②
そう告げられたユージーンの言葉は、本来なら安心できるもの。
それでも蓮姫が少なからず落胆し…残念だと感じたのは『魔王』という単語より別の名称に興味を引かれていたから。
それは………この目で見てみたいと思わせる、ファンタジーでは代表的な存在の一つ。
「竜…ドラゴンか。存在してるのは知ってたけど…まだ会った事も、見た事も無いな」
魔王や魔族という単語は聞かなかったが、竜が存在している事は蓮姫も知っていた。
麗華のヴァルに竜族がいる、という話も本人から聞いている。
「別にわざわざ見る必要もありませんけどね。姫様の想像通りの姿してますし。老人…老竜は頭カタい奴ばかりで、竜族から人間への干渉もほぼありません。昔に比べたら数も種類も減っています」
「それも竜魔王のせい?」
先程ユージーンの説明の中で『竜魔王は同胞である竜族も殺した』と言っていた。
「それもあるでしょうが…当事者じゃないので詳しくはなんとも。ハッキリ言えるのは、昔は数千頭いたらしい竜族も俺が産まれた頃には既に数百に減っていた…という事くらいですかね」
「……激減してる」
「はい。今じゃ空を飛んでる姿を見る事すら希少ですよ」
「そっか。……でも…見てみたかったな」
この世界では普通に存在していても、蓮姫のいた想造世界では空想上の生物。
それは竜に限らず、天馬や人魚もそうだった。
初めて天馬や人魚を見た時の興奮を蓮姫は思い出す。
想造世界の人間なら、それら空想上の生物達を見たいと思うのは当然だろう。
遠くからでも、チラリと一目見るだけでも、と。
蓮姫はふと、あの森林で残火が言っていた言葉を思い出し、小さな期待を抱く。
「そういえば残火…夜中に『竜の谷』とか言ってたけど、ソコは名前の通り竜がいる谷なの?」
「はい姉上。『竜の谷』は竜族の住処。現存する殆どの竜が暮らしています。でも…竜族の許しなくては人間は勿論、他の種族も入れません。人間で入れるのは…女王陛下くらいでしょうか」
「つまり…ソコに行っても簡単には竜に会えない、か」
小さな小さな期待があっさりと破られ、蓮姫が落ち込んでいると。
コンコン。
「お客さん達。もうご飯食べたかい?」
扉の向こうから、あの受付の女性の声が聞こえた。
「あ、はい。もうすぐ食べ終わります」
「そうかい?じゃあ、ちょっとお邪魔するね」
宿屋の従業員としてこの言葉はどうなのか?と呆れるユージーンだが、蓮姫に促され、そのまま扉を開ける。
そこには受付にいたあの女性、そして体格のいい中年男性が一人。
「悪いね、お客さん達。ご飯食べたら直ぐに祭の準備手伝ってもらうよ。その代わり、本当に宿代も飯代もとらないからね。安心しておくれ」
「お、いい男が三人もいるじゃないか。食べ終わったら男は全員宿屋前に来てくれ。俺が仕事を教えるからな」
「女の子二人は私と一緒だよ。私は下にいるからね。じゃ頼んだよ」
それだけ告げて部屋を出た二人の背を見つめ、ユージーン以外は急いでおにぎりを食べ終える。
「よし、行こう」
蓮姫の号令と共に従者達も動き出した。
最後にノアールを抱えた蓮姫とユージーンが部屋を出ようとした際、ユージーンは蓮姫を呼び止める。
「あ、そういえば姫様。…コレ、姫様が持ってて下さい」
ユージーンが蓮姫に手渡したのは、見覚えのある掌に収まるほどの小さな壺。
「コレって…あの万能薬?」
「そうです。俺や犬が持つより姫様が持っていた方がいいでしょう。ポケットにでも入れて、肌身離さず持ち歩いて下さい」
「でも…回復魔法が使える私より、他の人が持ってた方が良くない?」
「回復系を使えるからこそ姫様が持つべきです。俺は不要ですし、他の奴も姫様がいれば回復できる。でも姫様が大怪我したり、再起不能になれば誰も姫様を直せません。そうならない為の俺達従者ですが…万一の備えです」
