婚約者 3
「いや、構わない。俺の方こそすまないな。いつもいつも蓮姫の好きな物の情報を貰って」
「他でもない、お兄様とお姉様の為ですもの。………お兄様……子供の頃の約束、覚えていますか?」
「……昨日の事のようにな」
「絶対に!叶えて頂きますからね!!では、お兄様。ご機嫌よう」
レオナルドの答えに満足げにニコリと笑うと、ソフィアは優雅な足取りで部屋を出ていった。
ソフィアが去った後、レオナルドは仕事に戻ろうとしたが、先程のソフィアの話を思い出すと部屋を出て婚約者の元へと足を向けた。
「まったく……あの方は学ぶ気があるのか…」
レオナルドが蓮姫の自室の前へ来ると、部屋から彼女につけた教師がブツブツ文句を言いながら出て来た。
「ご苦労。蓮姫はどうした?」
「こ、これはレオナルド様!?弐の姫様でしたら……」
男はチラリと部屋の中へ視線を向けた。
同じようにレオナルドが部屋を覗くと、机に突っ伏して寝ている蓮姫の姿があった。
家庭教師はため息をつくと、嫌味ったらしくレオナルドに告げる。
「本日は世界歴学の授業を2時からだと伝えていたはずなのに、3時に帝王学の教科書を持って来られました。あの方は記憶力が乏しいのか、これが初めてではありません。それに授業が始まれば居眠りなど……さすがは弐の姫様です。開いた口が塞がらないとは、このことかと」
「………はぁ。お前はもう下がれ。後は俺が引き受ける」
一方的に告げると、男の返事も待たずに、レオナルドは部屋に入り扉を閉めた
「……毎日これだけの量だ……それも別の世界の慣れない環境の中で…。……疲れないはずがないな」
蓮姫に近づき机に積み上げられた大量の本、散乱する用紙を見渡す。
彼女自身が望んだことではないというのに、周りは勝手に期待を押し付けて、期待通りにいかなければ勝手に悪態つきながら幻滅する。
それでも彼女は文句も言わず……いや、本心は言いたくて仕方がないかもしれないが……我慢してよくやってくれている。
レオナルドはそっと蓮姫の傍に椅子を引き腰掛けると、散乱している問題用紙の中から彼女の解答を見つけて丸付けをしていった。
一時間後。
「……ん………」
「起きたか?」
自分を見る男を、寝ぼけ眼で見返す蓮姫。
その男が自分の婚約者だとわかると、ガバッと上体を起こした。
パサリと肩に掛けてあったレオナルドの上着が落ちる音に、蓮姫は床とレオナルドをブンブンと交互に見る。
「えっ!?レオ!?あれ?上着?あれ?先生は!?え?なんでレオが落ちて上着が座って?」
「………落ち着け」
もはや言ってる事も意味不明の蓮姫。
レオナルドは、そんな蓮姫を可愛いと思いながらも表情に出す事なく、淡々と説明する。
「教師役ならお前が寝てから帰った。暇だったからお前の解答を見たが、間違いだらけだ。コレは以前も解いた問題だぞ。女王となる身なら同じ間違いを繰り返すな」
「あ、うん。ごめん。でも、なんでレオがここに?」
「ソフィアに言われた。たまには婚約者と過ごせと」
(またソフィア…)
蓮姫は心の中で何度目かわからないツッコミを入れる。
別にソフィアが嫌いなわけじゃない。
むしろ蓮姫はソフィアを、気に入っている。
蓮姫が気に入らないのはレオナルドの方だ。
政略的に決められた婚約では、甘い関係など望めないのはわかっている。
しかし将来結婚する相手なら、少しでも好かれたい、仲良くしたい、思うのは我儘ではないはずだ。
自分を好きでもなく、他に結婚を約束した相手がいるのなら、正直婚約解消してもらいたい…………が、女王の勅命だからそれも出来ない。
ふと床に落ちた上着が目に入り、蓮姫は拾い上げてレオナルドに尋ねた。
「これ……レオの?」
「あぁ。少し身震いしていたからな。寒ければそのまま着てていい」
「…………ありがと」
「………礼を言われる程じゃない」
レオナルドは赤くなった顔を見られないように、そっぽを向いてボソリと呟いた。
珍しく照れているらしい婚約者を見て、蓮姫も自然と笑顔になる。
本当に、ごくたまにだが、こんなふうに優しい面もある婚約者を蓮姫は嫌いにもなれなかった。
気を取り直すようにレオナルドは咳払いをすると、再び蓮姫の方へ顔を向ける。
初めて会った時よりも少し痩せた。
化粧で誤魔化してはいるが、目の下には薄っすらと隈もある。
邸に来てからの疲労は確実に溜まっているようだった。
「蓮姫……明日は休め」
「え?いきなりどうしたの?」
「倒れられては困る。姫たる者、体調管理くらいしっかりすることだ」
もっと他に、いくらでも言い方があっただろうが、レオナルドは素っ気なく答えた。
もしここにソフィアが居たら、激高して喚いていただろう。
「……あ…うん。わかった。……あのさ…それならレオも休みにしない?」
「悪いが明日は外せない用事がある」
勇気を出して婚約者を誘ってみようとしたが、予想通り玉砕してしまった。
「そ、そっか。忙しいもんね」
「次期公爵が暇な訳無いだろう」
「…………そうだね。…ねぇ、私の事はいいから、仕事に戻って」
「…だが」
「大丈夫。この後は刺繍の授業だけらしくて。今日の予定はそれでもう終わりだし、明日は言われた通り休むから」
まくし立てるように話す蓮姫を見ると、レオナルドは大きく息を吐いた。
本当はこのまま、一緒に食事を摂るつもりだったが、婚約者に気を使われて蔑ろにするのも失礼だ。
彼女を気遣ってやるつもりだったのに、逆に気を使われてどうする、と自分に呆れてしまう。
「わかった。では失礼する」
「うん。………じゃあね」
パタン
蓮姫の部屋を出て少し歩くと、急に立ち止まり、レオナルドは困ったように前髪をクシャリと握りしめた。
彼女を喜ばせたいのに……本音を言えば、もっと一緒に居たいのに、なかなか上手く行かない。
「……またソフィアに相談するか」
そう呟くとレオナルドは執務室へと戻って行った。
返し忘れた上着を届けようと、蓮姫が扉の前で立っていたことも……
離れた位置だった為に、蓮姫が『ソフィア』という単語しか聞いていないことも知らずに。