玉華の長い夜・始まり 1
日が沈み、夜の帳に包まれた玉華。
街の外れにある森で、女は息を切らし、必死の形相で走っていた。
「はぁっ、はぁっ……はぁっ!…くっ…桃花っ!桃花ぁっ!!」
彼女の悲痛な叫びは森に響く。
だがその叫びは誰に聞かれる事も無い。
それでも彼女は叫び続けた。
娘の名を。
「はぁっ、はぁっ、たす…助けてっ……桃花をっ!娘を、あの子を助けてぇ!」
彼女はひたすらに、ある人物に助けを乞いながら街へと全力で走り続けた。
【領主の館】
「………はぁ…」
淡い月明かりに照らされる本館の回廊。
その手すりに寄りかかり、蓮姫はため息をこぼす。
今のいままで、彼女は彩一族と婚約者達と共に夕食の宴に参加していた。
だが、一言も口をきかぬ領主に、暗い顔をしている領主の父とその妻。
そしてそれに構わず楽しげに話す少女とそれを嗜める自分の婚約者。
従者達は分をわきまえ、共に食事はせず黙って後ろに佇むのみ。
蓮姫はあまりの居心地の悪さに『少し外の空気を吸いたい』と足早に席を外した。
本当はわかっている。
逃げているだけ、ということに。
気まずくしたのは他ならぬ自分自身が原因なのだ、と。
自分が一人で勝手に疎外感を感じているだけだ、と。
「……なんで領主様に…あんなこと……あんな無神経なこと……言っちゃったんだろう…」
自分に問いかけた言葉が、更に自分の気持ちを暗く、重くする。
もしあの時、領主である大牙が『弟の病状を診てほしい』と望んだ時に余計な事を言わなければ……病で倒れているという噂の次期当主を想造力で治す事が出来れば……彩一族の雰囲気はもっと柔らかいものだっただろう。
だが蓮姫が憂いているのは、彩一族のことだけではない。
自分の心情や変化を知らずに無邪気な少女、そしてその少女の従兄弟であり自分の婚約者。
蓮姫にはじゃれ合うようにしか見えない二人の姿が、自分が邪魔者としか思えないようにさせた。
本当はそんなことはない。
仲睦まじい二人のじゃれ合いが脳裏に浮かぶと、それは別の場面に上塗りされる。
階段の前に立つソフィアの姿に。
「……私…どうしてソフィに……あんな…あんなっ!」
語尾を荒らげながら蓮姫は自分の両腕を握りしめた。
少し前に…自分が妹のように可愛く思っていた少女を階段から突き落とそうとした。
ユージーンのおかげで未遂に済んだが……彼が来なければ…。
「っ!!」
自分が想像した最悪の事態に、蓮姫の全身から血の気が引いていく。
カタカタと小刻みに震える体を抑える蓮姫。
そんな彼女に近づく影が一つ。
震える体を抑えることに必死な蓮姫は気づかない。
いや、以前の彼女ならばともかく今の彼女ならば、どちらにしろ気づかなかったのかもしれない。
幸運にもその影の主は、蓮姫に敵意を持つ人物ではなかった。
「弐の姫様」
「っ!?……ぁ…」
自分にかけられた声に蓮姫は飛び跳ねるように驚くが、振り向いた先に立つ人物を見て小さく彼の名を呼ぶ。
「……蒼牙…さん」
「急に声をおかけして、驚かせてしまったようですな。ご無礼をお許し下さい」
蒼牙こと飛龍元帥は苦笑いしながら深く頭を下げる。
そんな彼の仕草に蓮姫は慌てたように両手を振りながら答えた。
「そ、そんな!私が勝手にびっくりしただけです!頭を上げてください!むしろ!………むしろ…謝らなきゃいけないの…私です」
段々と声を小さくし、頭を下げる蓮姫。
そんな彼女の姿を見て蒼牙も頭を上げた。
