(なんということを!ギルディストの誇り高き騎士団は!ギルディストが強国たる証!彼等は世界屈指の精鋭達!それすらも!自らの欲で汚したというのですか!兄上!)
声にならない私の言葉など、兄上に聞こえるはずも無い。
これは彼の記憶であって、過去の出来事。
兄上に私の叫びが届くことはない。
それでも……叫ばずにはいられなかった。
それがどんなに……意味の無いことだと分かっていても……。
「騎士団は弱体化。皇帝は死の淵。全てが女を皇太子にした事による災い……そう考えている者は確かにいる。考えずとも…感じている者もな。私は屈辱に耐えながらも、何年も証明してきたのだ!あのような小娘が皇帝になる事は!相応しくない!ギルディストにとって!真の皇帝たる私にとって『あの娘は害虫以下の存在』だとな!」
「それで?僕が君にわざと負けるのになんの関係があるの?なんの意味があるの?」
興奮する兄上とは対照的に、至極淡々に……いや、興味無さげに彼は尋ねた。
そんな失礼な態度にも、兄上は更に興奮したように告げられた。
「決まっているだろう!皇太子並に強いお前を倒せば!国中の人間が私の強さを褒め称える!かつて私を負かしたあの小娘を賞賛したように!明日お前に勝つことで!邪魔者達が死んだ後、国中の人間が私を皇帝にと望むのだ!ギルディストの未来の為!私の未来の為!お前は私に明日負けろ!よいな!」
兄上が発せられたのはギルディストの民としての誇りも、その王族としての誇りも、戦士としての誇りも捨てた言葉。
八百長試合で勝ち、それこそが自分の強さだと証明するなど………戦士として、あってはならない。
戦士として……何より恥ずべきこと。
「うん。なるほどなるほど。大体はわかったよ。でも僕が君に負けて、僕になんの得があるの?君ばっかり得するよね、それ」
「ハハハッ!なんだ?褒美が欲しいということか?当然やろう。お前の強さもまた明日証明される。お前には一生遊んで暮らしても余るほどの大金をやる。望みのままの地位も与えてやると約束しよう」
「お金に地位、ね」
「お前が望むなら騎士団長や大臣でもいい。金に権力があれば、女も好きなだけ………っ、そうだ!お前にはあの小娘もやる!」
「は?あの強い女の子を?」
「そうだ!あれの美貌だけは私も深く認めている!ギルディストで最も美しい女!あれの美貌は世界一美しいと言われる女王陛下と遜色ない程だ!あの小娘をやる!だが…一年だけだ。一年はあれを女として扱い、楽しめばいい。その後は……殺せ」
(っ!?…兄上………そこまで私を……父上だけでなく…私まで…殺したいのですか?)
私は兄上の言葉に愕然とした。
考えれば分かること。
兄上が皇帝になるには、現在皇太子である私が一番の邪魔者なのだから。
皇帝となる為に父上を殺すことすら抵抗の無い兄上が、私を生かす訳なかった。
それでも………兄上の口から、聞きたくなどなかった。
実の兄が嬉々として私を、妹の死を望んでいる姿を見るのは……辛かった。
苦しかった。
悲しかった。
「なんで一年?」
「一年以上夫婦として過ごせば、子供が出来る可能性もある。あやつに子供でも出来れば、また私の地位が脅かされるだろう。一年とは言うが、もしあれが妊娠したら直ぐに殺してもらう。妊娠しなければ期限は一年だ」
「確かに僕はあの子を殺したいけどさ」
「そうかそうか!やってくれるか!おい!朱雀にはもう頼まなくてよい!朱雀以上の刺客が!駒が手に入ったからな!喜べお前達!来年には私は!晴れてこの国の皇帝だ!!」
彼の言葉を最後まで聞かず、兄上は勝手に解釈し、勝手に喜んでいた。
ここまで見れば十分だった。
もうわかった。
よくわかってしまった。
私の愛した兄上など……もう何処にもいないことに。
私が兄上に勝ったあの日に……わたしの愛した兄上は死んでしまった。
他ならぬ私が……大好きだった兄上を……殺してしまったのだと。
ドクンッ!
