若様と蓮姫 4
翌日の夕方。
夢幻郷の華屋敷前には千寿と蓮姫…そして牡丹の三人の姿があった。
牡丹はいつもの煌びやかな着物ではなく、簡素で動きやすい着物に身を包んでいる。
化粧も遊女らしい濃いものではなく、薄らと施されている程度。
遊女として店に出る時とは違う美しさをまとう牡丹は、千寿と蓮姫に笑顔で出立の挨拶を告げる。
「それじゃあ千寿、蓮華。行ってくるよ。三日後には帰ってくるからね」
「はい。行ってらっしゃい、牡丹姐さん」
「行ってらっしゃーい。姐さん、お土産よろしくお願いしますね!」
「はいはい。まったく千寿ったら、しょうがない子だね。その代わり、私がいない間もしっかりと働くんだよ」
牡丹は微笑むと、先に待っていた三人の男達と共に街を出て行った。
そんな牡丹の背を見送りながら、蓮姫はため息をつく。
「牡丹姐さんは…街を出れるんだね」
「そうだよ。牡丹姐さんのお得意様には、色んな国のお偉いさんもいるからね。だから月に二、三回は街を出て、外でそういう人達と会うんだって」
「一緒にいた男の人達は?」
「用心棒と…あとは一応見張りってことになってるよ。牡丹姐さんは絶対に逃げたりしないけど…それに男の人と一緒じゃなきゃ街を出れないし」
「じゃあ…私達は牡丹姐さんの付き添いとか出来ないの?」
蓮姫は一握の期待を込めて千寿に尋ねるが、千寿は困ったように首を横に振った。
「それは無理だね。外を出れるのは牡丹姐さんだけだよ。何年か前は見習いとか他の遊女も一緒に出てたらしいけど、脱走しかけた事があったらしくてさ。その人達は酷い罰を受けたって。姐さんは外からも街の人間からも信頼が厚い。だから姐さんだけは出れるけど…他の女は駄目なの」
「……そっか」
蓮姫は『牡丹の付き添いとして外へ出て、隙を見て逃げ出す』という計画を考えたが、どうやらそれは実行すら出来ないらしい。
街を出なくてはユージーン達従者を探すどころか、連絡すらとれない。
なんとかして一歩でも街の外に出たい蓮姫だが…遊女の見習い兼雑用係である蓮姫に協力してくれる男もいない。
どうしたものか…考えても良い案は何一つ浮かばなかった。
「おーい!千寿に蓮華!牡丹さんの見送りは終わったんだろ!さっさと中に戻って仕事しな!」
「あ、はーい!行こう、蓮華!」
「うん!今日はご飯作りとお膳運び…それが終わったら繕いもの…頑張らないとね!」
店の中から従業員の男に声をかけられ、千寿と蓮姫は慌てて中へと戻り仕事にとりかかった。
日が暮れて街中の店が灯りをつけた頃、またあの男が華屋敷へと現れた。
その男に気づいた従業員の一人…昨日蓮姫と一緒に客引きをしていた男は、彼に気づくとペコペコと頭を下げる。
「これはこれは若様。本日もお越し下さり誠にありがとうございます」
「あぁ。いつも通り牡丹を頼む。牡丹が来るまでの間は…蓮華を部屋に置いてくれ」
いつもと変わらず牡丹を、そしてちゃっかり蓮姫まで指名する若様。
そんな若様に従業員の男は困ったように手をすり合わせ、視線を泳がせた。
「あの~…大変申し訳ございませんが…牡丹は今日から外に出ていまして…」
「外に?そうか。牡丹も忙しいからな」
「左様でございます。それで…その…いかが致しましょうか?もし若様さえ良ければ…他の遊女を呼んでみては?」
従業員の男はダメ元で聞いてみる。
一応尋ねてはみたものの、若様の答えはわかりきっていた。
「悪いが牡丹以外を指名する気は………」
いつも通りの言葉を口にして断ろうとする若様だが、ふとその口が止まり…何かを考えている。
そして若様は従業員の男にニヤリと微笑んだ。
「………そうだな。今日は他の女を指名しよう」
