願い事の王様
ずっと昔、私は王だった。
孤独で哀れな、願い事の王だった。
軽薄な願いは有象無象に降り注ぎ、その王冠を求めて戦乱が翻る。
だから、その脆弱な願いは優しい雨のように美しく、この心を震わせたのだ。
原始的で寂しい願い事に、この声の主は自分とよく似ているのだと思う。
生きるということは、目隠しをされた砂漠の中から一粒の宝石を探り出せと命じられたかのうようで不愉快で悲しく、苛立ちや怯えはもう日常のものだ。
この王冠を背負わされてから、ずっと。
愛しいと思った。
だからこそこの願いには、全てを委ねる価値がある。
「ふふ、”何者でもないものとなって、ずっと傍にいて欲しい”か」
なんて強欲な願い。
願われたのは、そんな厚顔不遜の言葉だった。
全てを剥ぎ取って、自分しか知らず、自分しか見られぬ目になってくれと願うだなんて。
そんな声に従い用意された檻に自ら入るのは、この身を滅ぼす愚かさだ。
だから、その手を取りたいと思う自分もまた、ひどく愚かなのだろう。
(望まれることも、奪い合われることもなく、ただのちっぽけなものになりたい)
そこは、甘やかな鳥籠だろう。
ふうと息を吐いて苦く笑えば、離れた場所で訝しげにこちらを仰ぎ見る副官の姿が目に止まる。
彼は、縛った長い髪の尾を引いてこちらに歩み寄ると、遠慮もなく王座の肘掛けに腰を下ろした。相変わらず遠慮がない。
「王?何やら邪な企みでも?」
「君はどうしてそう皮肉屋なんだろう。私は身を粉にして、その幾巻きもある戦況報告を聞いているのに」
「音を素通りさせて座しているだけのそれを、献身的な勤務態度とは言い難いのでは?」
いつも口煩い軍師の目には、微かな微笑みがある。私とこの男は、とても古い友人でもあるのだ。私がただの人だった頃を知る、数少ない存在だった。
(きっと、また無謀な真似をと笑ってくれるだろう)
欠け替えの無い友人だからこそ、率直な言葉で愚かな決心を伝えてみる。
「すまない、願い事に落ちることにした。もう決めたんだ。明日からこの王座は空になるから、好きにしてもいいよ」
「…………王?」
胡乱げな低い声。
「お前は私の友だろう?どうか許しておくれ。そうだね、君に会えなくなるのが、何よりも一番惜しい」
「…………あなたは、まったく。不在になるのであれば、せめてこの書類の山を片してからにすれば良いものを。でも、そうですね、いずれはそういう時がくるとは思っていましたよ。…………この王座はいつか、あなたを殺してしまう」
立ち上がって、そうだねと呟いた。
そうだね、だからこそあの願いは、私の手に触れた最後の恩寵だったのだ。
唯一つだけ、願い事の王をその茨の王冠から解放する、魔法の言葉。
「この先は別の世界なれど、幾重にも重なり合い色を違えた、同じ作りの区画が連なっている。向こう側のこれから落ちる一つにも、また君がいるかな?」
「いるかもしれませんね。本人としては唯一無二の正規品の自負がありますので、あまり愉快ではありませんが。まぁでも、向こう側の私も、またあなたの友人となるかもしれない」
大切な友人を一瞥するも、しっかりと頷く姿に頼もしさを覚える。
微かな未練を淡く笑いながら、長い髪をふわりと波立たせて、その願い事に手を伸ばす。
きっとこの願いの通りに全てを失えば、自分を自分たらしめる全てのものを一度失う。
叡智も経験も、一片の特別な力も失い、無垢だが塵のような無価値無名の存在になる。
(それでもいい)
応えて呼び落とされる断絶の向こう側で、友の最後の微笑みを見た。
優雅に一礼した眼差しの、静かな夜空の瑠璃色が、涙に淡く滲んで視界から消える。
「どうぞお元気で、ユージィニア」
最後の声もすぐに記憶から溢れ落ちて、乗り換えの後方に消えた。
それは、武器と石炭という本の始まりの物語。
次のクローディア編では、また、ばすんとひっくり返してしまいます。