残火 4
冷たく響く声に、残火はユージーンに感じるモノとは別の寒気を感じた。
しかしそれも一瞬のこと。
火狼は直ぐにいつもの笑顔を浮かべると、残火から離れ翁へと話しかける。
「いや~、昨夜の飯も美味かったけど、朝飯も美味そうじゃん。ありがたくいただきま~す」
「ほっほ。客人に喜んで頂けて、わしも嬉しいですぞ火狼殿。さぁさ、お召し上がりください。おかずと味噌汁は少ないですが、米はたくさん用意しておりますぞ。味噌汁は熱いのでお気をつけ下され」
「マジで?俺、遠慮なく食べちゃうよ~」
「狼、少しは遠慮しなさい。すみません翁」
いつもの調子で話す火狼を窘める蓮姫。
和やかに会話をしながらお膳の前に座る2人の姿を見て、残火は顔を引き攣らせる。
先程が火狼の本音か…はたまた今のように蓮姫に笑顔を向ける火狼が本当か。
それは血縁である残火にすら分からない。
「あ、残火…様。そんなトコ突っ立ってないで早く朝飯食べましょうよ」
翁達の手前、火狼は残火を様付けで呼び手招きをする。
その仕草がかえって不気味に映った残火は、一番危険性の低い(と勝手に判断した)未月の隣に腰を下ろす。
残火が座ったのを合図に各々が手を合わせ朝食を食べ始めた。
蓮姫達が大人数の為、給仕役は梅吉だけではなく翁もこの場に留まっている。
蓮姫は行儀が悪いとは思いながらも、箸を進めながら翁へと問いかけた。
「そういえば翁、何か大和で変わった話や噂などはありませんか?」
「はて…特にはありませんな。反乱軍も今の帝の代になってから来ておりませんし。嬉しいことに、大和の噂はもっぱら姫の…かぐやの話で持ち切りですじゃ。しかし…何故そのような事を?」
「実は朝ご飯を食べたら、都に繰り出そうかと皆で話していたんです。なので、都はどんな様子か気になって」
「おや、そうでしたか。都も別段変わりはございませんな。変な事件もありませんし。大和の民全てが裕福に…とは言えませなんだが…それなりに平凡に暮らしておりますでの」
翁は髭を擦りながら蓮姫へと答える。
舘を出る前に一応、都の様子を確認しようとしたが、どうやら問題ないらしい。
「そうでしたか。教えて下さりありがとうございます」
蓮姫は満足気に味噌汁を一口飲む。
平安京に似た都はどんな様子だろうと、期待を膨らませながら。
しかし、次に翁から発せられた言葉が、高揚した蓮姫の気持ちを、どん底に突き落とす事になる。
「おぉ、そうじゃ。大和ではありませんが…女王陛下のおわす王都の噂を最近聞きましてな」
「王都の?どんな噂ですか?」
「哀れにも弐の姫の婚約者となってしまった方が、女王陛下に婚約破棄を願い出たそうで。この度、無事に弐の姫との婚約を解消されたと。いやはや、女王陛下も実に良い判断をなされた」
「っ!!?」
翁の発言に息を呑み、心音がドクンッ!と体中に鳴り響く蓮姫。
その拍子に持っていた茶碗と箸を落としてしまう。
盛大に味噌汁が服にかかったが、蓮姫自身はそんな事にすら気が回らない。
ただただ…翁の今の発言が脳内で繰り返される。
固まるだけの蓮姫とは逆に周りにいた者達は騒ぎ出した。
「うわぁ!?お、お姫様!?火傷してねぇですか!?」
「姫様っ!おい梅吉!さっさと何か拭くものを寄越せ!」
「ど、どうされたのじゃ?蓮様?」
「ひ、姫さん大丈夫!?」
「…母さん…なんで零した?」
それぞれが蓮姫を心配し、案じてくれる。
だがその言葉すら…今の蓮姫の耳には届いていない。
蓮姫を案じてなどいない残火の目からも、今の彼女が普通でない事は明らかだった。
梅吉から奪った手ぬぐいでユージーンが服を拭う中、蓮姫は翁を見据えてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「…翁。…弐の姫の婚約者は…婚約破棄を…陛下に願い出たんですか?…本当に?」
「れ、蓮様?どうなされた?」
「…っ、教えて下さいっ。知りたいんですっ!」
