1.リベルフィリア 3
その声は、撫でるように甘いのに力に溢れていて、ひやりと背筋が冷たくなる。
嫌々振り向いた先にいたのは、夜を人の形に留めたような美しい人だ。
穏やかな微笑みの暗さに目が眩み、良くないものだと本能的に悟る。
それとも、あまりにも綺麗だとそれは拒絶にも似て、その美しさが残酷に映るのだろうか。
「ふうん、来訪者か」
コートも羽織れない身分と、凍えないアールを持たない脆弱さから判断したのだろう。
ユジィが答えるより前に、男はそう言ってひっそりと微笑む。
微笑みというものがここまで鋭利にもなるとは知らなかった。
(フリードリヒの微笑みは最初から残忍だけど、この人の微笑みは優しいのにどうして?)
恐ろしさに声が絡まって、返答は情けないものになった。
「は、はい。来訪者です」
(あれ?………………!)
そこでようやく人外者の美貌と精神圧に目が慣れて、彼の持つ色彩をきちんと認識した。
今度は縮こまっていた胸が高鳴り、息が止まりそうになる。
「今夜ばかりは檻から出してもいいのだったかな」
「………いいえ、勝手に出ました。…………探し物を、」
「それは正当化される理由ではないね、君は来訪者なのだから」
滲むような煌めきのある菫色の瞳は、あまりの透明感に身を切る程に鮮やかだ。
柔らかなウェーブを描く襟足より少し長めの黒髪には芳醇な色が宿り、
白い首筋の妙に艶かしい色香の暗さにまた、ぞくりとする。
「その通りですね、ごめんなさい」
「謝罪は指導官にしなさい。罰を選ぶのも、私ではない」
長衣は滑らかな漆黒の毛皮で、揺れる度に色味を変えて鴉羽のよう。
豪奢なドレープのケープ、気の遠くなるくらいに繊細な刺繍がある飾り帯には、
黒水晶から黒曜石、ブラックダイヤの輝きがチリリと鳴る。
何から何まで、震えるほどに凄艶で美しい。
(でもこの人は、見知らぬ人のように微笑むんだ)
その不可解さに不安になって、彼の目を覗き込んだけれど、
見えたのは変わらない見知らぬひとの表情だった。
(私が誰だかわからないの?成長してしまったから、見た目が変わったとか?)
名前を呼ぼうとして、なぜだか急にその名前を呼ぶべき場所を間違えてはいけないような、
奇妙な危機感に囚われる。
探し人に会いたいのは、借り物があるからだ。
だからユジィは、危険を冒してまでこの国に戻ってきた。
気を急いて戻し先を間違えるわけにはいかない。
「…………あの、私のことを覚えていませんか?」
慎重に問いかけると、男は少し驚いたようだ。
綺麗な目を瞠って、僅かな沈黙を選ぶ。
彼がそんな表情を浮かべるのは稀少なことだと、言われなくてもわかった。
「私が、君を?」
声に混ざるのは侮蔑だろうか。
意味など差し置いて聞き惚れそうになって、ユジィは何とか意識を立て直した。
「ずっと前のことだけど、私を呼び置いて庇護してくれた人は、あなたではないの?」
「嗜好品でもない君を?」
心が削り取られる答えに、びくりと震える。
嫌な予感が足元から這い上がってきて、喉元を強く締め上げた。
(どういうこと?)
「そのひとに、あなたはとても良く似ているんです」
「お前は来訪者だろう。来訪者が来訪者になることに、己の意志はないと聞いていたけれど?
意思なく収容された場所で知人を探すのは、いささか無理があるような気がするね」
どうやら身に覚えがない相手は、ユジィの言葉が外出の言い訳か、
権力者に擦り寄る口実に聞こえたようだった。
「私は、きちんと手順を踏んで、自分で選びました」
よりにもよって彼にそう言われたのが心外で、
少しむっとしたのが可笑しかったのか、彼は艶然と微笑んだ。
あまりの精神圧に声が出なくなったユジィに手を伸ばして、悪戯に髪に絡んだ花びらを取り上げる。
「違うよ」
残酷な言葉。
それを、わざと言い含める優しさで告げる。
「私が君を庇護した?まさか」
(そんな、違うの?…………同じ声に、同じ容姿をしているのに?)
だからさっき、あの名前を呼んではいけないような気がしたのだろうか?
ふと、嫌な可能性に思い至って、ユジィは蒼白になった。
(………そうだ。物語の幾つかに、良く似た別の世界があるって書かれたものがあった)
書の国の利点を生かして、ユジィは意図的に来訪者としてここに戻る手段を書の中から見付けた。だが、読み込んだ書の中には、戻った筈の場所が、良く似た別の世界だったというホラーめいた事例が幾つかあり、妙にぞっとしたので覚えている。
(…………まさか、これは違うひと?)
怖さで、胸の底がひび割れてゆくのを感じた。振り返ってその崩壊を見てしまったら、もう取り返しがつかないような気がして、必死に目を逸らす。
「そう、…………ですか。わかりました。人違いでお騒がせして申し訳ありませんでした」
頭が真っ白になりそうだったけれど、まだ他の可能性もある。
(そもそもあれから、どれだけの時間が経っているんだろう?
姿も変わってしまっているし、良く考えたら人外者にとって、人間の容貌なんて十把一絡げかもしれない。或いは同じ系譜だと姿かたちがよく似ている人がいるのかも知れないし、
……そ、そうだ!長命高位の彼がどれだけお年寄りかを考えたら、そろそろ記憶に支障が生じても……)
最終確認で自分の本当の名前を名乗ることも想定してみたけれど、不用意に名前を渡してしまえば、それはこちらを縛る鎖になる。人違いだったら命取りだ。
(諦めてしまう前に、一度自分の中で解いて考えてみれば………)
必死に考えを巡らせようとして、心に力が入らないことに気付いた。
その変化にぞっとして、膝が崩れそうになる。
(始まった?だってまだ、ここが間違いだったって決まったわけでもないのに?)