「っ!!?はぁ、はぁ、はぁ……」
「戻ってきたね。全部見た?」
何かに弾き出されるような感覚の後、私の目の前には彼の姿。
兄上もその忠臣達もいない。
周りを見れば、ここは闘技場の挑戦者に用意された控え室だった。
その光景に、私は戻ってきたのだとわかった。
「はぁ…はぁ……今のは」
「真実だよ。ちなみに昨日の夜のこと」
彼の言葉は真実。
私が見た光景も、兄上の言葉も全て真実。
彼が嘘などつく理由がない。
正直、嘘であってほしかった。
本当に彼が他国のスパイであり、今のはギルディスト王室を貶める為の魔法だったなら……と望みたいほどに。
「その顔は……僕の記憶を信じたみたいだね」
「………えぇ。でも貴方は……どうするつもり?」
「僕?」
後ろに護衛として親衛隊が控えている為、私は声をひそめ、尚且つ重要な言葉をあえて出さず彼に問いかけた。
「あの要望を飲めば、貴方は全てを手に入れられる。そうでしょう?」
「全て?何言ってるの?僕の欲しいものなんて一つも無いよ。君達人間の物差しで、勝手になんでもかんでも決めつけないで。普通にムカつくからさ」
「でも………貴方は私を殺したいでしょう?」
「そうだね。でもただ殺したいんじゃないよ。僕は君と、楽しく遊んで殺したいの」
「じゃあ……貴方はどうする」
『つもり?』と続くはずだった私の言葉は、新たな来訪者によって遮られることになった。
兄上の忠臣の一人が、この部屋に来たから。
「これは皇太子殿下。いかが致しました?この者に用でも?」
兄上の忠臣がいるなら、これ以上話す事は出来ない。
そう判断した私は、愛しい彼に背を向けた。
「残るは一試合のみですから。皇太子として彼を激励に参りました」
「左様でございますか。しかし、そろそろ休憩も終わります。どうぞ陛下のお傍へお戻り下さい」
「わかりました」
そのまま私は彼にも、その貴族にも目を合わせず控え室を足早に出て行った。
追い払われる形にもなったが、これで良かった。
私の心は酷く動揺していたし、あれ以上長居をしては……確実にボロが出ていた。
現に私の顔色は悪かったらしく、親衛隊達が何度も私に声を掛けて心配していたから。
彼等の声など、ろくに聞こえなかったけれど……。
(………兄上が私を……私と父上を殺す?……兄上が……兄上が…)
色々な感情が心の中でゴチャゴチャと混ざり合ったまま、私は父上の元へと戻った。
「皇太子に何も話していないだろうな?」
「うん。僕は何も『話してはいない』よ」
「ならばいい。あと10分程で最後の試合が始まる。お前はお前の役目を果たせ。お前の望みを叶える為にな」
「わかった。『僕の望みを叶える為に僕の役目』をすればいいんだね。了解だよ」
私が父上の元に戻った数分後、試合は再開……いや、最後の試合が行われる事になった。
予定通り、闘技場最後の試合には、兄上が出られた。
これから自分の望み通り事が運ぶと信じて疑わない兄上は、堂々たる仕草でリングへと上がられた。
その顔は自信と喜びに満ちていた。
今まで見た、どの兄上の姿よりも生き生きとされていた。
観客からは皇太子の座を追われた兄上に対して、不安の声や、期待の声、様々なものが飛び交った。
でもその歓声は……一気に消え、悲鳴や絶叫へと変わることとなった。
審判が試合を始めた直後。
彼は観客や私達の視界から消えた。
闘技場特有の、殺傷能力のほぼ無い木刀を持ったまま。
この私ですら彼を目で追う事が出来なかった。
彼が再び私達の前に姿を表した時……消えた一瞬で彼が何をしたのかを理解した時……全ては終わっていた。
彼は一瞬で、兄上の……両手と両足を、木刀で切り落としていた。