女帝エメライン 9
エメラインの言葉を聞いた瞬間、蓮姫の背筋にまた鳥肌が立った。
世界三大美女の一人と呼ばれるエメラインの笑顔は、とても美しいのに…蓮姫には何処か恐ろしくも映る。
その笑みを向けられた事で、試合が始まる前に感じた恐怖や悪寒が、蓮姫の体中を走り回った。
しかし…蓮姫はもうエメラインに怯える事も、彼女から目を逸らす事もしない。
『自分は必ずこの二人に勝つ』という蓮姫の決意が、覚悟が恐怖を上回ったからだ。
蓮姫が真っ直ぐな黒い瞳で自分を見つめ返すのを見て、エメラインは嬉しそうに呟く。
「ふふ。いいわ…段々素敵な目になって来たわね。蓮姫ちゃん」
何故か今度は満足気に微笑むエメライン。
それはイタズラが成功した子供のように、無邪気さすら感じさせる。
エメラインは楽しげな笑みを崩さず、蓮姫からシュガーへと視線を戻し、愛しい息子へと語りかけた。
「シュガーちゃん。いくら可愛いシュガーちゃんの頼みでも…闘技場の殺し御法度ルールは絶対に撤回しません」
「えぇ~?なんで?」
「そのルールは、ギルディスト初代皇帝が闘技場建設時に決めた絶対ルールだからよ。同じくギルディストの皇帝である私が、そのルールを破る事も、それを撤回する事も出来ません。今後の闘技場の為にもね。何より…」
再びエメラインは蓮姫へと視線を戻すと、今度は慈愛に満ちた微笑みを向ける。
「私は蓮姫ちゃんを殺したい訳じゃないもの」
「エメル様…」
以前なら…闘技場で戦う前なら、この言葉を鵜呑みにして喜んでいたかもしれない。
だが今となっては…その笑顔も言葉も、蓮姫には恐ろしいだけ。
エメラインを警戒する材料がまた一つ増えただけに過ぎない。
「さぁ、蓮姫ちゃん。私達の戦いを…再開しましょう」
そう言ってデスサイズを構えるエメラインに、蓮姫もまたオリハルコンの短剣と星牙から預かった紅月を構えた。
お互い一歩も動く事なく、見つめ合い相手の行動を探る蓮姫とエメライン。
今はまだ動きのない二人だが、いつ戦いを再開してもおかしくない状況だ。
そんな時、星牙は怯えるような目で蓮姫達を見つめながら、小さく、そして弱々しく蓮姫の名を呟く。
「れ…蓮…」
その言葉を聞き、蓮姫はハッ!としたように星牙の方を振り向いた。
星牙は蓮姫と同じ黒い瞳を揺らしながら、怯えたように蓮姫を見つめる。
(………星牙。…ここで戦ったら…また星牙を傷つけちゃうかも…)
星牙の小さくも弱々しい声、縋るように自分を見つめる目を見て、蓮姫は彼の心がまだ恐怖に囚われているのだと悟った。
相手がエメラインである以上、これからの戦いも先程のように激しくなるのは明白。
今の精神状態の星牙に、目の前でそんな戦いを見せるのは酷だろう。
何より、この場でエメラインと戦えば…星牙も巻き込みかねない。
「…エメル様。少しお願いがあります」
「ふふ。えぇ、わかっているわ。少し離れて、広い場所で戦いましょう」
蓮姫の言いたい言葉を直ぐに理解したエメラインは、デスサイズを一度下げるとリングの中央へと足を進める。
その際、息子への忠告も忘れずに。
「シュガーちゃん。蓮姫ちゃんとは私が戦うわ。二人きりで、ね。だから…邪魔しちゃダメよ」
「する気もないよ。弐の姫の相手なんか母上一人でやって」
不機嫌そうに呟く息子の言葉に、エメラインは満足気に微笑んだ。
シュガーのソレは本心だったらしく、エメラインの後をついて行く蓮姫に対して、彼は手を出すどころか彼女に見向きもしなかった。
エメラインと蓮姫はリングの中央に辿り着くと、再びお互いの武器を構える。
また膠着状態になるかとも思ったが、今度は早々にエメラインの方から動きを見せた。
「それじゃあ…行くわよ。蓮姫ちゃん」
エメラインはその言葉を言い終わると同時に、蓮姫に向けてデスサイズを振る。
蓮姫の方も星牙から借りた紅月と、自身の短剣でなんとかそれを受け止めた。
エメラインが攻め、蓮姫がそれを防ぐという形の…激しい攻防が再び繰り広げられる。
