朱雀と呼ばれる男 5
「っ、……ハァッ!」
蓮姫はガバッ!と上体を起こした。
ハァハァ、と肩で大きく息をして、なんとか呼吸を整えようとする。
「ハァ…ハァ……い、今のは…夢?」
蓮姫はギュッと胸元を片手で握り締める。
夢の余韻か、身体は小刻みに震えていた。
「……また……あいつの夢……っ!」
蓮姫は胸元を握っていない方の手で拳を作ると、ダンッ!!と地面に打ち付けた。
「なんで…いつも…あいつの……あんな……奴のっ!」
蓮姫がこの悪夢を見たのは初めてではない。
王都を出てから……いや、ユリウスに助けられた時から連日、蓮姫の夢にはあの忌まわしい男…蘇芳が現れていた。
今日のはまだいい方だ。
以前にユージーンも言っていたように、悪夢にうなされて、寝ながら泣き叫ぶ日もある。
どれだけ蘇芳から離れようとも、蓮姫が忘れたくとも、蘇芳は常に、蓮姫の心の中に住み着いている。
蓮姫は大きく息を整えると、自分が落ちてきた崖の上を見上げた。
先程化け物と対峙した時のような恐怖や嫌悪感、気配は感じない。
どうやらあの化け物はこの近くにも、崖の上にもいないらしい。
ふと彼女は、自分の身体にほとんど傷がない事に気づいた。
「あの高さから落ちたのに?なんで………っ、ノアッ!?」
蓮姫は辺りを見回すと、自分と一緒に落ちたノアールを探す。
だが探すまでもなくノアールは蓮姫のそばにうずくまっていた。
その姿は、いつもの仔猫の大きさに戻っている。
蓮姫は駆け寄るとノアールの身体を抱き起こした。
その瞳は固く閉じられ、あちこちに傷がついているが、身体は呼吸する度に小さく動いている。
「………良かった。生きてる…ノア…私を庇ってくれたの?」
蓮姫が言葉をかけるも、ノアールは小さく息をするだけ。
蓮姫はすぐに想造力を発動させると、ノアールの傷を瞬く間に治す。
ノアールの傷が全て塞がり、呼吸も安定したのを確認すると、一安心したようにホッと息をついた。
「これで大丈夫。守ってくれてありがとう、ノア」
蓮姫はノアールを撫でてやると、崖を見上げる。
崖はかなり高く、上の様子はここからはよく見えない。
蓮姫が無事だったのは、ノアールが戦闘能力、回避能力の高いサタナガットだったからだろう。
それにしても、再びこの崖を登るのは難しいと思える。
「どうしよう……」
崖から落ちた事もそうだが、蓮姫は元々女性の悲鳴を追いかけてがむしゃらにノアールを走らせて来た。
つまり、この深い森の中…現在地はわからない。
ユージーンと共にいた時は、森の中の小さな街道を歩いていたし彼も出口の方を(なんとなくだが)把握していた。
「どうしよう。………てか、ジーン追い掛けて来ないとか…マジで飛び蹴りくらわせたい」
自業自得、勝手に自分が怒りだし彼から離れたというのに、蓮姫の額には青筋が浮かんだ。
ガサガサ
一人で苛々している蓮姫の耳に、草を掻き分ける音が響く。
「ジーン?」
蓮姫は自分のヴァルが追い掛けて来たのだろうと、彼の名を呼んだ。
しかし現れたのは
別の男。
「ざ~んねん。旦那じゃないんだなぁ。姫さん、見~つけた」
語尾にハートが付きそうなほど、馴れ馴れしく蓮姫に声をかけてきたのは
あの朱雀の青年だった。
「っ!?しつこいっ!」
「え、第一声ソレ?もっと女の子らしく『キャー!助けてー!!』とか言わねぇ?普通」
「普通じゃなくて結構です。そんな事より、ジーンはどうしたの?」
