①
文字通り玉華の地を飛び立って三日目。
蓮姫達は海を渡り、次の大陸の港町に滞在していた。
本来ならば船を使って約二日かかるところだが、天馬は半日でその海の上空を駆け抜け、蓮姫達は玉華を出発したその日の内に次の大陸へ辿り着いた。
ならば何故、港町に三日も滞在しているのかというと……。
「はい、姫様。今日の体温測定のお時間ですよ」
「……もう下がってる」
「知ってますか?それを確認する為に体温計があるんです。さぁ、さっさと入れて下さい」
ピシャリと言い放つユージーンの視線の先には、ベッドに横たわる蓮姫の姿。
蓮姫は頬を膨らませながらも、差し出された体温計を取り自分の腋にはさむ。
何故蓮姫がベッドに寝ているのか?
ユージーンが嫌味たっぷりに体温計を差し出すのか?
それは港町に着いた直後、蓮姫がとった行動が原因だった。
「まったく。海に落ちそうな子供を助けようとして逆に自分だけ落ちるとか…姫様はどうしてこう」
「すみませんでした」
ユージーンが言い切る前にブスっとした態度で謝る蓮姫。
三日前にこの港町へ着いた際、とりあえず今日はここに一泊しようと考えた蓮姫達は散策を兼ねて宿屋を探していた。
ちなみに天馬は借り物という事や街中では目立つという理由で、港町に着いた直後、早々に玉華へと蓮姫が帰した。
活気のある港町で出店を眺めている最中、はしゃぐ数人の子供が目に留まり蓮姫は微笑ましく思っていたが、その内の一人が繰り返し咳をしている事に気づく。
不思議に思う蓮姫だが子供達は構わず、楽しげに桟橋を走り回っている。
その直後だった。
咳をしていた少年がバランスを崩し海に落ちそうになったのは。
蓮姫は慌てて全速力で駆け出した。
が、少年は蓮姫が来るよりも先に駆けつけた大人に手を捕まれ、間一髪海に落ちる事はなかった。
しかし勢いついた蓮姫の体は慌てて止まろうとした事でかえってバランスを崩し、結局蓮姫は一人で海に落ちてしまった。
直後にユージーンに引っ張り上げられ大事には至らなかったが。
その後、心配して集まった人達の中に例の少年がおり、しかも近距離でクシャミを数発くらってしまうハメにもなった。
「やっぱりあの子…風邪気味だった?にしても……なんで私だけこんな目に」
「姫様が鈍臭いからじゃないですか?」
「…うるさいな」
「はいはい。そろそろ体温計渡して下さい」
「ん。……よし。37.3まで下がった。もう大丈夫」
体温計の数字に自信をもって話す蓮姫だが、ユージーンは体温計を受け取りその数字を確認すると意外な言葉を告げた。
「下がりましたね。でもダメです。せめて36度代になるまでは出発しません」
「37.3って微熱だけど?明日になればもっと下がってると思うけど?」
「はい。微熱です。微熱という事は熱が微妙に高いという事です。なので絶対に出発しません」
ニコリと微笑みながら話すユージーンだが、まとう空気は何処かどす黒い。
目が笑っていないその微笑みは、明らかに怒気を含んでいる。
「ジーン。なんでそんなに」
「怒ってるか、ですか?いえ別に怒ってないですよ。姫様がいつもいつも勝手に面倒事に足を突っ込む事にも、考え無しに突っ走る事にも、結果姫様自身に面倒が降り掛かっても…えぇ。怒るはずがありません」
「……めちゃくちゃ怒ってる」
「………はぁ。確かに怒ってますが…それ以上に心配もしています」
ユージーンは深くため息を吐くと、今度は苦笑しながら蓮姫の額に手を当てた。
確かに昨日と比べれば蓮姫の額は熱くはない。
赤く染まっていた頬も普段と変わらなくなっていた。
それでも蓮姫は不満気に頬をプクリと膨らませ、ユージーンを軽く睨む。
「風邪くらい想造力でなんとかなるのに…」
「ダメです。以前にも話したでしょう?怪我を魔力で治す事は簡単に出来ます。でも病気となるとそうはいきません。それがただの風邪だろうと多くの魔力を消費してしまう。それは想造力でも同じ。休めば治る風邪なんですから、この際しっかりと休んで下さい」
「私達の旅は先を急ぐんじゃなかった?」
蓮姫は三日前、玉華のはずれの森でユージーンが蒼牙の部下に言った言葉を思い出す。
確かに彼はあの時『姫様の旅は先を急ぐもの』と告げていた。
「あれはさっさとあの人を追っ払う方便ですよ。こんな時しか姫様は休んだりしないんです。この際です。養生して下さい。ちなみに嫌だと駄々をこねても俺は一切折れません。えぇ、一切ね」
ニッコリと微笑みながら有無を言わせぬユージーンの言葉。
こうなれば彼が折れる事は絶対にない。
それは蓮姫が一番よく知っている。
「…………わかった。でも明日になって熱が下がったら出発する」
「はい。そうして下さい」
やっと諦めた蓮姫にユージーンは先程までとは違う笑みを浮かべて、満足気に頷いた。
ちょうどその時、外出していた火狼達が部屋へと戻ってきた。
「たっだいま~!今帰ったぜ。姫さん、調子どうよ?」
「うにゃんっ!」
「…ただいま…母さん」
「おかえり、皆」
「姫様、起きなくていいです。休んでて下さい」
起き上がろうとした蓮姫をユージーンが制して、布団に寝かせ直す。
火狼はノアールを抱えたまま蓮姫のベッドへと近づき、その顔を軽く眺めた。
「そうそう。姫さん無理しなくていいぜ。でも顔色良くなったな~。熱下がったん?」
「一応下がってはいるが、まだ微熱がある。出発は明日以降だな」
「なんで旦那が答えるの?…ん?姫さんどうしたよ?ほっぺた膨らませちゃって」
「姫様のそれは気にしなくていい。…で……街の様子はどうだ?刺客や裏の情報は?」
「おっと、そうだな。先ずはご報告ってね」
火狼達が外出していた理由。
それはこの港街での情報収集だった。
何か変わった事は無いか?