蓮姫の必死の形相に一瞬身を引く翁。
「し、知りたいと言われましても…わしが聞いたのは…あ、あくまで噂ですからな」
「姫様…落ち着いて下さい。翁が困っていますよ」
ユージーンがやんわりと宥めると、蓮姫はハッとしたように我へ帰る。
「す、すみません、翁。取り乱してしまって」
慌てて頭を下げる蓮姫に翁も困惑する。
「い、いや。わしは別に…しかし蓮様…本当にどうなされたのじゃ?」
「いえ…その…」
自分を気遣う翁に、蓮姫は感情のままに翁を問い詰めた事を深く後悔した。
そんな蓮姫の代わりにユージーンは、不自然にならぬよう嘘ではなく真実を伝える。
「弐の姫の婚約者…いえ、元婚約者様は姫様の知人でいらっしゃるのです。それで姫様はあのように」
「おぉ!そうでしたか!?知り合いの公達が弐の姫と婚約なされていたとは…なんと不運な。しかし安心なされ。見事、弐の姫との悪縁は断ち切られたようですからの」
翁は悪気など一欠片も無く、むしろ蓮姫を安心させるように優しく告げた。
残酷にも…その優しさが蓮姫を更に傷つけているとは知らずに。
「そ、そうですね。…噂とはいえ……良い事…ですから」
「実に実に。噂でしかありませなんだが、婚約破棄の件は恐らく事実でしょうな。心配なさるな、蓮様」
「んだ!弐の姫なんかに関わっちゃいけねぇ!不幸になっちまうだ!これでそのお方もお姫様も幸せになれる!良かったなぁ、お姫様!」
「は…はい。お二人共…ありがとう…ございます」
翁と梅吉に悪気が無いのはこの場にいる全員がわかっている。
正体を隠し嘘を重ねた蓮姫は、彼等に礼を言う事しか出来ない。
いや、それしか許されないのだ。
それでもユージーンと火狼は怒りを覚えずにいられない。
未月は蓮姫の様子がおかしい事を、ただ不思議に思っていた。
「…母さん…変な顔してる。…大丈夫か?」
「…大丈夫だよ未月。…ありがとう」
「いやはや、妹御の事といい蓮様は気苦労が耐えぬ方ですな。お優しい貴女様には酷でしょう。しかし弐の姫なんぞの事で、蓮様が心を砕く必要など」
「翁。先程の話に戻りますが、我々と姫様は都に出ようと思います」
翁が更に蓮姫を追い込む前にユージーンは話を逸らした。
翁も蓮姫からユージーンへと視線を移す。
「そうでしたな。皆様、遠慮などなさらず夕刻には舘にお戻り下さい。また夕餉を馳走致しますので」
「ありがとうございます。それで恐縮ですが頼みがあるのです。…我々や姫様の装いは少々目立ちますので簡単な…それこそ動きやすい着物を用意して下さいませんか?」
「お安い御用じゃ。何着か見繕って参りましょう」
「そうして下さると助かります。梅吉、君も翁を手伝ってくれ。給仕は俺達従者で事足りる」
それは厄介払い。
何も知らぬ翁達が、蓮姫をこれ以上追い詰めない為に早々と部屋から出そうというユージーンの策。
そしてそれは疑われず、彼等はユージーンの提案に納得して頷いた。
「んだ。御館様だけに、いっぺぇ荷物持たせる訳にゃいかねぇですから。おらも失礼しますだ」
「頼みますよ」
翁と梅吉は蓮姫に一礼すると、部屋を出ていく。
足音と気配が遠ざかり、彼等が離れたのを確認するとユージーンは静かに蓮姫へと問いかけた。
「姫様、本当に大丈夫ですか?」
「…大丈夫。ごめん皆、迷惑かけちゃって」
「迷惑なんて思ってね~よ。姫さん気にしすぎ。しっかし…あのお坊ちゃんが婚約破棄とはねぇ。玉華で見た時は姫さんにベタ惚れだったってのに…死にかけたから姫さんのこと怖くなったんかね?…あでっ!?」
呑気に語る火狼の頭にユージーンが拳骨を落とす。
「黙ってろ犬。てめぇまで無神経な事ぬかすな」
「殴る前に言って、っていつも言ってるじゃん!」
「そもそも殴られるような事言ってんじゃねぇよ。姫様、犬の戯言など気にする必要はありません」
「…ううん。むしろ…皆は今の話…どう思う?…正直に…聞かせて」
蓮姫は青い顔をしながらもユージーン達に尋ねる。