「そっか。…わかった」
蓮姫はユージーンから素直に壺を受け取ると、スカートのポケットにしまいユージーンと共に従者達を追う。
蓮姫達が一階に降りると従者達は蓮姫達へ視線を向ける。
しかし…一人だけ蓮姫を見ていない者がいた。
未月は何故か…テーブルの花瓶に生けられた赤い花を見つめていたのだ。
よく見ると、その花はテーブルだけではなくフロア中に飾られている。
二階に上がる前は無かったので、蓮姫達がおにぎりを食べている間に飾られたのだろう。
花を見つめたまま動かない未月が可愛く見えた蓮姫は、楽しそうに未月へ声をかけた。
「未月。花、好きなの?」
「…花…好き?…わからない」
「え?でも…ジッと見てたよね?どうして?」
「…真っ赤で…血みたいだから…」
「………未月」
未月の返答を受け、蓮姫は彼の境遇を思い返す。
忘れていた訳ではないが…改めて思い知らされた。
未月は赤い花を見て『美しい』や単純に『花』とは思わず…血を連想していた。
その事実に…蓮姫は切なくなる。
「…母さん?…なんでそんな顔する?」
「…変な顔してた?」
「…変?…わからない。…でも…母さんのその顔…見たくない。…前に…『悲しいよ』って…俺に言った時の…顔…」
そう告げる未月の方が、悲しげな表情をしていると蓮姫は感じた。
自分の表情や態度が、未月を悲しませている。
何か言わなくては……なんでもいい。
蓮姫がいつものように頭を撫でようと未月へと手を伸ばす。
が、未月に届く前に先程の男が現れた。
「おーい!まだ準備出来て…なんだ。いるじゃねぇか!よし男は全員俺について来てくれ!力仕事だ!ほら行くぞ!若いの!」
「…え?…俺?」
男は未月の肩をガシッと掴むと、そのままズルズルと引いて宿屋の外に出てしまった。
まさにあっという間の出来事。
残された蓮姫は彼等が去った方を見つめたまま、行き場を失った手をそっと下ろした。
「よっし!俺等も行こうかね、旦那」
「あぁ。では姫様、俺達も行きます。くれぐれも、くれぐれも。また変な事に首突っんだりしないで下さいね」
大事な事なので、あえて二回言ったユージーン。
それを特上の笑顔で告げると、未月達を追って宿屋を出て行った。
「ユージーン…本当にムカつく奴。姉上、アイツやっぱりクビにしましょう」
「あ、あはは。クビはともかく、私達もお手伝いしないとね」
「そうですね。それにしても…あの人何処にいるんでしょう?」
部屋を訪ねた女性は確かに『下(一階)にいる』と言っていた。
しかしあの女性だけではなく、この場には誰もいない。
どうしたものか?と悩んでいると、玄関からあの女性が入ってきた。
その手には、未月が血を連想した赤い花が数本入った花瓶を二つも持って。
「おや?待たせちまったかい?」
「いえ、今下りてきたばかりですから」
「それなら良かった。ちょっと待っててくれよ。カウンターにコレを飾ったら始めるからね」
そう言うと、女性は宣言通りカウンターの両端に花瓶を置く。
実はこの花…よく見ると、蓮姫も想造世界で見た事がある……ような気がしていた。
しかし、ユージーンが街や村を一々覚えていないように、蓮姫も今まで見てきた花の形と名前を全て覚えているわけでもない。
なので蓮姫は自力で思い出すのをやめ、素直に聞くことにした。
「綺麗な花ですね。なんていう花ですか?」
「コレかい?『勿忘草』ってんだよ。この村と祭にゃ欠かせない花さ。村のもんは皆この花を、庭や敷地内に植えてる。うちの庭にもたくさん植えてあるんだよ」
花の向きを直しながら上機嫌に答える女性。
しかし花の名前を聞いた蓮姫は、その答えで別な疑問を感じた。
(勿忘草?あれ?勿忘草って赤い花だっけ?青とか紫だったような…気のせいかな?)
