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若様と蓮姫 5




その日の夜。



「………で?なんでまた来たんですか?」


再び遊女の姿となった蓮姫は昨晩と同じ部屋に出向き、呆れたように目の前で煙管(キセル)をふかす男へ声をかける。


男の方は楽しそうに蓮姫へ微笑むと、ゆっくりと煙を吐いた。


「また…とは御挨拶(ごあいさつ)だな。俺は上客らしく、大金を払ってお前を指名したんだぞ」


「私は遊女じゃありません。それにここには、私なんかよりもっと綺麗なお姐さん達も、千寿みたいに可愛い見習いの子もいます。そちらをご指名してはいかがですか?」


「お前じゃなきゃ指名する気は無い。昨日の事で、俺は尚更お前を気に入ったんでな」


「ワガママ…いえ、物好きですね」


蓮姫はあからさまにため息をつくと、若様の隣へと腰を下ろす。


そんな蓮姫の様子すら若様は楽しそうに眺める。


「そうだな。自分でも物好きだと思う。お前は牡丹みたいに絶世の美女でもないし、俺にお世辞を言うどころか喧嘩まで売った女だからな」


「先に喧嘩を売ったのは若様です」


「俺は喉に(かんざし)向けるような物理的な(おど)しはしていない」


物騒な事を楽しげに語る若様に蓮姫は再びため息を吐いた。


そんな事をされて怒るならまだしも、何故気に入るのか…。


もはや蓮姫の中の若様のイメージは『良い人』から『大嫌いな人』を経て『よく分からない悪趣味な男』へと変わっていた。


「お前も俺に惚れたらどうだ?それなら何も問題無いだろ」


「だから、なんでそうなるんですか。私は……もう誰かを好きになったりしません」


そう呟く蓮姫の脳裏にはレオナルドの姿が浮かぶ。


かつて好きだった年下の婚約者。


愛情の証…レムストーンのピアスをくれた相手。


今では……元婚約者となってしまったが。


(ピアスをくれた時は…少しでも好意を持っててくれたんだろうな。…それでも…結局は婚約を解消されてしまったけど…)


蓮姫は自分とレオナルドの婚約解消の真意を知らない。


蓮姫だけではなく、レオナルド本人や女王、そしてサフィール以外の者はその意味を知りはしない。


蓮姫の中でこの恋は『レオナルドに振られた』という形で失恋となり、終わってしまった。


悲しげに目を伏せる蓮姫を見ながら、若様は深く煙管(キセル)を吸い込む。


そして蓮姫の顔目掛けて、フーと煙を吐き出した。


突然視界を煙に覆われ、蓮姫は驚いた拍子に煙を吸い込み咳き込んでしまう。


「ゲホッ…もうっ!なにするんですか!」


「お前が物思いに(ふけ)ってるのが悪い」


「そういう気分だったんです!わかってるなら放っておいて下さいよ!」


「どうせピアスをくれた相手や、フラれた時の事を思い出してたんだろう。そんな奴の事はさっさと忘れろ」


「っ、若様には…わかりませんよ」


「いいや、わかるね。お前がどれだけ愚かで身勝手で…被害妄想の(かたまり)かは」


若様は煙管(キセル)を置くと、蓮姫を真っ直ぐと見据える。


それは全てを見透かすような目。


紫色の双眼に映る蓮姫の姿は…どこか怯えていた。


それは若様にではなく…若様に全てを見抜かれている事に対して。


「お前は…本当にそいつが好きだったと言いたいのか?」


「っ、そうですよ!本当に好きだったんです!だから落ち込んで」


「いいや。違う」


蓮姫の言葉を遮る若様。


何故こんなにもハッキリと蓮姫の言葉を否定するのか?


それはピアスの記憶や、蓮姫の感情の全てを知ったから。


蓮姫は顔を真っ赤にすると、ヤケになり若様へと怒鳴った。


「若様に何がわかるっていうんですか!?」


「わかるさ。勝手にピアスの記憶を覗いたからな。覗き見したことは謝るが…そのおかげでお前の本性だって知った」


「っ!!?」


蓮姫は咄嗟が(とっさ)に若様に隠すよう左耳のピアスを触った。


もはや今頃隠しても意味は無いが…それでも体が勝手に動いたのだ。


(記憶を…覗く?……この人も…ジーンと同じで記憶を見れるの?なら私の正体も………ううん。もしバレてるなら…きっと今頃大騒ぎになってる。そこまではバレてないはず)