「何をおっしゃいますか、弐の姫様。妻から全て聞きました。我が民をお救い下さったのだ、と。弐の姫様が頭を下げる事など何も無いのです。私は…いえ、俺は当主として、この玉華の者として、弐の姫様には感謝しかございません」
眉を少し下げながらも、蓮姫を安心させるようにゆっくりと優しく声をかける蒼牙。
かつて蓮姫が望んだように『私』ではなく『俺』という素の自分を出す言葉を使いながら。
蓮姫はそんな彼の様子から、蒼牙の父としての姿を感じていた。
「でも……蒼牙さんや小夜さん…領主様が一番治してほしい人を…私は治せていません」
「一番治してほしいとは…もしや銀牙…末の息子のことですか?」
蒼牙に問われ、蓮姫はただコクリと小さく頷く。
病魔に侵され苦しんでいる息子を救えず、他人ばかり救ったのだ。
蒼牙が親として蓮姫の対応に、不平等だ、贔屓だ、と感じても、罵られても仕方ない。
そう蓮姫は思っていた。
だが、蓮姫はわかっている。
自分の知るこの蒼牙という男は、自分を責めたりしない、ということを。
「そのような事、お気になさいますな。我が民を救って下さった。それだけで玉華を治める我が一族には充分です。息子も……次期当主として弐の姫様に感謝しておりましょう。」
蓮姫の予想通り、蒼牙は彼女を責めなかった。
わかっていたことだ。
わかっていて自分は蒼牙に聞いた。
その事実に蓮姫は自分を恥じる。
「私は…ずるいですね」
「……ずるい、ですか?俺にはそう思えませんが…もし本当に弐の姫様がずるい方であったとしても、御自身のずるさがわかる聡い人は…それだけ他人の気持ちにも聡い。私はそう思います」
蓮姫の呟きに微笑みながら答える蒼牙。
その言葉に蓮姫は苦笑を浮かべる。
「やっぱり私はずるいです。…それに……蒼牙さんも」
「おや?ははっ!これは一本取られましたな!」
豪快に笑う蒼牙に、蓮姫の笑も段々と柔らかいものへと変わっていく。
蓮姫の気持ちを、不安を感じていた蒼牙は彼女がこれ以上自分を追い詰めないような言葉を告げた。
それだけ蒼牙も他人の気持ちに聡く、また蓮姫もそれに気づいていた。
蒼牙は責めない。
問い詰めることも自分の理想を蓮姫に押し付けることもしない。
ただ今の蓮姫を受け止め、雑談を交わす。
たったそれだけ。
それだけのことが、今の蓮姫の気持ちを穏やかにした。
「ふふっ。蒼牙さん、ありがとうございます」
「いえ、俺は何もしておりません。ですが…弐の姫様の御心が、少しでも軽くなられたのならば身に余る光栄です」
「とっても軽くなりましたよ」
笑みを浮かべながら告げる蓮姫からは、先程までの憂いはもう見られなかった。
自分が罪を犯そうとした、ソフィアを階段から突き落とそうとした事実は変わらない。
だからこそ、出来ることもある。
同じ事を繰り返さない、ということが。
王都での過ちを繰り返さないと誓ったように。
「俺で良ければいつでも話のお相手になりましょう。以前のように黒天に乗って頂いても」
「え!黒天もいるんですか?」
「はい。王都から俺は黒天に乗って参りましたので、裏の馬舎におります。今日はもう遅いので難しいですが、弐の姫様さえ良ければいつでも」
「嬉しいです。一度天馬で飛んでみたくて。…そういえば、蒼牙さんに故郷の話を聞いたのも黒天に乗っていた時でしたね」
「そうでしたな。故郷のこと、次男坊の事を軽く話させて頂きました」
そう言うと、蒼牙も回廊の手すりに肘をつき遠くを見つめる。
実は蓮姫も玉華に来てから気になっていた。
蒼牙が以前言っていた息子とはどういう人なのだろう?と。
しかし蓮姫達は玉華に来てから、大牙に敷地内にある別館に軟禁され勝手に出歩く事も許されなかった。