そんな二人の戦いを見て、観客は大いに賑わうが…シュガーはつまらなそうにため息を吐いた。
「はぁ~。弐の姫なんか母上に勝てる訳ないのに。ならせめて最後の悪あがきで楽しむか、あの銀髪さんと戦う為に殺そうとしたのに…それもダメとかさ。あ~あぁ。ホンっト、やる気なくなっちゃったな~」
ブツブツと文句を口にしながら、シュガーは持っていた刀を鞘に仕舞い、その場に座り込んでしまう。
そんなシュガーの行動が理解出来ず、星牙は恐る恐るシュガーへと尋ねた。
「お、お前…何してんだよ?」
「ん?何してるっていうか…もう何もする気無くなったんだよね。弐の姫は母上が倒しておしまい。君ももう戦えない。ならもう、この試合も終わり。俺がする事なんて何も無いでしょ」
そう言うとシュガーは、視線をエメラインと蓮姫に向けたまま、ゴロッとその場に横たわってしまった。
本気で試合放棄しているシュガーに、自分をもう戦えない存在だと決めつけているシュガーに、星牙の中には怒りが湧き上がる。
だが星牙は再び剣を持つ事も、シュガーに何かを言い返す事も出来ず、悔しそうに歯を食いしばるだけ。
それは彼の中にあるシュガーへの恐怖が…今湧き上がった怒りよりも遥かに大きく、強く根付いていたから。
シュガーが試合放棄をし、星牙が剣を持てない程に打ちのめされていても、エメラインと蓮姫の戦いには関係ない。
ガン!ガンッ!キンッ!とお互いの武器をぶつけ合う蓮姫とエメライン。
お互い一歩も引かぬ状況だが、ふとエメラインは、蓮姫の持つ短剣を見つめ、興味深そうに呟いた。
「さすがは純粋なオリハルコン製ね。短剣なのにデスサイズの攻撃をこれだけ受けて、折れるどころか刃こぼれすらしていないもの」
「純粋な…オリハルコン製?」
「えぇ。そう…よっ!」
「うわっ!」
会話の途中、エメラインが強く蓮姫の武器…紅月を振り払うと、蓮姫の体は後方に仰け反った。
しかしエメラインは絶好の機会である今、攻撃を続ける事はしない。
それどころか蓮姫が体勢を立て直すのを待ち、呑気に喋りだす始末。
「見てご覧なさい。今の攻撃でその剣…彩家の家宝には傷がついたでしょう?」
「え?………ぁ」
エメラインに警戒しつつも、蓮姫は紅月を自分の顔の前へ持ち上げた。
蓮姫が見つめた紅月には、確かに刃こぼれしている部分があり、他にも無数の傷がついていた。
それに対し蓮姫の短剣は、傷一つついていない。
あの時…シュガーの攻撃を受け止めたのは、間違いなくこの短剣だったというのに。
「蓮姫ちゃんの短剣のように純度100%のオリハルコン製は非常に珍しいわ。オリハルコンは希少な鉱石で、精製も非常に難しいから」
不思議がる蓮姫に説明するよう、エメラインは言葉を続ける。
「だからオリハルコンで武器を作る時は、鉄とか他の金属、鉱石を混ぜて作るのよ。デスサイズも彩家の宝剣も、シュガーちゃんの村雨もそう。でも、蓮姫ちゃんの武器だけは違う」
説明口調のエメラインだったが、最後の言葉はキッパリと言い切った。
自分の短剣が特別性な事に、蓮姫も何となくだが気づいてはいた。
シュガーが星牙の剣…蒼月を折った時に、エメラインが発した言葉がどうにも気になったから。
だからこそ、星牙を助けに行った時、蓮姫は紅月ではなくこの短剣でシュガーの剣を受け止めたのだ。
確信は持てていなかったが、短剣が無傷なこと、そしてエメラインの今の言葉から、やはりこの短剣は特別なのだと再認識する蓮姫。
まだ多少困惑している蓮姫に、エメラインはニッコリと微笑む。
「小さいけれど…その透明度は間違いなく、刀身全てがオリハルコン製。その短剣ならデスサイズの…いえ、この世のほとんどの武器の攻撃を防げる」
エメラインの言葉が真実なら、蓮姫が持つこの短剣は…どんな攻撃も防げる無敵の武器。
今の説明で、蓮姫は勝機を見出したように、グッと短剣を握りしめた。
この武器なら…この短剣ならエメラインに勝てるのではないか、と淡い期待を抱いて。