自分を映す黒い瞳が揺らいでいる事にユージーンは気づいた。
彼女の本心は…今の話を否定してほしいのだ、と。
きっと蓮姫本人も気づいていない。
そしてユージーンは…彼女の望み通りの答えではなく…彼女を再び傷つける言葉を選んだ。
「俺が思うに……婚約破棄は事実かと。そもそも姫の婚約は、姫を利用しようと企む為政者達から姫を守る為に、女王自らが公約したものです。仮に根も葉もない噂ならば女王が噂の根源を探し出して罰するでしょう。大和まで広がっているのなら…噂の信憑性は高いです」
蓮姫を見据えたまま淡々と答えるユージーン。
何の感情も宿さないユージーンの赤い瞳とは裏腹に、蓮姫の瞳は悲しみに染まる。
「……そう…なんだ」
「はい。ですから…姫様と公爵家の縁は、コレで完璧に絶たれたと考えた方が良いでしょう」
「ちょ、ちょっとちょっと!俺のこと殴っといて、旦那の方が姫さんに酷い事言ってない!?」
あまりに無感情に話すユージーンに我慢出来なくなったのか、火狼が声を上げて抗議する。
確かに彼の言い分にも一理ある。
実際、本当に殴られたばかりなのだから。
しかしユージーンは面倒そうな顔を火狼に向け、ため息混じりに答えた。
「お前の憶測と違って俺のは事実だ。それに…お前も感じてただろ。弐の姫とはいえ女王が関わっている案件。それに嘘の噂が流れて、女王が黙ってる訳無いってな」
「いや…まぁ…思いましたけども」
「それに俺の考えを知りたいと言ったのは姫様だ。今、適当な言葉で姫様を慰めてその場しのぎをする事は出来る。だがな…姫様はいつか王都に戻るんだ。変に期待を持たせて、その時に姫様が傷つくよりマシだろ」
「むむ…まぁ…一理あるっちゃ…ある…けどさ~」
ユージーンの言葉の意味は火狼だって理解出来る。
しかし理解は出来ても納得は出来ない。
一人うなり続ける火狼だがそんな彼を見て当の蓮姫は苦笑する。
「…いいよ、狼。…ジーンの言う通り…聞きたいって言ったのは…私なんだから」
「…姫さん」
「それに…婚約破棄されても仕方ない。レオやソフィを巻き込んだのは…他の誰でもない…私なんだから。私には…レオを責める資格どころか…落ち込む資格すら…無いんだよ」
「…母さん…泣くのか?」
「…ううん…泣かない。だって…私は大丈夫だから。ジーンも…ありがと」
眉を下げて寂しげに笑う蓮姫。
本当は泣きたいのだろうが、それを必死に我慢しているのだろう。
泣く資格も無い…きっとそう思って。
そんな蓮姫の姿に従者達は胸が締め付けられる。
ユージーンは怒りで。
火狼は哀れみで。
未月は心配で。
それぞれが違う感情を胸中に満たしていた。
あまりの空気の重さに、関係の無い残火まで気まずく感じ、手を止めている。
「ごめん、また変な空気になっちゃった。早くご飯食べて、皆で都に行こう」
そう言うと、蓮姫は再び箸を進めた。
火狼はそんな蓮姫を慰めようと口を開く。
しかし声を出す事は無く、直ぐに下を向くと蓮姫と同じように白米を口に運んだ。
ユージーンの言う通り…今は何を言っても、その場しのぎの慰めでしかないとわかったから。
同じように蓮姫に言葉をかけようとしたが、それを出来ない未月も漬物をポリポリとかじる。
未月は誰かを慰める言葉など知らない。
落ち込んでいる女性にかける言葉など、彼は何も思いつかないのだ。
あまりに静かな朝食風景。
気まずい残火はチラリと周りを見回した。
そしてユージーンの姿をとらえた瞬間、深く後悔する事になる。
残火の体は自己防衛の為か、はたまた現実逃避か、彼女は慌てて頭を下げ朝食を口へと押し込むとそれだけに集中した。
それまるで…見てはいけないものを見た恐怖を忘れるように。
残火が見たユージーンは…殺気こそ出してはいないが…今まさに誰かを殺しそうなほど、凶悪な顔つきをしていた。
(公爵家と姫様の縁が切れたなら…むしろ好都合だ。あのガキ…今度会ったら…容赦しねぇ。…姫様を傷付けた報い。必ず…受けさせてやる。…必ず)