「っ!?あ、ありがとうございます!それではどの遊女になさいますか?菖蒲?それとも鈴蘭?」
「いや、指名したいのは遊女じゃない」
若様は微笑みを絶やさず、懐の中にしまい込んだピアスを触りながら…ゆっくりとその女の名を告げた。
「蓮華だ。今夜、俺は蓮華を指名する」
「は!?れ、蓮華でございますか!?」
「あぁ。牡丹付きの見習い、蓮華だ」
「で、ですがその…他にも遊女はいくらでもおりますし!蓮華など指名しなくとも」
「いいや、ダメだ。蓮華以外は指名しない」
「し、しかし!若様もおっしゃられたように!蓮華は見習いです!それに特例ですが…あの娘には遊女をさせないと、牡丹からの命令もありますし」
「牡丹には俺が後で上手く説明しておく。だから問題無い」
従業員の男はやんわりと断ろうとしているが、若様は首を縦に振ろうとしない。
それどころか、蓮姫をこの街に連れて来た時と同じ言葉で念押しした。
常連であり上客でもある若様の頼みを無下にも出来ず…かといって、ここ夢幻郷一の女、牡丹の命令を破るわけにもいかず…従業員の男は困り果てている。
そんな男に若様は決定打となる言葉をそっと耳打ちした。
「金は牡丹と同額払う。それなら文句は無いだろう?」
「ぼ、牡丹と同額ですか!?」
「あぁ。もし、それでも蓮華がダメだと言うなら…俺はこのまま帰るだけだ」
ここで若様の頼みを聞けば、いつものように大金が店へと入る。
蓮華に客を取らせないと言った牡丹への説明も、若様がしてくれると言う。
若様の頼みを受けない理由は…一従業員として何も無かった。
従業員の男は若様に対して大きく頷くと、上機嫌で若様を店の中へと案内した。
そして若様からある伝言を預かると、他の従業員に若様を任せ、全速力で厨房へと駆け出し蓮姫へと声をかける。
「蓮華ーっ!!」
「っ!?は、はい!なんでしょうか!?」
煮物を盛り分けていた蓮姫はあまりの大声にビクッ!と体を震わせると、菜箸を持ったまま声の方に振り返る。
他の見習い達や厨房の男達…千寿の視線も二人の元へと集まった。
男はゼーゼーと息を切らせながら蓮姫に近づくと、ガシッ!と彼女の両肩を掴む。
「ご指名だ!今夜お前は店に出るんだ!」
「っ!?し、指名って、待って下さい!私には遊女をさせないって牡丹姐さんが!」
「その牡丹さんにも上手く説明して下さるそうだ!」
「そんな!?」
困惑し拒否する態度を見せる蓮姫だが、従業員の男は引かずに言葉を続けた。
「あの若様からのご指名なんだ!大金だって払って下さるとおっしゃってる!店にとっても、お前にとっても悪い話じゃない!」
「若様…って、あの人ですか!?」
自分を指名した相手に驚く蓮姫だが、それは蓮姫だけではない。
厨房にいる者…そして話を聞きつけた他の遊女達も厨房の外でザワザワと騒ぎ出した。
「あの若様が牡丹姐さん以外を指名?」
「あの子は見習いじゃなかったか?」
「それどころか雑用係だろ?なんで若様があんな子を指名するんだ?」
「どんな手を使って若様に媚びたんだい、あの子」
「さぁね。でも若様だって、ただの気まぐれかもしれないよ」
周りが騒いでいる中、千寿はただ何も言わず蓮姫を見つめている。
そして蓮姫を呼びに来た男は、周りに聞こえないよう内緒話をするように、彼女の耳を手で覆いながら小声で呟く。
「若様からの伝言だ。『断らずに部屋に来い。アレの為に』だそうだ」
その言葉に蓮姫の脳裏には昨日の若様とのやり取りが浮かぶ。
そして昨日と同じく顔を真っ赤に染め、彼女は自分の頭に血が上るのを感じた。
若様の伝言の意味も、アレが何を指しているかも蓮姫は瞬時に理解したのだ。
(ピアスを返して欲しかったら…相手をしろってわけ!?)
