閑話~エメラインと死王~ 1
ずっとずっと前。
まだ私が子供の頃。
私と兄上は本当に仲の良い兄妹だった。
兄上はいつだって私に微笑んでくれた。
兄上はいつだって私に優しかった。
兄上はいつだって…私を愛して下さった。
そんな兄上が……私も大好きだった。
でもそんな私達の関係は…一瞬で壊れてしまった。
あの日………私が兄上と…初めて試合をした…あの時に。
―30年前―
あの日、兄上はいつも通り騎士団と剣の稽古をされていた。
兄上の剣の腕前は見事で、騎士団の誰も兄上に勝てなかった。
兄上は齢15にしてギルディスト最強の戦士となった。
当時、歴代最強の皇帝と呼ばれていた父上も、兄上の実力を認めていた。
次期皇帝に相応しい…皇太子だと。
強さが全てを語るギルディストで、誰もが兄上を次期皇帝と思っていた。
国民も親衛隊も騎士団も使用人達も…国の誰もが兄上を『神童』『天才』『次期皇帝』ともてはやした。
当時の兄上もそれを受け止め、兄上に次期皇帝としての絶対な自信を植え付けた。
兄上本人も……兄上が次期皇帝だと疑わなかった。
兄上は父上が退位された後、皇帝となるのは自分だと………信じていた。
私も次の皇帝は兄上だと………そう思っていた。
だからあの日……兄上は騎士団との試合を見ていた私を呼ばれた。
「エメライン!お前もギルディスト皇帝の娘なら強くならねば!さぁ!兄上が胸を貸してやるぞ!来い!」
「はいっ!!兄上!!」
私は呼ばれるまま、木刀を持って兄上の傍へ行った。
私はただ……いつものように兄上に構ってもらえると思い、嬉しかった。
騎士団の者達も普段から仲の良い私達を知っているから、私と兄上を見て微笑んでいた。
いつもの兄と妹のじゃれ合いだと。
私達の事を、本当に仲のよい兄妹だと。
まぁ…中には止める者もいたけれど。
当時の騎士団長や、まだ騎士団の一員でしかなかったサイラスは、兄上に進言した。
「殿下!姫様はまだ8歳ですぞ!それに今日の姫様は見学だけの予定でしたのでドレスのままです!そんな姫様が殿下と戦うなど…怪我をされたら!」
「団長のおっしゃる通りです。姫様と殿下では、年齢も剣の腕も、あまりに差があるかと。どうぞお考え直し下さい、殿下」
「ハハッ!何を言う。エメラインもギルディスト王家の一人として、日々稽古に励み剣の腕を磨いているだろ。これはそんな妹を更に強くしてやろうという兄心だ」
「し、しかし殿下…」
二人の意見を笑い飛ばす兄上に更に食いがる騎士団長だったけれど、そこへ城の巡回中だった父上が現れ、兄上の味方をされた。
「よい。やらせてやれ」
「っ!?これは父上。いらしていたのですか?」
「父上様っ!!」
兄上と騎士団達は父上の登場に慌てて頭を下げた。
私は兄上に背を向けると、父上に向かって駆け出した。
誰よりも強い皇帝であり、誰よりも私達を愛して下さる優しい父上。
私はそんな父上が、兄上と同じくらい大好きだった。
私が父上に飛びつくと、父上は私を抱きとめ、大きな手で私の頭を撫でて下さった。
「おぉ。儂の可愛い娘…エメライン。お前の腕も見事だと報告を受けているぞ。8歳とは思えぬとな」
「ありがとうございます!でももっと強くなって!私は兄上や父上のお力になりたいのです!」
「そうか、そうか。偉いなエメライン。さて……皇太子と姫の試合だが、儂が許可する」
「陛下!?」
「お前達も二人の仲睦まじさは知っておろう。皇太子は兄として妹を強くしてやりたいのだ。姫も皇太子に懐いておるしな。仲睦まじい兄と妹の稽古。邪魔をする道理などあるまい」
皇帝である父上のお言葉は絶対。
騎士団長とサイラスは顔を見合わせていたけれど、兄上と私は父上のこのお言葉に喜んだ。
「ありがとうございます!父上!」
「ありがとうございます!!」
「皇太子よ。分かっているだろうが…手加減などしてはならんぞ。相手がいくら可愛い妹でもな。手を抜くなど、相手を軽んじている証拠。戦士として有るまじき愚行だ」