恐らく、蓮姫が弐の姫であることはバレていない。


そう思いながらも、蓮姫は確かめるように若様へと尋ねた。


自分の正体がバレているか……そして…どこまで知っているのか、を。


「……私の何を…彼の何を知ってるって言うんですか?」


「お前の婚約者がどういう奴か?とかは知らない。お前が何処の誰なのかもな。物からは持ち主の感情しか読み取れない。だが、それで充分だ」


蓮姫の予想通り、若様には蓮姫が弐の姫という事実まではバレていなかった。


そこは安心出来たが……若様がこれから話す内容に……蓮姫は自分でも気づかなかった…自分の愚かさや汚さを思い知ることになる。


若様はゆっくりと…しかし嘲笑うように蓮姫へ尋ねる。



「教えてくれ。悲劇のヒロインになるのはそんなに楽しいか?」



「…っ、悲劇の…ヒロイン…?」


「そうだろう?なんでも悪い方にばかり考えているクセに、いざフラれると落ち込んで被害者ぶる…悲劇のヒロインぶってる女だ」


「っ、…なに…を…」


冷たい目を向ける若様に蓮姫は息を呑んだ。


自分はレオナルドを愛していない…その言葉が重く心にのしかかる。


聞き捨てならない言葉に言い返そうとした蓮姫だが、若様が口を開く方が早かった。


「そいつがどれだけ外見がいいのか知らないが…むしろ『顔がいいからそこを好きになっった』と言われた方がまだ納得できる。だが…お前はそうじゃない」


蓮姫はレオナルドの外見を気に入り、愛していた訳ではない。


確かにレオナルドは整った顔をしているが…美形さはユージーンや若様…天馬将軍久遠の方が上だ。


蓮姫がレオナルドを好きになったのは…きっかけは別にあった。


「そいつとお前は婚約者だった。だがそいつには他に好きな相手がいた。お前がそいつを好きになったきっかけ…そいつを好きだと自覚した時には、既にお前の中で終わってた。違うか?」


若様がピアスの記憶を覗いて知ったのは、蓮姫の感情。


だからこそ、レオナルドがどういう人間か、ソフィアとどういう関係かなどは知らない。


若様が知っているのは、蓮姫が知る一方的な感情と簡単な経緯…蓮姫がレオナルドを好きになったタイミングやその時の感情の変化。


蓮姫がレオナルドを好きだと感じた時…それはピアスを貰った直後、ソフィアも耳飾りをつけているのを見た時だった。


それまで蓮姫はレオナルドに対して、彼が時折見せる優しさに好意はあっても…愛情は感じていなかった。


若様に言われて…それに気づいた蓮姫。


正確には今気づいたのではない。


若様に言われて改めて思い知らされたのだ。


本当は自分の気持ちも…自分の心も知っていた。


知っていたのに…知らないフリをし続けていた。


彼が好きだと自分に言い聞かせていた。


これは蓮姫が、誰にも気づかれていないと…自分も気づいていないと、そう思い込んでいた真実。


若様の言う通り…蓮姫は愚かで身勝手であり…蓮姫の心は…被害妄想の塊だ。


動揺して何も答えられない蓮姫に、若様はトドメの一言を告げる。



「お前は…そいつを好きなんかじゃなかった」



告げられた真実に…蓮姫は微かに震える。


否定したいのに…『違う!』と叫びたいのに…口が上手く動いてくれない。


それは、若様に突きつけられた言葉が真実だから。


自分自身でも見て見ぬふりをしてきた心を見抜かれた事に…動揺しているから。


喉がカラカラに乾いたような感覚に陥る蓮姫だが、そんな彼女へ追い討ちをかけるように若様は言葉を続けた。


「『彼とは婚約者だから』とか『彼には他に好きな子がいる』とか。そういう環境から自分だって彼に愛されたい。自分だって彼に愛されたっていいじゃないか。そういう思いが変換されて恋だと思い込んでただけだ」


