帝 6
乳母とは、読んで字のごとく実の母親に変わり、子供に母乳を与える女のこと。
しかし乳母の役目は授乳だけではない。
両親に代わりその子供の面倒を見て育てる…いわばベビーシッターの役割も持つ。
想造世界の歴史でも、高貴な身分の者は自ら子育てせず、他の者…つまり乳母…または乳人にそれを任せていた。
「乳母?つまり私に…帝のお子を育てろという事ですか?」
「そうだ。今の朕には多くの妃に加え、子も多くおる。だが生まれた子供は…どれもこれも美しくはない」
ため息を吐きながら落胆するように告げる帝。
しかしそれは妃のせいでも、生まれた子供のせいでもない。
高貴な身分であり、高価な物を身にまとう帝の容姿。
それはごくごく普通であり、ありふれた顔。
所詮『モブ顔』というものだ。
「朕は計画の為に美しい妃を迎えねばならぬ。美しい女からは美しい子が産まれよう。桐壺の更衣から光の君が生まれたように。その為のかぐや姫」
それこそ帝が、かぐや姫を望む本当の理由だった。
「かぐや姫が噂に違わぬ姫ならば、母として申し分ない。そして生まれた美しい子は、それに相応しく美しい心を持たねば。その子が神童となるに最も必要なのは、美しい容姿と美しい心なのだ。それが無くては光の君にはなれぬ」
「…帝は…何故そこまで光の君様を?先帝の寵愛を受けた桐壺の更衣と、そのお子である弟君。お恨みでは無いのですか?」
蓮姫の知る源氏物語では、桐壺の更衣と光の君は弘徽殿の女御…つまりこの帝の母に疎まれていた。
彼女の嫉妬が桐壺の更衣を死に追いやる程に。
「……確かに…朕の母は桐壺の更衣を酷く憎んでいた。その子である光の君もな。重臣達が『次の帝に相応しいは光の君』と密かに騒いでいたのは朕も知っておる。当然母もな。激しい憎悪に歪む母の顔は、子である朕が見ても凄まじいものであった」
嫉妬に狂う母親の顔を思い出したのか、それを語る帝の顔も悲しげに、苦しげに歪んでいく。
「それなのに…何故?」
「決まっておろう。あやつが…光の君が美しかったからだ。父が桐壺の更衣を寵愛したのも頷ける。父にとって桐壺の更衣がそうであったように…光の君は朕にとって、唯一無二の存在だったのだ」
今度は光の君の姿を脳内で蘇らせた帝。
その顔は瞬時に苦痛に満ちたものから、恍惚としたものへと変わっていった。
「今も脳裏に焼き付いておる。朕に駆け寄るあやつの美しい姿。『兄上』と呼ぶ美しい声。純真に朕を慕う美しい心。朕には、光の君が全てであった。あやつが生涯隣にいるなら、他には何も望まなかった。この帝の座すら、光の君にくれてやってよかった。…だと…いうに…」
感極まって涙ぐむ帝は言葉に詰まる。
まるでその先を口にするのも辛い、とでも言いたげに。
そんな帝の代わりに、それを口にしたのはかぐや姫だった。
「光の君様は…母君と共に流刑となった」
「っ、その通りだ醜女。あの時…朕がもっとあやつを庇っておれば…母を恐れず、自分の身を呈してでも光の君を庇えば…あやつは今も、朕の隣にいたであろう。…そなたを見て、真の美しい心とは何なのか?それを朕は思い知ったのだ」
帝は蓮姫を見つめて告げる。
蓮姫が残火を庇った行為。
それこそが美しい心の現れであると。
「だからこそ、朕にはそなたが必要なのだ。朕はそなたを使い、必ず光の君をこの手に取り戻す。安心せよ。そなたには、とびきりの褒美を与えてやるつもりだ」
「褒美…ですか?」
「そなたのことだ。金銀や玉、上等の絹などは要らぬだろう。そんなそなたにこそ、相応しい者を授けてやる。連れてくる故、しばし待っておれ 」
帝は楽しそうに笑みを浮かべると、蓮姫達を置いてこの場を後にした。
残された蓮姫とかぐや姫はお互い顔を見合わせる。
そして同時に「「はぁ~」」と深くため息をついた。
「さすがは帝よね。こっちの都合なんて関係無し。勝手に連れてきて、勝手に話して盛り上がって、勝手に仕事押し付けてさ」
「本当ですね。まぁ、権力者らしいといえば、そうなんですけど」
「良かった~。私、太ってて。あのまま美女に成長してたら、間違いなくブラコン帝の妃にさせられてたわ。いなくなった弟の代わりに息子を育てるとか…母親からしたらいい迷惑よ」
ムスッとした顔で文句を言うかぐや姫に、蓮姫はクスクスと笑みを零した。
そんな蓮姫の笑い声を聞き、かぐや姫は真面目な顔を蓮姫へと向ける。
「蓮。これからどうすんのよ?帝は信じてないけど…本物のかぐや姫は私。つまり帝の望みの美しい女は来ない。そうなれば、私達は腹いせに殺されるかも」