願い事には対価が常に寄り添う。
誰もが知っていた人魚姫の物語に始まり、
ユジィがここへ戻る為の移動手段として調べ上げた乗り換えの運賃にも、
勿論対価は必要だった。
(………私が使った乗り換えの対価は、心を食う………)
「おや、ここは選んで訪れられる場所だったかな?」
けれど、底辺の幸いとして、麻痺した心のお陰で、少し思考が冷えた。
この質問は二度目だ。応えないと身が危うい。
(…………真実の全てを切り出さない方がいい……かな?
私の方が、知識も経験も遥かに少ないのだから、
いざという時の為のものを少しは残しておかなくちゃ)
探し人でないのなら、これはただの不穏な存在なので、
一番の特異点を省いてこちら側のことだけを説明してみる。
「私が落とされたのはリアナフレスカ経由地です。辺境伯の方は、リベルフィリアの使節が立ち去るまで武器庫に隠れていてもいいと言って下さいました。それでも、私はあなたに会ってみたかった。確かめる必要があったんです」
告白した内容に、彼は興味を惹かれたようだった。
「リアナフレスカの辺境伯は、処分されたばかりの、カルタゴ・カルフールだね」
形ばかりの使節であるディーズ・ルゲイト卿の逆鱗に触れたカタルゴは、
その場で首を斬り落とされ、彼の国は焼き落とされて雪に沈んだ。
あの国で生き延びたのは、来訪者としてこの国に連行されたユジィだけだ。
「優しい国でした。政治的な意見の相違が理由だとしても、あの処分はあまりにも…」
「私を責めたいのかい?」
ひたりと、冷たい汗が落ちる。麻痺しかけた声帯が音を濁らせる。
(いいえ!)
そう答える筈だったのに、なぜかまるで違う言葉を発していた。
「来訪者がお嫌いですか?」
「どうして君に答えなければいけないのかな?」
「あなた達高位の人外者が、来訪者なんてものを刈り取る必要がわからないんです。あ
なた達にとっては、暇潰しでも煩わしいばかりでしょう」
「黙らないね」
怖かった。怖くて堪らないけれど、ほんの少しでもいいから、
目の前の人を揺さぶりたいと思ってしまって、抑制が効かなくなった。
「部屋にお戻り。今の私は、お前こそが煩わしい」
(あなたじゃないの?)
深く息を吐くと、いっそうに心が剥がれ落ちそうになる。
彼の酷薄さよりも、その事実の方が何千倍も恐ろしいのは、まだ心が残っているからなのだろう。
(ここまで来て、支払えるものの全ては旅費にしてしまったのに、会えないの?)
やめなさいと諭してくれたのは、カタルゴ伯だった。
白髪の穏やかな老人は、叡智の煌めきが一筋の強さを与えた容貌をしていて、
娘夫婦を溺愛する情深い主だった。
“やめなさい、小さな来訪者。あれは人ならざる王の一人、
最も古く最も得体の知れない常闇の生き物だ。よく似た銘を持っていても、
そなたの探し人ではあるまい。あの者は、誰かを求める願いなど持たないだろう”
カタルゴ伯は、高位の人外者に旧知の一柱がいるので、リアナフレスカは安全だと言って笑う。
でも、その人外者は理由にもならないような信仰の歪みを指摘し、気紛れにあの国を滅ぼした。
決別の理由は政治絡みのものとして他にあったようだが、自分という来訪者の回収が、
彼等を領内に招き入れる建前の一つになってしまったことを、ユジィは知っている。
(あの混乱に乗じて逃げることも、可能だったかもしれない)
それでも一縷の望みに自分の命運すら賭けたのは、これが最後の機会だとわかっていたからだ。
あれだけの対価を支払う乗り換えが、何度も許される筈もない。
顔を上げて美しいひとを見れば、そこにいるのは彼そのものなのに。
(…………でも、私のクリスマスの王様は、こんな風に笑わない)
そう考えた途端、希望が崩れて足元に散らばり落ちた。
「違う、あなたじゃなかった」
失望が滲む声が零れ落ちるのを抑えられなかった。
やっぱりここは、おとぎ話の幕の袖。
願い事が叶うのは、中央の光の中だけなのだろう。猛烈な失望感に、
目の前の綺麗な生き物を傷付けてやりたいという欲求さえ覚える。
(失望と、悲しみだけじゃなくて、これは多分……)
ちっぽけな人間の願いが上げる断末魔の、どこか崇高な憎しみにも近いもの。
ふらふらと後退りし、
何とか礼儀のかけらを捻り出して申し訳程度にぺこりと頭を下げると、身を翻した。
(世界を乗り換えは、天秤の采配に賭ける、満願成就と落実対価の分かれ道になっている)
探し当てた教本には、戻り道の切符を手に入れるには酷く厄介な支払いが必要なのだと記されていた。
古くからお伽噺につきまとう、“正しいものを選ぶ”という分岐の場面だというのに、
楽天家だったユジィは、その選択を安易に選び過ぎていた。
まるで、…………一つの書に一人しかいないような、おとぎ話の主人公気取りだ。
満開の桜が散って、雨のよう。
この世界では違う名前のその花の雨を浴びながら、自分の過ちの取り返しのつかなさに、
声を上げて泣きたくなった。