そんな蓮姫の僅かな期待を、エメラインはしっかりと見透かしている。
今まで散々蓮姫の短剣を褒め、蓮姫に期待を抱かせるような言葉を口にしていたエメラインだったが、次に彼女から放たれたのは…蓮姫の希望を打ち消すような言葉だった。
「でも…それだけね。短剣が折れないだけで、今の蓮姫ちゃんでは、シュガーちゃんみたいに相手の武器を破壊…なんて芸当は出来ないわ。魔力が充分過ぎるほどあっても…それを補う力量や技術が、蓮姫ちゃんには無いもの」
防御に関して蓮姫の短剣は、最強の武器ともいえる代物。
しかし…それだけだ。
その短剣がどんな攻撃も防げる最強の武器だとしても、持ち主である蓮姫にそれを扱えるだけの力量がなければ、ただの『折れない短剣』に過ぎない。
対するエメラインは…武器は勿論の事、それを扱うエメライン本人も相当の強さを誇る。
強国ギルディストの親衛隊すら持つのがやっとだった大鎌、デスサイズ。
それをエメラインは、持つだけでなく平然と振り回しているのだから。
元々かなりの重量のデスサイズは、振り回される事で更にその強度を、威力を増す。
蓮姫は弐の姫といえど、ろくに鍛えたことの無い17歳の少女。
そんな蓮姫が、デスサイズを短剣で破壊するのは至難の業。
(エメル様の言う通りだ。でも…デスサイズの破壊が出来れば、私にも勝機はある。問題は……どうやって?)
二回分残っている想造力を使えば、出来る可能性はあるが…。
最初は強力な魔法攻撃を考えていた蓮姫だったが、それは早々に諦めた。
仮にデスサイズを破壊しても、エメラインまで気絶や大怪我をしてしまえば、試合は蓮姫達の負けで終わる。
(この短剣で…どうやってエメル様に近づかずにデスサイズを?それに短剣って元々、至近距離の攻撃用で………ん?)
短剣を見て、蓮姫は自分の考えの矛盾点に気づいた。
自分は近距離戦闘用の短剣を持っているのに、近づかずに相手を倒そうとしている…という矛盾に。
(そうだ。短剣やナイフは…相手の懐に入り込んで攻撃する武器。この短剣でデスサイズを破壊するには…近づかなきゃ意味が無い。でもそれは……)
この短剣はデスサイズを破壊出来る武器であり、デスサイズからは決して破壊出来ない武器。
短剣を活かす戦闘、そしてデスサイズの破壊を目的とするなら、その特性を利用するしかない。
しかしその戦法はかなりの危険が伴う。
(かなり危険だけど…もし…もしエメル様の隙をついて…懐に入り込む事が出来れば…)
やっと見えた勝利への可能性に、蓮姫は短剣を握りしめ、エメラインを見据える。
(短剣に魔力を込めて!デスサイズだけ破壊出来るかもしれない!)
それは無謀ともいえる策。
危険すぎる作戦。
上手くいく可能性は極めて低い。
それでも蓮姫は…それを実行しようと決意を固めた。
蓮姫の黒い瞳に希望が滲むのを見て、今度は嬉しそうに、楽しそうにクスクスと笑うエメライン。
「ふふ。何か思いついたの?じゃあ…お手並み拝見と…いこうかしらぁっ!」
そう叫ぶと、エメラインはデスサイズを高々と掲げ、ブンブンと今以上に振り回した。
デスサイズによって生み出された風圧で蓮姫の髪が、離れたシュガーや星牙、審判の服すらも激しく揺れる。
それがエメラインの力の凄さを、デスサイズの重量を物語っていた。
あの華奢な体の何処に、こんな力があるのか?
当のエメラインはデスサイズを振り回しながら、蓮姫へと駆け出す。
「っ!?」
自分目掛けて振り下ろされるデスサイズに恐怖を覚えつつも、蓮姫はなんとか紅月でそれを受け止めた。
だが、エメラインの攻撃は緩む事無く、蓮姫に一瞬の隙すら与えない。
「ほらっ!ほらほらほらほらっ!どう!蓮姫ちゃん!」
蓮姫は絶え間なく、四方八方から来るデスサイズの攻撃を、なんとか紅月で防ぐ。
いや、蓮姫にはそれだけで精一杯だ。
エメラインの懐に入り込むどころか、攻撃に転じる隙すら与えられない。
(こんなの無理だ!近づけない!懐になんて入れない!)
