1.リベルフィリア 4
「ねぇ、ユジィ? 僕は、君に外出命令を出した覚えはないんだけれど」
(外出許可と言わないあたり、流石に徹底している………)
翌日、昨日とは一変して穏やかな授業をしていたその最中に、
フリードリヒは唐突にその話題を持ち出した。戦々恐々としていたユジィは、
思わずペンを取り落しそうになる。
「申し訳ありません。お叱りを覚悟の上で外出しました」
ユジィがそう答えると、
隣の来訪者が気でも違ったのではないかというような顔でこちらを見てくる。
叱責を受けている者に関わるのは命取りなので、無意識の衝動だろう。
(不思議だわ。希望がなくなったら、怖さもなくなってしまった)
元々図太いのはさておき、希望も失ってしまうと、恐怖すら欠落してしまうのだろうか。
(ううん、寧ろ…………この世界に現実感がなくなってしまったみたい)
自分が落とされたことで関わった悲劇の糸口を他人事にするつもりはない。
振り返った足跡に多少なりとも血が滲んでいることを、決して忘れるつもりはなかった。
けれど、ここが見知らぬ世界ならば、この苦痛はどこか凄惨な悪夢にも似ている。
「へぇ、……一晩で随分と礼儀知らずの生徒になったものだね。
ユジィ、僕は君に教え直さなければいけない感情がありそうだ」
虚を突かれたのか壇上で一拍の間無言になってから、
天使みたいに微笑むフリードリヒは、空腹の猫のように舌舐めずりしている。
(これはもう、退屈を紛らわせてあげていることで、感謝されてもいいくらいなのでは………)
場違いだとわかってはいるけれど、
麻痺したままの脳内では、そんな生意気なことまで考える。
ある意味腹が据わったのだなと自分で納得していたら、左目に衝撃が走った。
「…………っ!」
思わず片手で押さえれば、とろりと生暖かい液体が頬を伝う。
手のひらの感触から、瞼の上から斬り付けられたのだと悟った。
フリードリヒはまだ壇上にいたが、その手にはいつの間にか鞭のようなものがある。
しなやかなのに、鉱石みたいな質感が不思議だ。
「みんなも授業の息抜きがしたいだろう?来訪者の組織構造を見せてあげるよ」
暗に生きながら解体をするという提案に、抑えきれずに上がった幾つかの悲鳴を、
今日ばかりはフリードリヒも許すらしい。
(………………どうしよう、もうあんまり痛くない)
そんな中で、ユジィは自分の身体の変化の方が恐ろしかった。
乗り換えの為の運賃にしたものを思い出して、心の底からぞっとする。
(願い事が叶わなかったから?)
まだ挽回の機会はあるかもしれないのに、
運命もそう結論付けたのかと思うと、選択の理不尽さに涙が出そうになる。
若干の反骨心も込めて、顔を歪ませて唇を噛んだユジィを何と見たのか、
フリードリヒは小さく笑って手招きをした。
「さぁ、ユジィ、先生の手が届くところまで歩いておいで。まだ半分見えるよねぇ?」
(与えられるのが苦痛だけなら、彼はそこまで残酷な人外者ではないのかも)
昨晩の邂逅を思って、そう考えた。
微笑みと穏やかな言葉一つで心をずたずたにする高位のものの無尽蔵さに比べれば、
フリードリヒの鋭さは人間的な理解の範疇とも言える。
これで痛ければ感想も違ってくるが、もうさほど痛くもないのだ。
「そうですね、半分あれば大丈夫そうです」
自分の答えに教壇の人外者の顔色が変化したことに気付いて、
ユジィは内心首を捻る。何か間違ったことを言っただろうか。
(もう心の加減に、そこまで影響が出ているということ?)
「………………歩くだけなら、他にもいらないものがありそうだねぇ」
だから、そうフリードリヒが微笑んだときに、少しほっとした。
(早く終われば、心が欠け落ちる自分を意識しないで済むかしら)
心が失われるのは恐ろしいけれど、そちら側に身を投げ出せばとても快適なのだとも思う。
その欲求に、あとどれだけ耐えられるだろう?