「そうですね。怒りに我を忘れた人間は、何をするかわかりませんし」
帝は蓮姫を必要と言った。
だが、かぐや姫が来ないのであれば蓮姫も必要ない、と切り捨てられる可能性も出てくる。
「呑気に言わないでよね!他人事じゃないんだから!二人でどうやって逃げるか考えないと!」
「かぐや姫……あのままだったら、かぐや姫は助かったんですよ。それなのに、どうして…」
苦笑混じりに告げた蓮姫の言葉。
その言葉にかぐや姫は、カッと顔全体を真っ赤に染めて言い放った。
「馬鹿なこと言わないでよ!友達が連れてかれるってのに、黙って見送るなんて出来る訳ないでしょ!」
「っ、…かぐや姫…」
「いい!絶対に二人で内裏から!あのブラコン帝から逃げてやるのよ!」
必死になり鼻息が荒くなるかぐや姫を見て、蓮姫は再び笑みを浮かべた。
蓮姫が残火の身代わりに内裏に行くと決まった時、かぐや姫は帝に臆する事なくこう告げたのだ。
『この方はかぐや姫様の大切な友人であり、客人です。帝。どうぞ私を、この方の女房としてお連れ下さい。お客人のお世話は私の仕事です。この方にお仕えしたいのです』
それは蓮姫を友と慕うゆえ。
彼女なりに蓮姫を守ろうという、強い意思が起こした行動だったのだ。
「…ありがとうございます。本当にかぐや姫は…素敵な女性ですね」
「い、今褒めたって、何も出ないわよ!そんな事より…どうやって逃げよう?」
心配そうに呟くかぐや姫。
帝が戻って来る前に、ここから逃げ出したいが…有効な逃げ道は思いつかない。
案内された道を戻ったところで、外に出る前に内裏の人間に見つかり、ここへと連れ戻されるだろう。
視線を向けた庭には高い塀があり、着物を着た女二人が飛び越えるのは不可能。
頭を悩ませるかぐや姫だったが、蓮姫は冷静に、そして安心させるような口調でかぐや姫に告げる。
「そこは大丈夫です。ジーン…私の従者のユージーンが助けに来ますから」
当然のように答える蓮姫。
不安も心配も一切感じさせない顔をする蓮姫に、かぐや姫は不思議そうに訪ねた。
「ユージーンって……あの一番顔が良い…むしろ顔だけいい男?なに?あいつ頭いいの?それか物凄く強いとか?」
「両方…ですね。彼に任せておけば何とかなります。なので私達は不用意に動かず、夜までここで待っていましょう」
ニコニコと自信を持って答える蓮姫に、かぐや姫の疑問はさらに深くなった。
「……蓮…なんでそこまで、あの男を信用してるのよ?」
かぐや姫には不思議で仕方ない。
ユージーンが蓮姫を主として敬い、大切に思っていたのは知っている。
蓮姫に嫌味を言った自分に、敵意を剥き出しにしたくらいだ。
そんな従者を信用するのは、主として当然かもしれない。
当然かもしれないが…それでもユージーンに絶対的な自信を持つ蓮姫の根拠が、かぐや姫にはわからなかった。
蓮姫はやはり笑顔を崩すことなく、かぐや姫へと説明する。
「彼だからですよ。勿論、他の従者も信用していますけど…彼は特にですね。ジーンなら必ず、何があっても助けに来てくれる。かぐや姫の事も。だから…何も心配してないんです、私」
「ふ~ん。……それが本当なら…今は凄くありがたいけど」
かぐや姫は蓮姫の、絶対的な自信の片鱗を垣間見た気がした。
強者を恐れず、危険を恐れず、自分の意志を通す蓮姫の姿。
そこには蓮姫の性格や意志の強さも当然あるが、その行動の原因にユージーンも少なからず関係しているのだと。
だからこそ…かぐや姫は蓮姫へ、自分の思う正直な言葉を投げかける。
「 ……でも、話聞いてると蓮。あんたって酷い主人ね」
「…え?」
呆れたように蓮姫を否定するかぐや姫。
言われた蓮姫本人も、言葉の意味を理解出来ずに固まる。
かぐや姫は蓮姫に構わず、自分の考えを一方的に話し始めた。
「『従者が必ず助けに来る』とか『従者を深く信頼してる』とか。言葉は綺麗だけど…それって結局、従者を利用して自分は好き勝手してる。ワガママを通してる。そうじゃない?」
かぐや姫の言葉にハッ!と息を呑む蓮姫。
その言葉はまさしく図星であり、蓮姫本人が否定出来ないものだったからだ。
「従者に助けてもらえるから、自分は危険に首を突っ込む。…なんて、従者からしたらいい迷惑よ。『信頼』なんて言葉は、言い訳にもならないわね。結果、苦労するのは主じゃなくて従者だもん」
「…かぐや姫の…言う通りですね」
「でしょ?いつか呆れられて、逃げられても知らないからね」