反乱軍は近くにいないか?
弍の姫はこの港街、そしてこの大陸でどのように伝わっているのか?
弍の姫を狙う刺客や賞金稼ぎはいないか?
「特に変わった事は無し。平和な港街だったぜ。姫さんの噂は……まぁ良いもんねぇけど今までと同じ。反乱軍もいねぇし刺客もいねぇ。小さなギルドがあったから顔出してみたけど、どうやらこの大陸に姫さんの賞金話はまだ来てないみたいだな」
「確かだろうな?」
「嘘言ってどうするよ。本当の本当。とりあえずこの港街は安全そのもの。姫さんが休むにはうってつけだったね」
「そっか。狼、ありがとう」
「どういたしまして、姫さん」
「うにゃんっ!」
ユージーンとは違い自分を労る蓮姫に、火狼も二カッと笑顔で答える。
火狼の腕の中で大人しくしていたノアールも嬉しそうに鳴くと、ベッドへと飛び移り蓮姫へと擦り寄った。
「ノアもお疲れ様」
「なぁなぁ。なんで猫まで外出組だったん?」
「ノアが側にいれば姫様は無駄に構おうとする。無駄にな。ノアがいれば黙って休む事もしない。だからとりあえず出てもらった」
それは蓮姫にもノアールにも失礼な言い草だ。
が、恐らくその通りだった自分が予想出来た為、蓮姫はイラつく気持ちを抑え黙っていた。
ちなみにノアールも不服ではあったが、ユージーンの命令の為大人しく従った。
「………母さん」
「どうしたの?未月」
ふいに今まで黙っていた未月がボソリと呟く。
その表情は変わらず無表情だが、まとう空気が何処か暗い。
蓮姫の目には彼が落ち込んでいるようにも見えた。
「……母さん」
「未月?本当にどうしたの?何処か痛い?怪我した?」
心配する蓮姫だが、その言葉に未月の眉は段々と下がっていく。
未月はゆっくりと蓮姫へと近づくと小さな声で尋ねた。
「……母さん………死ぬのか?」
その言葉に蓮姫をはじめ、この場にいる全員が目を丸くする。
ノアールもその発言には驚いているようだ。
「へっ?」
「おい未月。縁起でもない事言うな」
「いやいや。ただの風邪だろ?熱も下がってきてるし、こんなんじゃ姫さん死なねぇって」
未月の言葉に三者三葉の返しをする三人。
蓮姫に至ってはむしろ混乱している。
「……母さん…死なない?」
「死なないよ。狼も言ってたけど熱も下がってるし、体も何ともないよ」
「……本当?」
「うん。明日には…むしろ今も元気だよ」
布団から両腕を出し寝たままガッツポーズをする蓮姫の姿に、未月の口元は小さく緩む。
「……そうか。…良かった」
「心配してくれたんだね。私は本当に大丈夫だよ。ありがとう未月」
「……ありがとう?…なんで…礼を言う?」
「それは…未月が優しいから、かな」
「…やっぱり母さん…わからない。…でも…死なないなら…良かった」
微笑ましい光景が流れる中でユージーンは一人、別の事を考えていた。
(優しいんじゃなくて『姫様を守る任務』が無くなるんじゃないか、っていう不安だろうな。任務だけに執着してたし。まぁ、この機に乗じて姫様を攻撃する素振りどころか、不用意に近づく事もしなかった。そんな考えも無さそうだし。こいつは元反乱軍だが………一応、姫様を守るっていう点だけは…信用出来るか)
「しかし……今回の事はいい経験でしたね。俺はともかく、姫様もこいつらも風邪やら何やらにかかる可能性はある。常備薬を少しでもこの街で調達しておきましょう。お前ら、ちょっと買ってこい」
「え?俺らが行くの?」
ユージーンの提案は今後の事を考えて正しいものだが、買い出しに行くのが自分達だと聞き火狼は自分を指さし驚く。
「それに玉華で元帥達の戦いぶりを見て思ったが、やっぱり俺達も得物あった方が良いだろう。武器も調達してこい」
「それも俺らなの!?」