蓮姫は怒りで震えながらも拳を握りしめる。
そして彼女は…決断した。
「…わかりました。謹んでお受け致しましょう」
静かに怒気を含んだ声。
蓮姫はそれだけ告げると、人をかき分けて厨房を出て行った。
そんな蓮姫の後を千寿が慌てて追いかける。
「ま、待って蓮華!本当に若様の相手をする気!?本気なの!?」
「本気。これは遊女とか夜の相手とかじゃないの。若様は…あの人は私に喧嘩を売ってるの!」
「け、喧嘩?」
ズンズンと自分達の部屋に向けて歩いていた蓮姫だが、ピタリと足を止めると、そのまま両手を握りしめる。
そして天井を見上げて自分の中の怒りをぶちまけた。
「あーーーっ!もうっ!腹が立つ!なんなの!あの人!?上等よ!そっちが喧嘩売るなら買ってやろうじゃない!」
「え?え???」
千寿が恐る恐る蓮姫の前に回り込むと、蓮姫は鼻息を荒くし眉を吊り上げていた。
コレは本当に怒っているのだと千寿も気づき、一応注意だけはしておく。
「お、お客さん殴ったり、蹴飛ばしたりはダメだよ?」
「したいけど…我慢する。お店のためだもんね。でもあんな人の相手なんて絶対に嫌っ!!」
遊女達憧れの若様に対して『嫌だ』と言い切る蓮姫に、千寿はまた吹き出してしまう。
「……プッ!ハハッ!やっぱり蓮華って
面白いねー!じゃあ私が喧嘩装束の着物を見繕ってあげる。お化粧もバッチリしてさ!最高の女に仕立ててあげるよ!」
「え?でも千寿…嫌じゃないの?」
蓮姫は今になって千寿の気持ちを思い出す。
つい昨日、千寿から若様への想いを聞いたばかりだったと。
だが千寿は笑みを絶やすことなく、蓮姫へ楽しそうに告げる。
「あぁ~、『初めての相手は若様がいい』って言ったこと?全然いいよ!どうせなら若様みたいに素敵な人がいいってだけだもん!友達が面白い事をするなら私は協力してあげる!楽しいし!」
「千寿…ありがとう。お願いします!」
「アハハッ!了解しました!」
二人はそのまま自分達の部屋へと戻る。
そして千寿に手伝われながら、蓮姫は雑用係用の地味な着物から、赤地に菊や鳥が大きく描かれた煌びやかな着物へと着替えた。
千寿が鼻歌交じりで蓮姫の髪を結っていると、手前の小さなテーブルには手鏡や化粧道具、そして様々な簪が置かれている。
蓮姫はその中の一つ…特に先が尖っている銀の簪を手に取ると、そっと袖の中に隠した。
蓮姫達が支度を終える頃、最上階の部屋で若様は楽しそうに酒を飲んでいた。
本来なら目的の遊女が来るまで、話し相手や暇つぶしに遊女見習いをそばに置くきまりだが、若様はそれらを全て断り一人で酒を飲み続ける。
片手に持ったレムストーンのピアスを眺めながら。
「さて…蓮華はどうくるか?ピアスの為に土下座でもして必死に懇願するか…それとも……俺に抱かれるか?どちらにしろ…昨日の事は謝らないとな」
昨日、心にも無いことを言い蓮姫を挑発してしまった若様。
さすがにやりすぎたと反省はしている。
しかしチラリと隣の部屋の布団が目に入り、ピアスを懐にしまい込むとブツブツ一人で呟きだした。
「ま、まぁ…蓮華がその気なら…やぶさかでもないというか…交換条件をのむなら仕方ないというか……たまには女を抱くのも悪くないし……って、なに一人で言い訳してるんだ、俺?」
誰に向けるわけでもなく言い訳をしている自分に若様は呆れる。
それでも何故か、ドキドキといつもより早い鼓動をする胸。
「ガキみたいだな…俺」
一人苦笑する若様だが、そこに彼が待っていた女の声が扉から聞こえる。
「…若様。蓮華でございます」
「っ!?き、来たか。入れ」
「…失礼致します」