実際に会えた彩一族は、目の前の蒼牙以外には蒼牙の妻である小夜と、その二人の長男にして玉華領主の大牙のみ。
大牙が弐の姫と一族に、無用な接触をさせないようにしていたのはわかっていた。
意図的に会わせてもらえないのは仕方ないが、蒼牙から話を聞いたこともあり一度その次男坊に挨拶くらいはしたかった。
そんな蓮姫の気持ちにまたしても気づいた蒼牙。
ゆっくりと顔を蓮姫の方へと向き直し、語り出す。
「弐の姫様。俺には三人の息子がおります。長男の大牙。末息子の銀牙。そしてもう一人」
「私と同じ歳だっていう二番目の息子さんですね」
「はい。名は星牙。見目は私や大牙よりも妻に似ており小柄な男です。ですが、彩家の武人として日々修行に励んでいる。そう聞いております」
王都にいた頃と同じように、家族への慈しみを込めて語る蒼牙。
だが今の言葉に蓮姫は何処か引っかかるようなものを覚えた。
聞いている、とは普段王都にいる蒼牙が家族の様子を直接見ることが出来ないからだろう。
それでも何処か違和感を感じた蓮姫。
「星牙…くんとは、まだ会っていないんですか?」
「実は星牙は玉華に…いえ、この大陸にはおりません。かつて俺を鍛えた師匠の元におります」
「この大陸にはいないって……そんな遠くにいるんですか?」
「はい。前回会ったのは一年ほど前になります。今回の銀牙のこと、そして玉華で起こっている件は既に手紙で知らせている…と妻は申しておりましたが……玉華に着くにはまだ数日かかるでしょう」
そう言って再び空を見上げる蒼牙。
蓮姫はやっと遠くを見つめる意味と先程の言葉の意味を理解した。
「会いたい…ですよね。心配ですよね」
「ははっ!心配などしておりません。あやつは一族の誰よりも剣術に優れておりました。師匠に預かって頂いたのもそのためです。もっと強く優れた武人となるように、と。それが星牙の…息子の望みでもありましたからな」
豪快に笑い、誇らしげに語る蒼牙の姿に、蓮姫も微笑む。
「なんだか……まだ会ってないけど、星牙くんのことがわかったような気がします」
蓮姫も蒼牙に習うように空を見上げながら呟く。
「見た目は小夜さんに似てるかもしれないけど、きっと中身は蒼牙さんにそっくりで、優しくて強い人なんでしょうね。やっぱり…一度ちゃんと会ってみたいです」
振り向きそう語る蓮姫の姿が、蒼牙の目には別の女性の姿と重なる。
『次男はそなたに、一番良く似ていると聞いたぞ。そなたの息子達……会ってみたいものじゃ』
自分との逢瀬の際に、女王麗華はそう告げた。
「………………陛…下?」
「ん?蒼牙さん、何か言いました?」
「あ、いや……何でもございません」
笑いながら誤魔化す蒼牙だが、その脳裏にはしっかりと麗華の姿が残っていた。
(なぜ陛下の姿が?……いや、陛下と同じような事を弐の姫様がおっしゃられたからだろう。しかし…)
「蒼牙さん」
「っ!?は、はい。どうなさいましたか?」
「そろそろ戻った方がいいですよね?」
蓮姫が宴を退席してから、三十分近くたっている。
そろそろユージーンなり、大牙なり、レオナルドなり……現在蓮姫の頭痛の種になっている男の誰かが迎えに来てもおかしくない。
蓮姫の提案に乗り、二人は宴の行われる広間へと足を向けた。
気が重そうに歩く蓮姫の後ろ姿を見つめながら、蒼牙は心の中で自分へと問いかけた。
(弐の姫様と陛下……お二人は全く似ていない…。それでも…何処か通じるモノがある。それも………壱の姫様には感じない何かを…)