「俺も武器の善し悪しは最低限わかるが、最近の物となると勝手が違う。金を払ってもそれが定価なのか、ぼったくりなのか判断が難しい。なんせ800年前から外に出てなかったからな。その点お前は世界中に流通する武器に詳しいだろ?朱雀の頭領」
「いや…確かに詳しいし、値切れる自信もあるけどさ……俺ら今帰って来たばっかりだぜ?」
ユージーンの言葉に納得がいかない火狼は、両手を頭の後ろに組みながら唇を尖らせる。
散々街を歩き回って今やっと帰って来たのだ。
行くにしても、もう少し休んでから行きたいと思うのは当然だろう。
そんな火狼の態度にユージーンは、やれやれと深くため息を吐く。
「仕方ない」
「お?わかってくれた?」
「俺に叩き出されるのと、自分から出るのと、どっちがいいか選ばせてやる」
「行ってきまーす!」
笑顔でとんでもない提案をするユージーンに、火狼は手を挙げて元気よく答えた。
蓮姫もだが火狼もユージーンをよく理解している。
今の発言はほぼ本気だという事がわかるほどに。
「最初からそう言え」
「酷くない!?…んじゃ~行ってくるけど…何が良いわけ?剣?斧?槍?弓?」
「俺は基本なんでも使えるが……まぁ普通に剣にするか。お前はどうだ?未月」
「俺も……なんでも使える」
「そうか。なら一番得意なのはなんだ?」
「…一番得意……弓」
「へぇ~、お前弓が得意なん?あれ?でも玉華じゃ剣使ってたよな?弓も矢も持ってなかったし」
玉華で蓮姫を襲った時も今も、未月は弓矢を持ってすらいない。
腰に一振り剣を差してはいるが、得意なのはその剣ではなく弓という言葉に火狼は疑問を持つ。
「なんか訳あり?」
「首領には…剣を使え…そう言われた」
「何故だ?」
「剣も…俺が他の奴より…強かったから。…それに…死を恐れず前線で戦う者は…剣を使えって…言われた」
「あ~……真っ先に先陣切って標的を殺せって意味なんね。な~るへそ」
未月の…いや、かつての彼の首領の言葉の意味を理解し火狼はウンウンと納得する。
それはユージーンも同じで、ならばと未月に再度問いかけた。
「未月、魔法の矢【マジック・アロー】は使えるな?」
「うん。…三本同時に出せる」
未月の言葉に今度は蓮姫が驚いた。
「マジックアローって……確か魔力で作った弓矢…だったよね?え?未月は一度に三本も矢が出せるの?」
この世界には数多くの魔術が存在する。
魔法の矢【マジック・アロー】はその中でも、初級魔術の一つ。
攻撃系の魔術の中では比較的簡単で、その上魔力の消費も少ないものだ。
「……うん。…本当は…もっと出せる。…でも…三本以上は…持ちづらくて…撃ちにくい」
「それもそうね~。あ!そんなら矢だけ出す事も出来んだろ?じゃあ弓だけでいいな!その方が魔力の消費抑えられるし!俺は何にしようかね~」
「剣にはするなよ。俺とかぶる」
「いいじゃん別に~。お揃いとか仲良しみたいでさ~」
「……そろそろ本気で叩き出すぞ」
「よし!じゃあ行こうかな!…と、姫さん、猫はどうするよ?」
ノアールは既にベッドの枕元で丸くなっており、蓮姫がその背を撫でていた。
ノアールは火狼の声に反応すると、布団の中へと顔だけ出して潜り込む。
そしてウルウルとした目でユージーンを見つめた。
「行きたくない、姫様の側に居たい…か。仕方ない。姫様の熱も下がってきてるし…留守番でいいぞ、ノア」
「にゃっ!」
「良かったね、ノア」
蓮姫がギュッと抱きしめてやると、ノアールも嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らした。
「あ、お前らはさっさと行け。無駄遣いするなよ」
ユージーンは火狼に札束を投げ渡すと、シッシッと手を払った。
火狼は口元がピクピク痙攣するのを感じながら、未月を促し大人しく言われた通り買い物へと出掛ける。