ろくに名前も思い出せなかったのだから、自分の勘違いだろうか?。
それに想造世界では一色でも、この世界では違うかもしれない。
蓮姫の名の由来である『月光蓮』とて、想造世界には無いのだから。
この世界にしか存在しない生き物もいるのだし、きっと花もそうだろう。
蓮姫は自分の中で感じた疑問を、自分の中で結論づける事にした。
「さて、じゃあついて来ておくれ。いっぱい手伝ってもらわないとね!」
「あ、はい。よろしくお願いします」
「………」
女性と共に奥へ行く蓮姫と残火。
ふと残火は勿忘草をチラリと見た後、女性に気づかれないように、歩きながら蓮姫へ小さく耳打ちする。
「姉上…姉上の言った通り、この祭…あまりいい意味の祭ではないかもしれません」
「どういう事?残火」
「姉上は…勿忘草の花言葉を知っていますか?」
「え?……確か…そのまま『忘れないで』とかじゃなかった?」
「はい。青い勿忘草なら姉上の言う通り『私を忘れないで』。でも花は色ごとに、花言葉も違うんです」
「赤い薔薇なら『愛情』。黄色の薔薇なら『嫉妬』みたいな?それなら私も知ってるよ。詳しくはないけど」
「私も詳しくはないのですが…あの花は知っています。赤い勿忘草の花言葉は…」
『その犠牲を忘れるな』
『その犠牲は己の身に返ってくる』
残火から語られた花言葉は、確かに不穏なもの。
『コサゲ』という名の村に『御子様』の為の祭。
村と祭に欠かせない『犠牲』という花言葉の赤い勿忘草。
それらの言葉を繋ぎ合わせて連想されるもの。
それは………恐らく…。
「じゃあ二人とも、このエプロンつけてくれるかい?」
「っ!?は、はい」
考え事をしていた二人に、女性は満面の笑みでエプロンを手渡す。
蓮姫達は気づかなかったが、どうやら目的地についていたようだ。
そこは大きなキッチン……いや、この宿屋の厨房だろう。
「村や客の女達は、それぞれ夜に出すご飯を作る決まりなんだよ。あんた達には茶碗蒸しとおにぎりを作ってもらうね。茶碗蒸しの作り方わかるかい?」
「あ、はい。大丈夫です」
(茶碗蒸しなら、家庭科の調理実習で作った事あるし)
蓮姫はかつて習った茶碗蒸しの作り方を思い出す。
それほど複雑ではないし、レシピがあったので調理実習では成功した。
その後も自宅で両親に振る舞った事もある。
記憶を頼りに作れば、なんとかなるだろう。
「そうかい。数は……とりあえず50個は作ってもらいたいんだよ。あぁ、心配しないでおくれ。数は多いけど、器はあそこに並んでる白い小鉢だからね。小さいのでいいんだ。卵も他の材料もたくさんある。わかんなくなったら、いつでも聞いとくれよ!私は向こうで焼豚を作ってるからね!うちの宿特製で自慢の品さ!あんた達も夜に食べておくれ!」
女性は説明を終えると、蓮姫達とは離れた端のテーブルに行き、鼻歌をうたいながら漬け込み用のタレを作っていく。
「私達も始めようか。私は具材を切るから、残火は卵を割ってくれる?」
「はい姉上!お任せ下さい!」
腕まくりしながら頼む蓮姫に、残火は胸を張って答えた。
だが次の瞬間、残火は卵の入った籠を手元に引き寄せると、右手で拳を作り高く上げる。
もしや…と嫌な予感がする蓮姫。
「せいっ!」
残火はそのまま拳を、籠の中にある卵目掛けて振り下ろす………が、当たる直前に、蓮姫が素早く籠を自分の方へ引き寄せた。
「姉上?」
「ざ、残火?な、何してるの?」
「何って、姉上のお言葉通り卵を割ろうかと」
確かに、残火があのまま拳を叩き込んでいたら、卵は割れただろう。
しかし……籠の中は大惨事となる。
残火の奇行を目の当たりにした蓮姫は、残火に対してある疑惑が浮かんだ。
「ねぇ残火……料理って、したことある?」
「ありません。料理は私の仕事ではありませんし、里には料理担当の者が何人もいましたから。でも料理なんて、材料を切って、焼くなり煮るなり、揚げるなりすればいいだけですよね?それなら私にも出来ます」
「…あ、あはは。………そうきたか」
自信満々に胸を張って答える残火に、蓮姫の口からは乾いた笑いが漏れる。
残火は朱雀の中でも、頭領である火狼の次に偉い立場だ。
よく考えると、彼女もソフィアと同じでお嬢様のようなもの。
世話をする側ではなく、世話をされる側。
料理をした事がないのも頷ける。
しかし残火は、何故か料理に対する認識は甘いのに、自分への自信は高い。
こういう者には『一から徹底的に細かく教える』か『一切手伝わせないで見学させる』の二択が無難。
そして蓮姫は、残火や自分達の今後の事を考え、教える方を選んだ。
「わかった。残火には私のアシスタントをしてもらうね。いいかな?」
「はい!姉上!」
返事だけは一人前。
この場にユージーンや火狼がいたら、確実にそう言っていただろう。
蓮姫は籠から卵を1つ取り出すと、近くのボウルを引き寄せ、卵の割り方から残火に教える。
「卵はね、拳骨で割るんじゃなくて…」
コンコン……パカッ!