「あ、あはは…。ものすご~く…耳が痛いですね」
かぐや姫の言葉は正論として蓮姫に突き刺さる。
蓮姫も一応笑ってはいたが、段々と首は項垂れ、声にも力が入っていない。
今回の事も、自分が興味本位で首を突っ込んだ事が原因。
そして苦労するのは、いつもユージーン。
それは蓮姫とて理解していたが、第三者にハッキリ言われると、その事実は心に重くのしかかった。
蓮姫の落胆を目の当たりにしたかぐや姫は、今更だが慌てて蓮姫をフォローする。
「ちょっ、ちょっと!そんな落ち込まないでよ!ま、まぁ…あんたも良い主人だから…従者が助けたいって思うのかもしれないし?そもそも…今回の事は私が原因だし……って、あぁもう!言い過ぎたわよ!私が悪かったから落ち込まないでよー!」
必死に自分を励まそうとするかぐや姫に、蓮姫は心が暖かくなる。
先程の発言も、かぐや姫にとって悪気は無かったのだろう。
慌てふためくかぐや姫の姿を、蓮姫は苦笑して眺めていた。
(やっぱり…かぐや姫って良い人なんだよな…。それにさっきの言葉は…その通りだし)
ユージーンはいつも自分を助けてくれる。
それが蓮姫のヴァルであるユージーンの使命であり、そんな彼だからこそ蓮姫も彼を信頼している。
(信頼…それは甘えと同じ、か。ジーンはいつも私の心を優先させてくれるけど…今回の事は私が全面的に悪い。約束した直後だったし)
「れ、蓮。もしかして…怒ってる?」
「…いえ。怒ってはいませんよ。むしろ、ありがとうございます。気づかせてくれて」
恐る恐る尋ねるかぐや姫に、蓮姫は笑顔を向けた。
かぐや姫に感謝しているのは、蓮姫の本心だからだ。
「そ、そうなの?…まぁ…私にも言える事だけど…。お姫様だからって、何でもかんでも思い通りに出来ると思っちゃダメよね」
「そうですね。…前にもある人に、同じような事を言われたのに…私ってダメですね」
苦笑する蓮姫の脳裏には、かつて王都で蓮姫に対して常に冷たく、しかし正論を淡々と告げたある人物が浮かぶ。
このかぐや姫の想い人でもある、あの美しい将軍の姿が。
「いや…蓮がダメってわけじゃなくてさ」
再び蓮姫をフォローしようとするかぐや姫だが、その声に紛れて聞こえた足音を蓮姫は聞き逃さなかった。
「かぐや姫…どうやら帝が戻って来たみたいです。…それと…誰か一緒みたいですね」
「げっ!もう戻って来たの?一緒の奴は見張りとか?やっぱり夜まで待った方が良さそうね」
脱出計画を一旦保留にした蓮姫達は声を静めて、足音が聞こえる方へと目を向けた。
上機嫌に再びここへと足を踏み入れる帝。
だが、その後ろから現れた男に蓮姫はギョッ!とする。
蓮姫の知る彼の服装とは違い、それは大和の貴族達と同じ物だが、その男は間違いなく蓮姫の知る男だ。
(なんで…なんで今この人が大和に居るの!?)
その男は目を伏せていた為に、今はまだ蓮姫に気づいていない。
蓮姫が横目でかぐや姫をチラリと見ると、彼女の顔はタコのように真っ赤に染まっていた。
それがまた蓮姫の中で確信に繋がる。
やはり彼に間違いない、と。
驚く蓮姫や赤面するかぐや姫の反応に満足したのか、帝は口角を上げ意気揚々と蓮姫に告げる。
「待たせたな。そなたへの褒美を連れて参ったぞ。…久遠、そなたも挨拶せよ」
帝に促され、その男…久遠は一度頭を下げてからゆっくりと瞳を開けていく。
「お初にお目にかかる。私は杠 久遠。王都にて将軍の位を女王陛下より……」
挨拶の途中で久遠は蓮姫の姿をその目に映す。
すると彼の表情は一度固まり、段々と驚きのものへと変わっていった。
蓮姫は軽く首を振りながら必死に目で訴える。
『言わないで』『言ってはダメ』と。
固まっていた久遠だが、ハッとしたように帝へと問いかけた。
「帝!どういうことですか!?何故この方が大和に!?それも内裏にいるのです!?」
「なんだ?初対面ではないのか?それは良い。好都合…いや…むしろ運命ではないか」
慌てふためく久遠とは逆に、帝は楽しそうに笑っている。
恐らく帝には久遠の慌てぶりも、彼の言いたい事も何一つ伝わっていない。
「驚いたぞ。堅物のそなたに女人の知り合いがいたとはな。あの女房とは、どういう関係だ?」
「っ、…女房…ですと?」
再び視線を蓮姫へと向ける久遠。
帝の視線は久遠に向けられたままだったので、蓮姫は再度久遠へ首を振り、目で訴える。
今度は胸の前で腕をXにするジェスチャーを加えながら。
(お願いです!言わないで!バラさないで!お願い!)