「心得ております!さぁエメライン!兄上にかかって来い!!」
「はい!兄上!!」
そうして私は……兄上と試合をする事になった。
父上も騎士団も………兄上本人も…誰もが兄上が勝つと思っていた。
でも…………
「…………そ、そんな……バカな…」
負けたのは兄上の方だった。
兄上は地面に倒れ込み、絶望した表情を浮かべていた。
私はあまりにも兄上が弱かったので、手加減をされたのだと思い、最初はこの試合や兄上の八百長を疑った。
でも………その兄上の表情が、兄上が全力で戦ったのだと……物語っていた。
「………あ、兄上?」
「…そんなはず…ない。……私は次期皇帝…この国の皇太子だ。…その私が……エメラインに……幼い妹に負けるなど……」
「兄上……あの…」
「…有り得ない。………そのような事…あってはならない」
私の言葉など聞こえず、兄上はブツブツと独り言を呟いておられたけれど、そんな兄上を黙らせたのは…またしても父上のお言葉だった。
「エメラインよ。見事であった。皇太子に勝つとは………いや、これからはお前が皇太子だな。エメライン」
「っ!?お待ち下さい父上!!何をおっしゃるのですか!?」
「ギルディストの皇帝の座は、王家で最も強き者にのみ与えられる。皇太子の座は、負けた兄のお前ではなく、勝った妹エメラインの方が相応しい」
「こ、これは何かの間違いです!そう!私は妹可愛さに手加減をしたのです!それに今日は朝から体調も悪く!本気を出せばこんな子供に、私が負けるなど!」
言い訳を重ねる兄上だったけれど、その言葉は父上の逆鱗に触れた。
父上は私達が見た事もない形相を浮かべると、地に伏せた兄上の胸ぐらを掴み…そのまま拳で兄上を殴られた。
バキッ!!
「ゴフッ!」
「見苦しいぞ!貴様は妹に負けたのだ!手加減だと!?戦士として恥ずべき愚行をしたというのか!この皇帝たる父の前で!体調が悪いなど嘘までつきおって!貴様の体調は万全であり、全力で戦ったのだろう!その上でエメラインに負けたのを見抜けぬ儂だと思ったか!?」
「陛下!おやめ下さい!!」
なんとかその場は騎士団長が父上を兄上から引き離してくれたけれど……父上のお怒りは相当なものだった。
それでも兄上は、口から血を流しながら父上へと手を伸ばされた。
「ち、父上………私は…」
父上は兄上の手から逃れるように、親衛隊を引き連れ去って行かれた。
その際、親衛隊に「皇太子を兄から妹へと変える。急ぎ大臣達を集めよ」と指示を出して。
その父上の声は私にも……当然、兄上の耳にも届いた。
「ち、父上!そんな!お待ち下さい!父上!」
「………あ、兄上。口から血が…」
「っ!?触るなっ!!」
バシッ!!
私は兄上に手を伸ばしたけれど……その手を兄上は強く振り払った。
そして憎悪のこもった目で、私を強く睨みつけた。
「お前の………お前のせいで!!」
私にそう吐き捨てると、兄上は父上を追い掛けて行ってしまわれた。
あの時の兄上の顔は……今でも忘れられない。
怖い…とは不思議と思わなかった。
ただ………酷く醜いと思った。
あれから全てが変わってしまった。
私の立場は『姫』から『皇太子』となり、兄上の立場は『皇太子』からただの『皇子』となった。
私が兄上に勝った事は皇太子交代の際に、父上が臣下や国民に告げられた為、国中の誰もが知る事となった。
かつて『神童』『天才』『次期皇帝』という兄上を褒め讃えた言葉の数々。
それらは全て、兄上ではなく私へと向けられるようになった。
王家の子供が幼くして皇太子となるのはよくあること。
それでも…まだ8歳の姫が、誰よりも皇太子に相応しいと噂された兄の皇子を越え、皇太子となったのはギルディストでも異例の事だった。
その異例を……多くの人間が喜んだ。
強さが全てを語るからこそ、国の統治者には誰よりも強き者を求めるギルディスト。
皇帝であった父上、大臣や貴族、騎士団や親衛隊、使用人や街に暮らす人々………本当に多くのギルディスト国民が、私を次期皇帝…皇太子だと受け入れた。