スっ…と横開きの扉が引かれる。
そして部屋へと入ってくる蓮姫…蓮華の姿に若様は目が釘付けとなった。
煌びやかな着物をまとい、髪を高く結い上げ、そこには金の簪…化粧をほどこして普段よりも美しい顔。
そこには牡丹や他の遊女にも引けを取らぬ…美しい女がいた。
遊女らしい風貌の蓮姫に、若様はただ見とれている。
蓮姫は扉を閉めると、少し歩いただけでその場に座り込み両手をつくと深く…それこそ畳につくほど頭を下げた。
「ご指名ありがとうございます、若様」
「っ、あ、あぁ。よく来たな」
若様は持っていたお猪口を置くと、蓮姫の向かいに座り直した。
しかし蓮姫は頭を上げず、若様の方はキョロキョロと視線を泳がしたり、頭を掻いたり着物の襟を直したりと落ち着かない。
「ま、まさか…本当に来るとは思わなかった」
「…………」
「それにしても…見違えたな。馬子にも衣装とはいうが……っ、いや、すまない!そういう意味じゃない!似合ってる!ホントだ!」
「…………」
「…………蓮華?」
一人話し続ける若様に対し、蓮姫は一切の返答をしない。
それどころか頭を上げることすらしなかった。
よく見ると蓮姫の体や畳につけた両手がカタカタと震えている。
(もしかして…怯えてるのか?…またやりすぎたか)
何も話さず震えるだけで頭も上げない蓮姫の姿に、若様は自己嫌悪に陥る。
「蓮華…そう怯えないでくれ。お前が嫌がることはしない。誓う」
「…………」
「蓮華…頼むから、顔を上げてくれないか?」
若様が蓮姫へと顔を近づけた瞬間。
「っ、」
「おわっ!?」
蓮姫は左手を伸ばし若様の襟を掴んで、グイッと自分へ寄せる。
そして右袖に忍ばせていた銀の簪を掴み、若様の喉元に突きつけた。
あまりにも素早く…物騒な事をしでかした蓮姫に、若様は目をパチクリと瞬きをする。
「…蓮華?」
「今すぐピアスを返して。そうじゃなきゃ…本気で喉を刺します」
「…俺は客だぞ?こんなことして…ただで済むと思ってるのか?」
「先に喧嘩を売ったのは若様です。私はその喧嘩を買っただけ」
真っ直ぐと…しかし怒りを込めた視線を若様に向ける蓮姫。
若様の方も蓮姫の視線から逃げることなく、彼女の黒い瞳を見つめ返した。
「俺がここで大声を出したり、後で告げ口をすれば、お前は罰を受けるぞ」
「それなら…この喧嘩は若様の負けですね」
「なに?」
「女一人に喧嘩を売っておきながら…その女が手に負えないとわかった途端、他人にどうにかしてもらおうなんて…子供の告げ口と同じ」
それはとても安い挑発。
若様はそれを聞き蓮姫に向けて『フッ』と笑う。
きっと蓮姫…蓮華は自分に土下座をするか、黙って抱かれると思っていた。
そんな予想を遥かに超え、彼女は自分を脅し、かつ挑発までしてくる。
おもしろい、と単純に若様は思った。
最初から大声を出す気も告げ口する気も若様にはない。
蓮姫がどんな反応をするのか…なんと返すのか気になっただけ。
若様は懐からピアスを取り出すと自分の顔の横…蓮姫からも見える位置に持つ。
「わかった。コレはお前に返す」
若様がそのまま手を開くと、重力のままピアスは落ちる。
畳につく前、蓮姫は慌てて若様から手を離し、ピアスをキャッチした。
大切そうにピアスを握りしめる蓮姫の姿を見て、若様は悲しげに眉を下げ、その胸はチクリと痛む。
が、蓮姫はピアスを握りしめたまま若様を再び睨みつけた。
「なんで片方だけなんですか?もう一つも返して下さい」
「俺が持ってたのはそれだけだ。確かに俺はお前を部屋に運んだ時、邪魔だろうと左耳にしてたソレを外した。でも右耳に傷はあっても、ピアスはしてなかった。それこそもう一つは何処かに落としたんだろ」