自分の作戦の甘さを、そして自分とエメラインの力量の差を再度思い知らされた蓮姫。
蓮姫にとってエメラインとは、数段格上の存在だ。
今の蓮姫には、エメラインに近づく事すら出来ない。
(近づいたら!魔法を使おうとした瞬間に!私まで星牙みたいに腕が斬り落とされる!)
折角の作戦も、武器も、蓮姫には扱いきれない。
攻めるエメラインとは逆に、蓮姫は防戦一方。
重いデスサイズで攻められ続け、蓮姫の足は段々と後ろに下がっていく。
そして遂に、蓮姫の足はドン!と後ろの壁によって止まる。
「何っ!?あ!」
蓮姫は背中に感じた衝撃で、後ろを振り返り、今の自分が置かれている状況を理解した。
自分の背には…結界の壁。
下がり過ぎたせいで蓮姫はリングの端…結界のある場所まで追いやられたのだ。
もう下がることは出来ない。
もう逃げる場所はない。
(そんな!これ以上後ろに行けない!前にも行けない!どうすればいいの!?)
『万事休す』
そんな言葉が蓮姫の脳裏に過ぎる。
絶望感を宿した蓮姫の瞳に、エメラインはピタリと攻撃の手を止めた。
その行動に蓮姫だけでなく、星牙や審判、観客までも疑問を持つ。
エメラインは、あれだけ振り回していたデスサイズを下げると、ふぅ~、と息を吐いた。
「………残念ね。そんな目をしちゃうなんて。蓮姫ちゃんもスターファングさんと同じ」
エメラインは既に負けを覚悟した蓮姫の瞳を見て、大いに落胆した。
その姿は蓮姫が望んだ隙だらけの状態。
「っ!?やぁっ!!」
蓮姫は慌てたように紅月でエメラインを攻撃しようとするが…そんな苦し紛れの弱い攻撃は、エメラインに何の意味も持たない。
ガンッ!
「ぅあっ!?」
エメラインは紅月を軽くデスサイズで振り払い、その衝撃で蓮姫はその場に倒れてしまった。
その姿は…腕を斬り落とされ、戦意を喪失した星牙と重なる。
心を折られた蓮姫は立ち上がる事も出来ず、その場に倒れ込んだまま。
そんな蓮姫を…あんなにも気に入っていた蓮姫を、エメラインは冷たい目で見下ろす。
「弱い。弱過ぎるわ。もう負けを認めるなんて」
「え、エメル…様」
「こんな弐の姫なら…戦う価値は無かったわね。…もう終わりにしましょうか」
エメラインが高くデスサイズを振り上げ、蓮姫は顔を下げギュッ!と目を瞑る。
これで終わり。
もう自分は負ける。
蓮姫が覚悟を決めた瞬間…
「姉上!負けないでーーーっ!!」
会場中に、ある少女の声が響き渡った。
その声にエメラインも振り下ろしたデスサイズを、蓮姫の頭上でピタリと止める。
蓮姫は聞き覚えのある声に顔を上げ、その者の方へ目を向けた。
そう。
蓮姫が応援を望んだ…蓮姫を『姉上』と慕う…残火へ。
「………残…火?」
蓮姫が見つめた先には、椅子から立ち上がり、自分を真っ直ぐ見つめる残火の姿。
何故か火狼やユージーンも、その場に立ち上がり驚いた顔で残火を見つめていたが、蓮姫の目には残火が他の誰よりもハッキリと映る。
残火は一度大きく息を吸い込むと、口元に両手を当てて再度叫んだ。
「頑張って!負けないで姉上!勝って下さい!必ず勝って!皆でギルディストを出ましょう!」
「残火…」
「私は信じてます!姉上を!姉上が勝つって信じてます!!だから!!女帝になんか負けないで!勝って下さい!姉上ぇ!!」
必死に大声で叫んだせいか、残火は全て言い終わるとゼーゼーと肩で息をしている。
そんな残火を見て…蓮姫は自然と笑みを浮かべた。
「…残火………ありがとう!」
蓮姫は勢いよく立ち上がると、再びエメラインに向けて短剣と紅月を構える。
そして残火に聞こえるように、蓮姫もまた大声で叫ぶ。
「ありがとう残火!やっぱり残火に応援してもらって良かった!私はまだ頑張れる!だから勝つよ!絶対に勝つからね!ありがとう!!」
残火に向けて叫びながらも、その視線はエメラインから外さない蓮姫。
戦意を喪失し澱んでいた漆黒の瞳は、今や光輝いて見える。
「あら…………ふふ。良かった。まだ…楽しめる余地は残っているようね」
そんな蓮姫をみて、エメラインにも笑顔が戻った。