「こうやって割ると綺麗に割れるよ。やってみて。殻が入らないように気をつけてね」
「はい!では、卵を持って」
グシャ!
「「あ」」
意気揚々と卵を掴んだ残火だったが、握った力が強くそのまま潰してしまった。
(これは……本当に細かく、かつ丁寧に一個一個教えないと。…頑張ろう)
卵を握りしめたまま固まる残火を見て、蓮姫は心の中で決意した。
それからも蓮姫は丁寧に、それはもう本当に細かく説明しながら、残火と共に料理を作っていく。
残火の料理への無知には驚かされたが、蓮姫の説明もわかりやすいものだった。
そして残火も飲み込みは悪い方ではない。
何度か失敗もあり悪戦苦闘もしていたが、文句は言わず集中して行っていく。
蓮姫が簡単なものしか教えず、させてもいないが……そのおかげで、茶碗蒸しの元である卵液は完成。
具材も切り分け小鉢の底に入れてある。
そんな時、あの女性が二人の元へと様子を見に来た。
「どうだい調子は?」
「茶碗蒸しなら、あとは卵液を小鉢に分けて蒸すだけです。おにぎりはこれから取り掛かりますね」
「私と姉上にかかればこんなものです。ね、姉上」
「そうかい。それは良か………あぁ!私ったら米を炊くどころか、とぐのも忘れてたよ!?すまないが頼めるかい?えと…それは妹さんに頼むよ!五合といどくれ!」
「わかりました!」
女性は蓮姫と残火の会話から、二人を姉妹だと思っているらしい。
誰が聞いてもそう思うだろうし、正体がバレるより余程いいので、蓮姫もそれに関しては何も言わない。
が、元気よく返事をする残火に、蓮姫は不安が残る。
「すみませんが…妹はあまり料理をした事がなく…代わりに私が」
「事情はわかってるよ。少しだが、あんた達の話は聞こえてきたからね。でも米とぎくらい、誰だって出来るだろ?それに姉さんの方は料理出来るみたいだしね。茶碗蒸しはあと小鉢に分けるだけだし、火を使う時は私がやるさ!だから姉さん、あんたにはもう一品何か作ってもらいたいんだよ。こっち来ておくれ」
「え?で、でも」
簡単に頼む女性に蓮姫はどう説明するか悩む。
そんな蓮姫の心配など、まるで気づいていない残火は蓮姫に満面の笑みを見せた。
「大丈夫です!誰でも出来るなら私にも出来ます!あれですよね?米とぎって米を洗うんですよね?簡単簡単!お任せ下さい、姉上!」
実力とは真逆に、やる気と自信だけはある残火。
そんな残火を見て『やっぱり私が』とは言えず、蓮姫は残火を信じ託す事にした。
一応、米とぎの簡単な説明はしておく。
残火は蓮姫の言葉一言一言に、笑顔でウンウンと頷きながらもしっかりと聞いていた。
「最後に米をとぎ終わったら、水を目盛りまで入れて、釜をセットする。五合だから水は目盛りの5まで。大丈夫?」
「はい!しっかりと覚えました!大丈夫です!」
「説明は終わったかい?じゃあ姉さん、こっち来ておくれな」
残火への説明が終わると、女性と蓮姫は離れたテーブルへと向かう。
「姉さんは茶碗蒸し作った事あるんだったね。正直説明する手間が省けて良かったよ。あ、知ってるかい?茶碗蒸しで一番大事なのは『すが立たない』ようにする事さ」
「はい。教えてくれた先生も、同じ事を言っていました」
「そりゃいい先生だったんだね。そうだ。あと一品なんだけどね、野菜が結構余ってるから…」
何気なく交わされている二人の会話。
世間話のような、雑談のような、あまり意味は深くない会話。
しかし、残火はその言葉をしっかりと聞き、米を計り終わった手が止まる。
(す?…す、って……酢?姉上…卵を混ぜた時、酢なんて入れてなかったような?)