「旦那なら俺が倒したぜ」
青年はニヤリと意地悪く笑みを浮かべて告げた。
だが蓮姫はハァ、とため息をつくとジト…と青年へと声をかける。
「さっきから思ってたけど、随分緊張感無いんだね。私が女らしくないなら貴方は全然刺客らしくない。こんな時まで冗談とか」
「酷いねぇ。つかさ、なんで冗談だと思うわけ?旦那は確かに死なねぇけど、動きを封じたりは出来るって姫さんだって知ってんだろ?」
「そんなの決まってるでしょ?ジーンだから。ジーンは負けたりしない。足止めをくらっても、貴方をみすみす私に近寄らせるような事はしないもの」
蓮姫の迷いない発言に青年はキョトンとしたが、直ぐにニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべ直した。
「へぇ~~~。滅茶苦茶信頼してんじゃん。ちょっと妬けんね。ま、姫さんの真面目な発言に俺もちゃんと返してやるさ。旦那は直ぐに姫さんを追っかけてたんだけど、俺が先に着いたって事はどっかで道間違ったんかね?」
「あんにゃろ……回し蹴りも追加してやる」
「……俺が言う事じゃねぇけど…やり過ぎじゃね…?」
蓮姫のすわった目を見て、流石の暗殺者もユージーンに同情してしまった。
和んだ会話をしている二人に見えるが、内心蓮姫は焦っている。
自分には一流の暗殺者と戦う力量などは無いし、つい今ノアールに使った回復の想造力のせいで結界を張ろうにも上手く想造力を発動出来ないでいた。
集中しようにも気持ちばかりが焦ってしまう。
まだ想造力に慣れていない蓮姫には、少しの焦りや疲労でも想造力発動の邪魔となるからだ。
そんな蓮姫の様子に、朱雀の青年はとうに気づいている。
「………ぅ……ぅにゃ…」
そんな中、ノアールは小さくひと鳴きした。
目が覚めたのかと思ったが、どうやら違うらしい。
それでも……蓮姫の意識は一瞬、ノアールへと向かう。
一流の暗殺ギルド…朱雀の長を務める男がその隙を見逃すはずは無かった。
瞬く間に蓮姫へと駆け寄る。
蓮姫もそれに気づき逃げようとしたが、慌ててしまい後ろへと倒れ込んでしまった。
「キャアッ!」
「な~んだ。ちゃんと可愛い声出せんじゃん、姫さん」
青年は倒れた蓮姫の上に馬乗りになる。
ノアールはその衝撃で蓮姫の手から離れ、少し離れた場所へと飛ばされてしまった。
「ノアッ!?」
「サタナガットはお寝んね中。旦那はいない。これってかなり俺にとって美味しい状況じゃね?」
ノアールを心配して声をかける蓮姫に、青年はニヤニヤと笑いながら告げる。
蓮姫はキッ!と青年を睨みつけ、殴ろうとしたが、直ぐにその両腕は地面へと押し付けられた。
乗られている為に蓮姫お得意の蹴りもうまく出せない。
「そんな睨まないでくれっかな?俺だってホントは姫さんみたいないい女、殺したくなんかないんだぜ。出来る事なら違う出会い……例えば何処ぞの酒場やら娼館なら、俺ガチで姫さん口説いてたと思うし」
「やめてよ。刺客にそんな事言われても全っ然嬉しくない」
「だろうね~。姫さんって男に媚びたりしないタイプっぽいもんな。そんなとこが尚更いいんだけど…俺もお仕事だからさ、許してよ」
「許せるかっ!」
「アハハッ!だよな~。………あ、でもさ…俺って今マウントポジションとってんじゃん?しかもうるさい部下もいねぇし旦那もいねぇ。んで、俺の真下には麗しいお姫さん」