「…………そんな…」
若様の言葉に蓮姫は酷く落ち込む。
レオナルドから贈られた、蓮姫にとって大切なピアスは確かに返ってきた。
でもそれは片方だけ。
もう片方は何処にあるのか…何処でなくしたかもわからない。
「俺は約束を守った。お前はどうする?」
「………お相手はしません」
「ならこの喧嘩…お前の負けか?」
「『ピアスを返して欲しければ部屋に来い』という話でしたし、私はそれを守りました。若様だってさっき『私の嫌がることはしない』と言った。なにより…貴方の相手をするくらいなら、負けでいいです」
「『死ぬ方がマシ』とかは言わないんだな」
「言いません。私は…死ぬわけにはいかないんです」
蓮姫は若様の目をしっかりと見据え、強い意志を、自分の決意を告げる。
「必ず生き抜いてやる。貴方が無理矢理私を押し倒そうとするなら…殴ってでも蹴ってでも、あそこに噛み付いてでも抵抗します」
「ぅっ……なかなか怖いことを言うな」
つい数分前に千寿から注意された事と、自分なりに男に大ダメージを与えると考えた言葉を口にする蓮姫。
蓮姫の危ない発言に一瞬口元をヒクつかせた若様だが、直ぐに蓮姫へと微笑みを向けた。
「いいよ。お前はちゃんと部屋に来た。『嫌がることをしない』という誓いも守る。今回は引き分けだ」
「………え?」
若様はすんなりと引くと蓮姫から少し離れる。
そんな若様に蓮姫はキョトンとした顔を向けた。
「なんだ?やっぱり俺に抱かれたかったか?」
「絶っ対に嫌」
「ハハッ!それでいい。そんなお前だから気に入ったんだ。簡単に『死ぬ』とか言わないのも、俺に簪を向けたのも気に入った」
とても楽しそうに笑う若様だが、少し笑うと蓮姫へ向けて正座し神妙な顔つきをする。
「お前を呼んだのにはピアス以外にも理由がある。話があったんだ」
「私に…話ですか?」
「あぁ。昨日のことだが…その……悪かった。言い過ぎたよ」
少し目を伏せて呟く若様に、蓮姫はまたキョトンとした顔で彼を見つめた。
何も話さない蓮姫に代わり、若様は言葉を続ける。
「お前が本当に…俺に興味が無いのか、他の女と同じか…違うか、それを試したかったんだが…やりすぎた。牡丹にも言われた。『女を試す男なんてろくなもんじゃない』ってな。反省してる。すまなかった」
そう言って今度は若様の方が深く頭を下げた。
蓮姫は若様の態度に驚き、なんと声をかけていいのか戸惑う。
「……………やっぱり…許してくれないか?」
「い、いえ!あの…私こそ…簪向けたりして…すみませんでした」
若様に土下座され、蓮姫もまた若様へと深く頭を下げた。
娼館の一室でお互い土下座する男と女。
なんとも奇妙な構図だが…二人とも真剣に相手に謝罪している。
二人はほぼ同時に頭を上げると、一緒に微笑んだ。
「じゃあ、これも引き分けだな」
「ふふ。そうですね」
「さて…じゃあ飯でも食うか。せめて一緒に飯食って、酌くらいしてくれ」
「はいはい」
そうして若様と蓮姫は、お互い食事を摂り、蓮姫は時々若様へとお酌もしてやった。
若様は蓮姫に『ここに来てどうだ?仕事は出来てるか?』『牡丹は優しいか?』などの軽い質問をしてくるだけで、自分のことは何一つ話しはしなかった。
話すネタが無くなり夜が耽けると、気まづくなったのか若様は早々に布団へ行き一人で横になる。
本気で蓮姫を…蓮華を抱くつもりはない、と念を押して。
「俺は寝かせてもらうけど、お前も眠くなったら寝ろよ」
「はい。ありがとうございます」