残火は卵液の入ったボウルを見つめて、しばし固める。
そして……一つの誤った結論へ至ってしまった。
(…ふふ。私の事あんなに心配してたのに、茶碗蒸しに一番大事な酢を入れ忘れるなんて。姉上も意外とうっかりさんなのね)
何故か残火は、あれ程丁寧に料理を教えていた蓮姫が、うっかりして忘れたと考えてしまった。
そしてテーブルには塩や砂糖、醤油と一緒に酢も置いてある。
おそらくあの女性が、調味料をまとめて置いておいたのだろう。
残火はなんの疑問も持たずに、お酢の瓶を取る。
開封してまだ日が浅いのか、瓶の中にはたっぷりとお酢が入っていた。
(量は……多分コレ1本でしょ。大事だって言ってたくらいだもん)
ちなみに卵液を作る時、蓮姫はちゃんと塩や醤油をスプーンで計って入れていた。
しかし残火は、目の前のお酢の瓶を見て『茶碗蒸しには一本必要 』だと思ったらしい。
残火も茶碗蒸しを食べた事は勿論ある。
酢の物だって食べた事がある。
が、その味がどのように作られているかは知らないし、想像したこともない。
そして…何故か、突飛な行動をする料理未経験者や料理下手な人間は、何処の世界にもいる。
残火もそのタイプの人間だった。
残火は迷うこと無く瓶の蓋を開けると、卵液の入ったボウルに、ほぼ一本分のお酢を全て入れてしまった。
(これで良し。ふふ。姉上のうっかりは私がカバーしたし、コレで茶碗蒸しは完璧ね。…でも姉上の顔を立てて、人前では言わない。後でこっそり教えて、褒めてもらおうっと。うふふふふ)
茶碗蒸しに酢は必要ないし、そもそも入れない。
仮に入れたとしても、一本はありえない。
それを説明出来る二人は残火から離れており、残火もまた蓮姫に恥をかかせたくない、という想いからワザと聞くのをやめた。
それだけではなく、つい先程まで残火の中の蓮姫像は『優しくて料理も出来る、教え方も上手なしっかり者』だった。
だが今は『大事な部分を伝え忘れる、うっかりさん』と変化している。
それでも蓮姫への気持ちが微塵も変わらないのは、残火が心から蓮姫を慕っているから。
そんな蓮姫と共に作り上げてきた茶碗蒸しの元を、完璧どころか全部台無しにしたとは思わず、残火はテーブルに備え付けてあるシンクで米とぎを再開しようとした。
米の入ったボウルに水を入れようとした瞬間…また突飛な発想が彼女の頭の中をよぎる。
「さて、米とぎの続き………米とぎって米を洗うのよね?だったら……洗剤入れた方が綺麗になるか」
米とぎとは米を洗うもの。
洗うのなら洗剤が不可欠…と思ったらしい。
残火はシンクに置いてある食器用洗剤に手を伸ばすと、これまた迷うことなく米に…それも水を入れる前に掛けてしまった。
(洗剤って確か……そのまま飲むと危ないのよね?じゃあ少し…これくらいでいいか?)
これくらい…と言いつつも、洗剤はグルッと円を描くようにして入った。
体に害のあるもの、という認識はあったようだが…もはや関係ない。
お酢も洗剤も…既に入れてしまったのだから。
自分の間違いなど全く気づかず、残火は機嫌よく米とぎ…米洗いをした。
やはり心配になった蓮姫が様子を見に来て、全てが明らかになり、蓮姫が言葉を失うまで…………あと数秒。