「……ち…がう…」


(しぼ)()すように出た言葉は…やはり(かす)かに震えている。


やっとの思いで否定した蓮姫だが、直ぐにそれは若様によって否定された。


「違わない。お前は愛してるのに愛されない、かわいそうな自分を演じたかっただけ。そんな自分を愛したかっただけだ」


「…うる…さい」


「お前が愛してたのはそのピアスの送り主なんかじゃない。かわいそうな自分だ」


「うるさい…うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいっ!」


蓮姫は駄々っ子のように両手を耳に当てると、激しく首を左右に振りながら、若様の言葉を聞かないようにする。


そして目に涙をためながら若様を睨みつけた。


しかし蓮姫に睨みつけられた若様は、今までのような冷たい目ではなく、哀れむような目を蓮姫に向け悲しそうに微笑んでいた。


同情しているのか…馬鹿な女だと思っているのか……それでもその目を…蓮姫は見つめ返す。


耳に当てていた手がゆっくりと…蓮姫の耳から外れたのを確認すると、今度は優しく呟く若様。


「…それでも…思い込みが本心になる事はある。きっかけがどうであれ…お前は後々(のちのち)…本気で彼を愛するようになった。…愛していた」


「………」


「しかし結果振られた」


「うるさい」


一度は耳を傾けた蓮姫だが、最後の余計な一言でブスッとまた顔をしかめる。


そんな蓮姫の態度や表情の変化が面白かったのか、若様は楽しそうに笑った。


「またいじめすぎたな。すまない。許せ」


「許せって…」


「男の…俺の(みにく)嫉妬(しっと)だ。お前があまりにも、そのピアスを必死に取り戻そうと…そのピアスを大切そうにしていたから。面白くなかったんだよ」


真意をずっと隠していた蓮姫とは逆に、若様はすんなりと自分の非を認める。


一度目を伏せてすまなそうに謝る若様に、蓮姫はなんと返していいのかわからず言葉に詰まる。


すると若様は懐からある物を…小さな横笛を取り出した。


「いじめた()びに一曲聞かせよう」


「笛?若様…笛吹けるんですか?」


「じゃなきゃ持ち歩いてないだろ。何がいい?お前の好きな曲を吹いてやるよ」


優しげに微笑む若様だが、蓮姫はこの世界の歌や曲などほとんど知らない。


『なんでもいい』と言おうともしたが、自分への詫びに奏でようという若様にそれは失礼だとも思う。


そんな時、蓮姫はいつかのカラオケ大会を思い出した。


あの時…未月が歌っていたのは笛の独奏歌だった、と。


「……じゃあ…想月歌(そうげつか)を」


想月歌(そうげつか)』という言葉に、若様はまた柔らかく微笑んだ。


「…そうか。それは俺の一番好きな曲だ」


若様が笛に口をつけると、直ぐに優しい笛の音が流れる。


その曲は蓮姫が知る曲とは…未月が歌っていたものとは全く違う代物(しろもの)だった。


同じ曲なのに…とても美しく奏でられる曲。


(凄く優しくて…どこか切ない……なんだろう…胸が熱い)