隣の部屋に行った若様は直ぐに目を閉じた。
蓮姫は一人お茶を飲みながら、返ってきたピアスを寂しそうに見つめる。
「…ごめんね。…一つなくしちゃった。…せっかく…くれたのに…」
そう言ってピアスを通して、遠い王都にいるであろうレオナルドに謝る蓮姫。
そんな蓮姫の姿を、若様はバレないよう一晩中眺めていた。
朝になると若様はいつも通り、大金を店の者に渡し帰って行った。
蓮姫も店の外まで出て若様を見送る。
そして店の中に戻ると、一晩中起きていた疲れや眠気がその身にドッと押し寄せ、あくびをしながら自分と千寿の部屋へと戻った。
「ただいま~」
「っ、蓮華っ!大丈夫だった!?」
蓮姫が部屋に入ると、千寿が駆け寄り心配そうに尋ねてきた。
自分の両肩に手を置き不安そうな目を向ける千寿に、蓮姫は疲れた笑顔を向ける。
「大丈夫大丈夫。何も無かったよ。一緒にご飯食べて少し話して、若様は直ぐに寝ちゃったし。私は一応朝まで起きてたから疲れただけ」
「そ、そっか~。あ~もう!良かった~!心配で私まで寝れなかったんだからねっ!おかげで寝不足だよー!」
「ありがとう千寿。でも本当に何も無くて………っ!?」
蓮姫はふと自分の肩に置かれた千寿の手に触れようとし、その異変に気づく。
着物の裾から出た千寿の両腕には、激しい掻き傷や紅い線状の腫れがいくつもあり、血が滲んでいた。
「千寿っ!どうしたの!?コレ!」
「え?っ、あぁ……これ?実は………昨夜とろろをすってたら腕にぶちまけちゃって!もう痒いのなんのってさ~」
「とろろって…長芋?……でも…」
アハハと明るく笑う千寿だが、蓮姫はその言葉に眉を寄せた。
昨夜のお膳の支度には蓮姫も手伝っている。
でもその時…厨房に長芋など無かった。
それに気づいた千寿は蓮姫から腕を離し、乱暴に両腕を掻きながら話す。
「蓮華が部屋に行った後『どうしてもとろろを食べたい!』ってお客さんが来てさ!それで別の店まで取りに行って支度してたんだよ!やっぱりとろろは痒いよねー!今もまだ痒くてさ!」
「ちょっと!ダメだよ千寿!もう掻かないで!薬っ!薬箱何処だっけ!?」
「んもう!大袈裟だな蓮華は~!」
部屋に入り千寿の為に薬箱を探す蓮姫。
だから彼女は気づいていない。
千寿が感情のこもっていない、冷ややかな目を蓮姫へ向けていたことに。
しかし蓮姫が薬箱を見つけると、直ぐにまた何事も無かったかのように笑顔を浮かべる。
「あった。ほら、薬塗るから腕見せて」
「アハッ!ありがとう、蓮華。持つべきものは友達だね!」
「そう。千寿は私の大事な友達なの。だからもう掻いちゃダメ。千寿が傷つくのは私も嫌。このままま包帯も巻くからね」
「………蓮華って優しいね。よし!そんな優しい蓮華に!千寿さんは朝ご飯を持って来ましょう!私は今日お休みだし、蓮華は店に出てたから多分昼まで休みだよ。一緒に食べて寝ちゃおう!」
「ありがとう千寿。そうだね。ゆっくりお昼まで休ませてもらおう!」
「うん!薬と包帯ありがとう!じゃあ行ってくるから、着替えて待っててねー!」
蓮姫から包帯を両腕に巻かれると、千寿は元気よく部屋を出て行った。
しかし数歩進むと、千寿はその足を止めて包帯の上からまた両腕に爪を立てた。
「………優しくて…美人で…面白くて。…遊女しないなんてワガママ許されて…それなのに…若様にも好かれて…。…ホント…ずるいよ」
悲痛な声で一人呟くと、千寿は腕に巻かれた包帯をガリッ!と力強く掻いた。
「…昨夜だけだもんね。…店や客の命令は…絶対。…それに若様と…何も無かったんなら…。………友達、か。…信じるよ……蓮華…」