歴代最強のギルディスト皇帝となるだろうと……喜んでいた。
でも
兄上は………喜んで下さらなかった。
兄上はもう私に笑いかけてくれなくなった。
兄上はいつも私を睨んでいた。
兄上は私を、心から恨んで………憎んでいた。
兄上は私を妹ではなく、邪魔な存在として見るようになった。
私の優しい兄上は…もう何処にもいなかった。
あの後も、兄上は父上に頼み込み何度も私と試合をした。
再び皇太子となる為に、兄上は今までの何倍も稽古を重ね、剣の腕を更に磨いて試合に臨まれた。
ただ兄上に誤算があったとすれば、兄上が倒したい私の方も年々強くなり、兄上との実力の差は更に開いていったこと。
それでも兄上は、なんとしても私から皇太子の座を奪い返したかったのだろう。
それこそ………妹である私を…殺してでも。
私との実力差に焦った兄上は、時には木刀の中身に鉛を仕込んだり、毒を塗ったりと小細工までされたけれど……そんな物、全て無意味に終わった。
私には………兄上の木刀など、かすりもしなかったから。
何度試合をしても結果は初めての試合と同じ。
勝つのはいつも私だった。
兄上はいつも……私に負けた。
試合をする度、惨めになるだけ、恥をかくだけと気づいた兄上は、私との試合を父上に頼まなくなった。
ただ代わりに……私を罵倒するようになった。
「女の皇帝だと!ふざけるな!女のお前が皇帝になればギルディストは弱体化する!お前はこのギルディストを滅ぼしたいのか!?」
「お前さえいなければ!私が次の皇帝だったのだ!さっさと皇太子の座を降りろ!私に返せ!!」
「王家の女として生まれたお前の役目は!政略結婚の道具で十分だ!身の程を知れ!」
「さっさと何処かの国へ嫁げ!私の前から消え失せろ!」
「何故お前なんだ!皇太子はお前ではなく!父上の長子たる私こそ相応しい!何故それが!誰も分からないんだ!!」
時には激昂し、時には泣き叫んだ兄上。
それはとても哀れで……惨めな姿だった。
かつてはあんなにも……あんなにも優しい声で私を呼び、柔らかな微笑みを浮かべ、愛しげな眼差しで私を見つめ……慈しんでくれていたというのに…。
『エメラインは本当に可愛いな。将来、母上以上に美しくなる。きっと世界一の美女になるだろうな!』
『そうなると……きっと他国の王族は皆、お前を嫁に欲しがるな。いや!そんなのダメだダメだ!エメラインは何処にも嫁がせん!可愛い妹を嫁になど!絶対に出さないからな!』
『エメライン。お前は強くなって、兄上を支えてくれ。私とお前で、このギルディストを更に強くしてやろう!大丈夫だ!私達ならそれが出来る!世界最強の兄と妹なのだから!』
『可愛いエメライン。私の自慢の妹。兄上はお前が…大好きだよ』
私の大好きな兄上。
私が大好きだった兄上。
でも…私を愛してくれた兄上は…私が愛した兄上はもう………いなくなってしまった…。
兄上は私を憎み続け、私は兄上の代わりに皇太子として過ごした。
私は兄上に憎まれていたけれど、私は兄上を憎んでいなかった。
ただ…かわいそうな人だと思っていた。
父上は兄上が試合で行った不正を決して許さなかったけれど、兄上の臣下や兄上を支持する貴族達が必死に兄上の国外追放や失脚を阻止した。
私も兄上がギルディストに残る事、王家に残る事を父上に懇願した。
その結果、兄上は皇子という立場を守れたけれど…余計に惨めになったのか、私を避けるようになった。
兄上を心配する私に父上や使用人達が教えてくれたけれど、当時の兄上は憑き物が落ちたように大人しくなった、とのことだった。
心を改めて、いずれ皇帝となった私を支えられるように日々励んでいるのだと。
そんな兄上の近況を知って…やはりかわいそうな人だと私は思った。
私だけでなく、多くの者が当時そう思っていたはず。
兄上が虎視眈々と、私を殺める機会を伺っていたとは知らずに。
私と兄上はろくに顔を合わせず、言葉も極力交わさず成長していった。
そして月日は流れ……10年後。
ギルディストに………彼が現れた。