優しい笛の音の中に、何処か切なさがこめられ、胸の奥が熱くなる。


まるでそれは…切ないラブソングのようだった。


蓮姫の脳裏には無意識に今まで出会った者達の姿が浮かぶ。


仲間達、双子の親友、王都で出会った人々、ロゼリアやアクアリアの友人、玉華や大和の人々…自分のせいで亡くなった二人の友。


それぞれが…浮かんでは消えていく。


静かに奏でられる美しい音色に、蓮姫の瞳からポロリと涙が一雫(ひとしずく)流れた。


慌てて袖で拭う蓮姫だが、この曲には…若様の奏でる音楽には、人の心…自分の心を震わせる何かがあると感じた。


若様は目を閉じながら笛を奏でるが、曲の途中で時折蓮姫へ視線を向けると、微笑んでまた目を伏せる。


その仕草が…向けられる紫の瞳が…かえって蓮姫の胸を熱くした。




たった数分だというのに…それはとても長く感じる。


蓮姫はこのままずっと…この曲を聞いていたいと思った。


曲が終わると蓮姫は若様を真っ直ぐ見つめ、自然と小さく拍手をしていた。


何も語らない蓮姫だが、その黒い瞳は若様へ自分の想いを告げている。


とても素晴らしい…とても心に響く曲だったと。


「気に入ってくれたか?」


「はい。凄く…素敵な演奏でした。…涙まで出ちゃった」


「そこまで気に入ってくれると、俺も吹いた甲斐があるな。ありがとう」


「お礼を言うのは私の方です。素晴らしいものを聞かせてもらって、私こそありがとうございました」


「じゃあ…許してくれるか?」


不安げに呟く若様に、蓮姫は苦笑する。


この短期間で…蓮姫の中での若様のイメージはまた変わった。


『不器用だけど…優しさのある(ひと)』だと。


蓮姫は苦笑しながらも若様に小さく頷いた。


「……はい」


「良かった。…ついでに…俺の事を好きになったりはしてないか?」


「なんでそうなるんですか」


「……ダメか。いいさ。お前が俺を好きになるまで通いつめて、惚れさせてやるから」


「本当に物好きですね」


呆れたように呟く蓮姫に、若様もムッとする。


「仕方ないだろ。逆に聞くが…俺の何がそんなにダメなんだよ?年上の男は好きじゃないってのか?」


「…まぁ…年上はむしろ好きですけど」


「ならいいだろ?俺は20歳だからな。お前確か17だろ。年齢的には丁度いい」


「何が丁度いいんです?…強いて言うなら……人のこと『お前』呼ばわりする人は嫌いです」


プイッとそっぽを向きながら答える蓮姫に、若様はキョトンとした顔で蓮姫を見つめる。


別に蓮姫はどう呼ばれようと構わない。


ただ答えに困って適当に言ってみただけだ。


それでも若様はその言葉に反応する。


「なら今後は『お前』じゃなく『君』と呼ぶ。それならいいんだろ?」


「そんな単純な女じゃありませんよ、私」


「ハハッ。めんどくさい女」


「そうです。私はめんどくさい女なんです。私も聞きたいんですが…なんで私なんですか?」


「そうだな。…その前にお前…じゃなかった。君も敬語をやめてもらおうか?ここには俺達しかいない。タメ口じゃないと俺も話さないぞ」


「わかりまし……わかった」


蓮姫も観念したように、若様へと向き直る。


若様は少し考えた後…愛の告白とは思えない言葉を紡いだ。


「初めはただ…助けたい…守りたいと思っていた。でも俺には全く無関心な態度を見て、面白くないと思った。極めつけはピアスの記憶。記憶や感情を覗いて…君の心は醜いと…君は哀れな女だと知った」


「それはまた…随分な愛の告白ね」


「しょうがないだろ。これは俺の本心だ。やっぱり聞きたくないか?」


「…いいえ。聞いたのは私の方だから。聞かせて」


「………わかった。ピアスにこめられた君の自分本位な考え。恋に恋してる子供らしい思考……それを見てずいぶんと…かわいそうな女だと思ったんだ」


蓮姫が言ったように、それは愛の告白というには随分と酷く、蓮姫を軽蔑するような言葉。


「きっと君は…誰よりも貪欲(どんよく)でわがままだろう。無鉄砲で直ぐ被害者ぶる汚い偽善者(ぎぜんしゃ)。いっそ哀れな程に馬鹿で愚かな小娘だ」


「その通りかもね」


「だがそれ故に…愛おしいと思う。醜い心を隠し、強く美しく生きようとする姿が。俺はそんな君が…愛おしくてたまらない」


「…………悪趣味な男」


若様の言葉を蓮姫は否定せず、ただ嫌味だけで返す。


それでも若様は微笑んだまま。


そんな若様に…蓮姫は意を決して口を開く。


「…嫌に…ならないの?そんな私が」


「言っただろ。ダメな部分を知ったから…余計に好きになったと。綺麗なだけじゃない。何故かはわからないが……君はそれでも、必死に強く生きようとする。生きるという強い意志がある。そんな所を知って…余計に好きになったんだ」


「どうして?普通…ダメな所を知ったら…幻滅(げんめつ)するでしょ?…嫌いに…なるでしょ?」


「そうかもな。でも…ダメな部分が無い人間なんているはずない。俺だってそうだ。ダメな部分があったっていいだろ。強がったっていいだろ。そこも含めて君だ。君は誰より人間らしいよ。だからこそ…君が好きだ」