青年は今までとは違う笑みを浮かべる。
その顔を見て、蓮姫はゾワッと全身に鳥肌がたつのを感じた。
青年の目は暗殺者の目ではなく
蘇芳と同じ…男の目をしていた。
「あれ~~?怯えてんだ?可愛いとこあるじゃん。まぁ……姫さんのお察しの通り…どうせ殺すなら、その前にいい思いしても罰はあたんねぇよな」
そう言って顔を近づけてくる男に、蓮姫は全身で恐怖を感じる。
つい先程まで見ていた蘇芳の悪夢のせいで、あの時受けた行為が蓮姫の脳裏に、鮮明にフラッシュバックした。
全身をガタガタと大きく震わせ、瞳からは涙が溢れ、歯はガチガチと音をたてる。
流石の青年も蓮姫の異常さに気づいた。
「ひ、姫さん?そんな怖が」
「いやぁあああぁぁああ!!」
蓮姫はバタバタと青年の下で暴れ出す。
その瞳は恐怖に染まり、自分を襲おうとしている男の姿すら映ってはいない。
「いやぁああぁ!誰かっ!誰かぁ!!」
「ちょ!?ひ、姫さん!?怯え過ぎ…って、痛っ!」
全力で暴れる蓮姫の腕が、足が、青年の身体にバシバシとあたる。
あまりの蓮姫の怯えぶりに、青年も『冗談!冗談だって!』『ちょっ!?何もしねぇってば!』と弁解するも、そんな声は彼女には聞こえていない。
「いやぁあ!!助けてっ!助けてぇ!ユリウスっ!チェーザレぇ!!」
「ちょっと姫さん!?いい加減落ち着」
ドゴッ!!
青年がなんとか蓮姫を宥めようとしていると、彼の顔に勢い良く飛び蹴りが突っ込まれた。
その衝撃に青年は吹っ飛ばされ、木にぶつかる。
そのまま青年は木ごと倒れてしまった。
「俺の姫様に気安く触んじゃねぇよ。この糞野郎が。てめぇにぶら下がってる粗末なモン、畜生の餌にすんぞ。……さて」
青年を蹴飛ばした人物は、蓮姫を抱き起こすと、その背を撫でてやりながら優しく声をかけた。
「助けてっ!ユリウスっ!チェーザレっ!助けてぇ!!」
「大丈夫ですよ、姫様。俺が姫様をお守りすると言ったでしょう。大丈夫です、姫様。大丈夫」
蓮姫を助けた人物……ユージーンは子供をあやすように、何度も優しく蓮姫に語りかけた。
その声、口調は、朱雀の青年に向けたような汚らしく怒気を含んだモノとは全く別。
深い慈愛すら感じる程に優しいものだった。
同じ人物とは思えない程に。
「…はぁ……はぁ……ジーン…?」
「はい。お待たせしました、姫様」
「……お………遅すぎ…」
「えぇ。それは本当に申し訳ありませんでした。でも姫様だって悪いですよ。俺を放ってどっか行っちゃうし、やっと姫様の元にたどり着いたと思ったら忌み子の名前なんて呼ぶし」
「…………ユリウスと…チェーザレ?」
「……無意識だったんですか?それとも…覚えていません?」
「刺客に…襲われそうになって……そしたら…あいつがっ!あいつが頭の中にっ!!」
蓮姫は再びパニックをおこしかけ、荒く呼吸をしながら震え出す。
ユージーンはそんな蓮姫をきつく抱きしめた。
「姫様。あの男はここにはいません。居たら居たで俺が瞬殺します。姫様には指一本触れさせない。姫様の瞳にすら映させません」
「……ジーン……ジーン…っ!」
「大丈夫です。安心して下さい。何度も言ってるでしょう?姫様は俺が守ると」
「…ぅん。……ありがと…ジーン」
「どういたしまして。そう思うのなら…次からは真っ先に俺の名を呼んで下さい」
ユージーンはクスリと笑いながら、片手を蓮姫の頭へと移動させ、優しく撫でた。