必死に自分を見つめてジェスチャーを繰り返す蓮姫に、久遠はため息をつく。
(え?伝わった?大丈夫かな?)
心配な表情をする蓮姫に一度小さく頷くと、久遠は真剣な表情で帝へと向き直る。
「帝。この方がどなたか…ご存知無いのですか?」
「ん?竹取の翁の客人であろう?今日からこの内裏の女房となるがな」
「…どうやらご存知無いようですね。女房など、とんでもありません。この方は…恐れ多くも姫なのですから」
(伝わってなかったー!?)
アッサリと蓮姫の正体を帝にバラす久遠に、蓮姫は頭を抱える。
(ど、どうしよう!でもまだ姫としか言ってないし……もうっ!こうなったら!)
瞬時に次の行動を決めた蓮姫。
そんな隣で百面相をしながら、小さく動き回る蓮姫を、かぐや姫は変な物を見るような目で見つめていた。
「姫だと?この女は、どこぞの貴族の姫と申すのか?」
「いえ、そうではなく。この方は弐の」
「天馬将軍っ!!」
久遠が「弐の姫」と言い切る前に、蓮姫は久遠へと駆け出しその体に抱きついた。
「なっ!?き、君!一体何をしている!?」
「天馬将軍!お忘れですか!?ロゼリアで助けて頂いた蓮にございます!」
「はぁっ!?何を言ってるんだ!?弐の」
「嬉しい!またお会い出来るなんてっ!!」
慌てて蓮姫の体を引き離そうとする久遠だが、蓮姫は更にギュウギュウとその体を抱きしめる。
久遠がまた「弐の姫」と言い切る前に、しっかりと言葉を重ねるのも忘れずに。
「おやおや、なんとも激しいの。そなた達どういう関係なのだ?」
「実は私、ロゼリア貴族の姫にございます!以前ロゼリアで暴漢に襲われた時、それを助けて下さったのが天馬将軍でございました!壱の姫様の護衛としてロゼリアに来られた時の事です!覚えておりませんか!?」
「き、君!さっきから」
「その節は本当にありがとうございました!天馬将軍っ!!」
久遠が口を挟む隙が無いよう、早口で、そして大声でまくしたてる蓮姫。
それでも久遠は余計な事…むしろ真実を告げようと口を開く。
あまりにも空気が読めない久遠に、蓮姫は最後の手段…直接交渉へ出た。
グイッ!と久遠の胸ぐらを掴んで顔を引き寄せると、彼に囁く。
「いい加減空気を読んで、話を合わせて下さい」
「なっ!この俺に嘘を」
「シーッ!声が大きい」
蓮姫にたしなめられ、久遠は不機嫌そうにグッと口をつむぐ。
見慣れた久遠の表情を間近で見た蓮姫は、『この感じ懐かしいな』と少し場違いな事を思った。
「…何故俺が、君の茶番に付き合わねばならない」
「ここで正体をバラされるのは困ります」
「だから帝に嘘をつけと?君は相変わらず、自分の事しか考えていないようだ」
王都にいた頃と同じように、軽蔑をこめた眼差しを蓮姫に向ける久遠。
だが蓮姫は王都にいた頃とは違い、それに怯む事なく言い返した。
「私が『弐の姫』だとバレれば確実に騒ぎになります。将軍なら無用な騒ぎなんて起こす必要は無い。起こしたくない。 そう思いませんか」
王都に居た頃の蓮姫とは違い、自分に正論を告げる姿に久遠は息を呑む。
以前にも蓮姫は、カインを庇って久遠に意見した事はある。
だが、その時のような必死さは感じさせず、今の彼女の姿は堂々としたものだった。
「貴方が私を嫌っているのは知ってます。その上で頼んでいます。お願いします。協力して下さい」
強い意思のこもった黒い瞳を向けられ、久遠は困惑した。
(…弐の姫?…本当にこの方は…俺の知る弐の姫か?)
久遠は心の中で答えの出ない自問をする。
そして蓮姫の目を見つめ返すと、彼は答えを出した。