「フリードリヒ」
柔らかな声が割り込んだのは、その時だった。
「王?!」
フリードリヒは目の中だけで焦りを収めて、
優雅に一礼すると手に持った鞭のようなものを巻き取り、王の目から遠ざける。
書架の部屋にふらりと訪れたのは、この区画には立ち入ることのないリベルフィリアの王だった。
人外者特有のこの世のもの離れした美貌と精神圧に、
数人の来訪者が耐えられず、表情を欠落させてずるりと椅子に崩れ落ちた。
アレックス・ローグ・アグライア、または、アグライア公。
リベルフィリアという祝祭の季節の国の総王であり、
城内以外に住民を持たないアグライア領を統治する者でもある。
最も古く、最も多くの祝祭を抱える芳醇なアール(魔術)の王。
(片目で見ても、物凄く綺麗だ)
今日は舞踏会の夜ではないからか、飾り気のない黒一色の装いをしている。
それでもここに名だたる画家がいれば、命と引き換えにしてでも彼を描くだろう。
(高位の人外者は、神様そのものだもの。
……でも、どんなに綺麗でも私のアレックスじゃないんだった)
そんな生き物が、首を垂れた部下に不可解な言葉を告げている。
「それを壊すのは待ってくれないか。私達にとって、異端さは稀少だからね」
「お言葉ですが王、これは最下位席の石炭にも満たない屑来訪者ですよ」
フリードリヒの声には、自分の遊びを中断された子供の不満と、
最敬の主を諌める冷徹さが混同している。
彼等のそういうアンバランスが、ユジィはなぜか好きだった。
「そうなのか。でもそれを拾い上げるのも面白そうだ」
「と、仰られますと、エレノアの侍女にでも?」
この城にいる最高位の嗜好品の名前に、王は心外そうに微笑んだ。
「まさか。私の石炭にするよ」
「………………アグライア公?」
今度こそ、フリードリヒは表情を崩して絶句する。
(フリードリヒのあんな顔、初めて見た。……………悔しいけれど、可愛いな!)
思わずその表情に見入っていたら、ふわりと視界で漆黒のケープが揺れた。
いつの間に移動したのか、目の前に彼が立っている。
片目なので距離感が掴めないけれど、手を上げればすぐにでも触れられる近さだ。
逆光になっても、人外者の瞳の色は損なわれない。
「規則を軽んじておいて、瞳を欠いたくらいで済んで良かったね」
一瞬皮肉かと思ったが、心からそう言っているのだとすぐにわかった。
(ああ、このひとは違う生き物。私は、ただの目を惹いただけの玩具なんだわ)
今は心が足りなくて冷静だから、そんな残酷さも事実として把握出来る。
人違いなら、酷薄さも気にならない。何しろ他人なのだから。
大事なクリスマスの王様に関わらないところでは、ユジィは極度の事勿れ主義だ。
何しろ、物語を剥ぎ取られた、あの書の国育ちなのだし。
「ふうん、あまり痛くはなさそうだね」
遠慮なく覗き込まれ、優しげな愉快さの中に、ひやりとする観察と興味が見え隠れする。
「……ええ。願い事が欠けると、心や痛覚が殆ど無くなるそうなので」
「おや、石炭来訪者にもそんな仕様があったかな?」
「私は自らの意志で来訪者になって、乗り換えの際に対価を支払ってしまっているので。
同じような来訪者は、ここにはいないんですか?」
「ふむ。という事は、彼女は“武器”なのかい?フリードリヒ」
「…………特徴である感情の喪失も、特殊なアールの確認も出来ていませんね。
そうだとしたら、僕は把握しておりませんでした」
視線で問われたフリードリヒが渋々答え、アレックスが小さく頷く。
(…………みんなは、きちんと望まれて呼び落とされてきた来訪者で、
自分で乗り込んできたのなんて、私くらいしかいないんだろうか?)
「もし君が武器だとして、なぜ理外れのアールを使わないんだろう?」
武器とは来訪者の亜生である。
大きな要求に莫大な対価を支払い、危うい賭けをする者。
その罪深さに本来の世界から転げ落ちる者。
顛末として来訪者という肩書きにはなるが、
己の意思で来訪者になった彼らは、願いを叶えられず、
運命との賭けに負けると心と痛覚を失い武器に成る。
特殊なアールを持ち、まさに武器として重宝されるのだが、
残念なことにユジィにはその才すらもないらしい。
(理を外れた力。そんなものがあれば、リアナフレスカだって……)
高価希少とされる武器の特性は、世界の乗り換えをしてしまった副作用なのだろうが、
不公平なことにユジィにはその副作用的恩恵すら与えられていない。
最初からそんなものがあれば、石炭部屋にはいないではないか。
「…………使えなかったので使いませんでした」
「今は使えるかい?武器に成りかけているのなら条件も変わっただろう?」
そう言われてじっと掌を凝視してみたが、特に何かの兆しも気配もない。
一瞬は期待した様子のフリードリヒがすぐに生ぬるい眼差しになる。
否定したのにもう一度公開処刑にされた体のユジィ本人は、謂れのない非難に遠い目になる。
「武器が武器でないなら一層に価値がない。武器に成るように調教してみますか?」
部下のどこか辟易とした様子に、アレックスはいや、と笑う。
「武器でない武器とは珍しい。珍しいものなら、少しは楽しめるかもしれないね」
「私は、あなたの石炭になるんですか?」
(………………あれ?)