静かに告げられる言葉に、蓮姫はまた目を潤ませた。


今まで蓮姫は『好かれたい』『認められたい』という思いで、必死に強がって生きてきた。


王都でも…王都を出てからも…蓮姫は他人に嫌われるのが怖かった。


ダメな部分を見せないように…必死に生きてきた。


蓮姫にとって唯一のヴァルである、ユージーンの前では弱音だって吐いた。


そんな彼ですら…蓮姫に『強くあること』を望んだ。


火狼の前では『彼を信頼している』と言っておきながら、無意識に(すき)を見せないようにしていた。


未月や残火相手では、自分の方が年上だから…自分は主だからと、二人の前では頼れる存在でいようとしていた。


無意識に自分を(いつわ)ってきた…醜い自分。


そんな自分を認め…愛しいと言ってくれる若様。


それは言葉だけではない。


彼は本当に…蓮姫の本質を見抜いている。


その上で、ダメな部分も…強がる部分も…全てを含めて…愛おしいと言ってくれる。


若様は蓮姫にゆっくりと手を伸ばすと、優しく目元の涙を拭ってやる。


蓮姫はもう…この手を振り払えなかった。


「もう一度言う。…君が……君だから好きだ」


「……若様」


涙を拭った手でそっと蓮姫の頬に触れる若様。


蓮姫も自分に触れる若様の手を自分の手で覆い、若様の手に頬をすり寄せ目を閉じる。


再び蓮姫が目を開くと、若様は自分の顔を蓮姫へと近づけた。


お互いの息が触れる程に近いのに…若様はなお…蓮姫へと顔を…唇を寄せてくる。


あと少しで唇が触れる…その時。


「わ、私!貴方のこと!何も知らない!」


蓮姫は慌てて、顔を若様に触れられていない方に背けた。


急に蓮姫から発せられた言葉と、顔を背けられた事にしばし固まる若様。


この雰囲気なら、当然蓮姫も自分を受け入れると思っていたのに…拒絶された事で多少落ち込んでいる。


「……お、お前なぁ~…今のタイミングでそういうこと言うか?普通」


「あぁっ!また『お前』って言いましたね!いいですよ!私も敬語に戻しますから!!」


今や二人の間には先程までの雰囲気はまるで無く、蓮姫は若様から手を離すとそのまま後ろに下がった。


行き場をなくした自分の手を見つめ、若様は「あ…」と間抜けに呟く。


「…クソッ…絶対に流されてキス出来ると思ったのにな」


「聞こえてますからね!」


「聞こえるように言ったんだよ。お前…じゃない。君は俺の事を知らないと言ったがな…俺だって君の事は知らない事ばかりだぞ。本当の名前だって知らない」


「人に聞くんなら、先に名乗るのが礼儀じゃないですか?」


「敬語やめろよ。だったら君から先に言うのがスジだろ」


「先に記憶を覗いたのはそっちでしょ」


ムゥ…と頬を膨らませる蓮姫だが、その頬は少々赤みを帯びている。


それを見て若様は、これが蓮姫なりの照れ隠しだと気づいた。


蓮姫が照れているだけだと気づくと、若様はやれやれと苦笑しつつ安心していた。


照れているだけ…それなら拒絶された訳ではないのだ、と。


「仕方ない。……詳しくは言えないが…俺はある大きな一族の跡取りなんだよ。だから莫大(ばくだい)な金もあるし『若様』なんて呼ばれてる。以上」


「以上って…それだけ?」


「俺に語ってほしいなら、お前も全てを語ってもらおうか? …なぁ…蓮華(れんげ)


あえて『蓮華』と蓮姫の源氏名を告げる若様に、蓮姫も観念したように肩を落とした。


観念したとはいえ、さすがに『蓮姫』の名は明かせない。


そもそも蓮姫が明かせる名前など…一つしか無いのだ


「…悪いけど…私も全てを話す気は無いの。…でも……親しい友達は私を『(れん)』って呼んでる。牡丹姐さんに教えたのも…こっちの名前」


「へぇ…本名は気になるが…いいだろ。親しい奴にしか許してない名前なら、俺も呼ばせてもらう」


「じゃあ今度は若様の番。それとも…名前は教えられない?」


「……本当は教えちゃいけない。一族でも限られた人間しか知らない名だからな。だが…お前になら教えてもいいか」


若様は一度ゆっくりと深呼吸してから、蓮姫の目を見すえて告げる。



「俺の名は…一愛(かずい)だ」



「…かずい?」


「あぁ。漢字の(いち)(あい)と書いて…一愛。俺の母親が『この世界で一番愛されるべき者』という意味を込めてつけた名だ。一族も…生まれ持った自分の運命も嫌いだが…この名前は嫌いじゃない。……君に呼ばれたら…もっと好きになるかもな」


そう呟くと若様はまた微笑んだ。


そして蓮姫の目を見つめたまま黙る。


それはまるで…名前を呼ばれるのを待っているかのように。


蓮姫もまた若様…一愛を見つめて、ゆっくりと彼の名を紡ぐ。


「……一愛」


「なんだ?蓮」


「…呼びたかっただけ」


「そうか。……蓮」


「なぁに?」


「呼びたかっただけだ」


「ふふ。なにそれ?」


蓮姫と一愛は、用もないのにお互いの名を呼び合う。


それがなんだかおかしくて、二人は同時に声を出して笑った。


もはや蓮姫も、一愛に対して不快な感情などはない。


だが自分を愛しいと…自分にだけ特別な本名を教えてくれた目の前の男を見て…蓮姫はある不安を覚える。

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