ふと、目の前の綺麗な人の目に、微かな失望を見た気がした。
「そうだ。だからその目は、少し見苦しい」
伸ばされた指先が、手の甲の一点に触れた。
血で汚れた手の上から瞼に触れる感覚に、ユジィは驚いて目を瞠る。
「…………っく!!」
傷が消える刹那、激しい疼痛に声を上げると、
傷付いてなかった方の目からもぼろぼろと涙が溢れた。体を折り曲げて何とかその痛みを逃す。
「痛くないのではなかったのかい?」
心底不思議そうに訊かれて、激痛の名残に背中を丸めたままユジィは呻く。
「あなたは、人違いでも私の願い事に近いんです!運命の裁定がいい加減なのか、
不用意に触れられると、欠落が戻ってしまうみたいで、」
過ぎる痛みはとても不愉快なものだ。
つい、心からの恨みがましさが出てしまって、言ってからぞっとして慌てて顔を上げた。
このひとは、ユジィを庇護したアレックスではないのだ。
(あれ?また怖さも戻ってる?)
「ああ、表情に色が戻った」
視線の先で、美貌の王様が満足そうに笑う。
(なんて、残酷な微笑みなんだろう)
あまりにも暗くて、目が眩みそうな程に美しい。
「………………あなたは違うひとなのに」
「そうだね。だからこそ、私を不愉快がるお前を所有するのは、よい暇潰しになりそうだ」
「私はただそれだけで、あなたの興を惹くような特別さはありませんよ?」
怖くて、綺麗で、人違いだから腹が立つ。
ユジィがそう言ったのに、なぜか彼は声を上げて笑った。
フリードリヒが益々人間みたいな驚愕の表情を浮かべる。
ユジィが幸運に救い上げられたようにも見える筈なのに、
教室の他の来訪者達はみんな息を殺して震えている、そんな笑い声だ。
「いいね、お前は面白いよ。私の石炭になりなさい、ユージィニア」
怖い王様が喉を鳴らして楽しそうに笑っているその下では、
窓から幾筋かの光が床に散らばって、さっきまで滴らせていた血痕を赤々と艶めかせていた。
何千何万の書の壁の複雑な色合いと、書庫に施されたレリーフの美しさ。
(運命でさえ誤認してしまうのかしら?こんなにそっくりなのに)
あの指先だけの触れ合いでも、戻った感情はまだ消えないらしい。
手放せたら怖くないものを戻されて、ユジィは、触れられた場所を猛烈に擦り洗いたくなった。
美しさに目を奪われるのは、相手が高位の人外者だから仕方ない。
おまけに彼は、ユジィが一目惚れしたクリスマスの王様にそっくりなのだ。
(だけど、本物でないのなら、それだけの理由で私はあなたが嫌い)
フリードリヒですら憎みはしなかったのに、
目の前で笑うその姿に、心から不愉快だと思った。
怒りを溜めこまないと、涙を落としてしまいそうで怖かった。
彼がそこにいるということはただそれだけで、大好きな人にはもう会えないということなのだ。
「おいで、私の石炭」
「…………はい。え?!」
それでも声に溢れる力には逆らえなくて、
仕方なく差し出された手を取ろうとしたら視界が回った。
小さな声を上げると、耳元で微笑む気配がある。
片手で子供みたいに抱き上げられたのだとわかって、驚きと羞恥心で倒れそうになる。
(さっきから、何なの?!痛みで堪えないなら、羞恥心で殺す作戦ですか?!)
「アレックス!」
つい詰ってしまった声に、アレックスが目を瞠った、ほんの一瞬。
睫毛の影まで見える距離で、揺れたのは不可解な輝き。
「…………ああ、本当にお前は面白い」
それが、乗り換えに失敗したユジィが、この世界の所有物になった日のことだった