7. 願い事の王様 3
「昔話をしましょうか。俺の友人が、随分昔に一人の子供を拾った話です」
夜空は明るく星と月にけぶっていて、不健全な苦しみなど一欠片もないと言わんばかりに美しかった。
雪景色の中でも凍えてしまわないのは、城全域に快適な気温を保つアールがかかっているからだ。
バルコニーに出たスヴェインの微笑みは穏やかなままだ。
すらりとした人外者らしく強靭な背中を見ながら、ユジィは引かれた手の温度に何とか平静を保つ。
「彼は頻繁に、溺愛する子供の自慢話を俺にしました。俺はね、元々酷薄な人外者らしい気質の男です。友人である彼の幸福は好ましかったが、彼が代行するものを考えれば、彼が特別な誰かを持つことは厄介だと思った。あなたは、排除すべき不安要因だったんです」
シュタイルと同類ですよ、とスヴェインは薄く笑う。
「だから、作家に私を?」
「リベルフィリアの王の庇護の隙を突くには、理外れのアールくらいしかなかったし、物語を引き剥がせば、あなたとアレックスは見知らぬ他人になる。想定外だったのは、作家が死ぬと、その物語に纏わる全てが、書の国に回収されるということを、俺は知らなかった」
「その作家は死んだのね」
「ええ。やはりアレックスは、リベルフィリアの総王ですから。あなたの物語を剥いだ作家は、その場で殺されました」
「……みんな違う世界にいるのに、どうして物語や、物語を剥がされた者達が書の国に集まるのだろうって不思議だったの。そう、……死後に回収されるシステムだったんだ」
物語の氾濫していたあの世界で、ひんやりとした図書館で見上げた天井を思い出す。
季節は夏で、窓の外は楽園めいた青空だった。
感情に溢れた物語がどこか乾いていたのは、あれが誰かの宝物だった記憶の亡骸で、作家達の遺品だったからなのか。
「もう一つあなたに告白を。…………俺は、アレックスがあなたの本を焼き捨てる前にそれを読んでいます」
「…………!!」
吸い込もうとした息が凍えて喉を焼いた。
あの本はユジィという人間の記録。そして、最大の秘密。
そっと当てられた掌の温度で髪を撫でられたとわかったが、顔を上げる力もない。
「多分、知りたかったんでしょうね。自分が葬った過去が戻ってきたとき、そしてそれを慈しんだ友人を失った俺が殺したのは、果たしてどんな人間だったのか」
「…………アレックスは、あなたを責めたの?」
空気の揺れでスヴェインが笑ったのだとわかった。
それはあまりにも健やかで、絶望の筈なのに暗くはなくて、我々はそういうものだと語ったアレックスの言葉を思い出す。
「心の一部を手放したアレックスは、もう俺の友人であった男とは違う魂の形をした彼になってしまった。恐らく、その僅かな差分が、俺達が友人だった理由だったのでしょう。今でも彼は古い知己ですが、かつてのような友ではありません」
(あなた達はそれを惜しんでも、後悔はしないんだね。私達人間とは違う生き物だから)
「…………さっき、アレックスが、願い事の王とはどういうものなのかを教えてくれた。だから私は、その力で何が出来るのかを考えてみたの。もし、………」
声に出すと惜しくて涙が滲んだけれど、それはなんだか不公平だ。
(かつての私の幸福を奪った人なのに、どうして失いたくなくて怖くなるの?)
指先が震えそうになる両手を握り込んでようやく見上げると、スヴェインはそっと微笑んでくれる。
雪を含んだ風が、その背後でひらめいた。
(あなたは、今はもう私自身ですら不確かな、私の正体を知っている)
その事実が、どんなに恐ろしいか。
「あなたのアールは、声と音を司る。喋ることが、怖くなりましたか?」
その静かな問い程、ユジィを絶望させるものはなかった。
小さく頷くと、スヴェインは微笑みを深めてユジィの頭撫でた。
純白の盛装はだかしかし清涼ではなく、雪と夜の色彩に染まったスヴェインはくらりとするくらいに美しい。
ふと、人外者の美しさはその能力に応じるのだと思い出す。
充足しているという今のスヴェインが、アレックスに並び立つ程に美しいのは当たり前だ。
(でも、願い事を成すアールが言葉なら、私達は、決して自分の願いを叶えることは出来ない。だってそれはいつだって、願うその途端に嘘に成ってしまう)
声を発せないままのユジィの頬に、綺麗な指先が労わるようにそっと触れる。
「いいですか?これから先の言葉は俺の意思です。今のあなたなら、それが本物の願いかどうか嗅ぎ分けられますよね?」
「…………ヴェイン?」
跪かれ、戸惑って名前を呼ぶと、彼は少しだけ微笑みを自嘲的なものにした。
「俺は人外者の例に洩れず、身勝手でしたたかだ。この機の内に、手に入れられるだけのものを手に入れようとする。……だから、嫌なら断わって下さい」
窓の向こうでは舞踏会が続いている。
人ならざる者らしいワルツの調べに、遠いざわめき。
空には大きな満月が登り、クリスマスの国の一夜を雪と共に青く染める。
「ユージィニア、どうか何者でもない者となって、これからも俺の側にいてくれませんか?対価は、何なりと支払いましょう」
「ヴェイン!」
そろりと吸い込もうとした息が詰まって、胸が潰れそうになった。
それは、たった一つだけ許された魔法の言葉。
ユジィの本に記された、かつてクリスマスの王様が唱えた、複雑な条件下で、尚且つ本心でなければ叶えられない最後の願い事だ。
あまりにもびっくりしたので、ユジィはついついスヴェインに詰め寄ってしまう。
「あなたは、魔法は欲しくないの?欲求を質とする欲望の代行者なのに!」
「だからこそ、自分の願い事には忠実です。あなたが俺をまだ許せないなら、それでもいい。言葉以上のことは願いません。その先を望むなら、……そうですね。もう少し時間をかけましょう。だが、この返答だけは今ここで下さい。…………ユージィニア、答えは?」
(それが口先だけの言葉なら、私には契約として届かない)
言葉は願い事ではない。
それはどんなに美しく便利でもただの形式と手段の一つであり、願い事とは心からの、時には自分でも望まない程の深淵から込み上げるもののことだ。
(だから、これが私に届くということはつまり…………)
「私は、人外者としてアールの一環で、願い事を叶えるアレックスとは違う。私が汲み上げることが出来るのは、今生の唯一それだけ。それなのにあなたは、そんなことを願うの?」
「ええ。これ以上ない程に」
その綺麗な真夜中の瞳を見ていられなくて、ユジィは、ぼすっとスヴェインの胸に飛び込んだ。
そのままぎゅっと抱きつくと、しっかりと抱き締め返される。
きちんと答えようとしたのに、返答は嗚咽交じりになった。
「…………うん。対価は、あなたが側にいてくれるだけでいい」
「願い事をひとつ、対価をひとつ。あなた達は本当に、よく似たものなんですね。でももうあなたは、ただの俺の専属の来訪者だ。俺の庇護を必要とする、無力で何者でもない只人でしかない。無垢なあたなに昔、愚かな呪いをかけた者の証跡はここまでだ」
だからもう、大丈夫。大丈夫だよ。
そんな優しい囁きが落ちてきて、泣きじゃくるユジィをスヴェインが抱き上げてくれる。
「これからはもう、好きなだけ願い事をして大丈夫ですよ。叶えられるだけ叶えてあげますから。あなたはもう、願い事で何かを失うことはない」
(これじゃまるで、ハッピーエンドのお伽話みたいだ)
優しい腕の中で、ただの安らかさにユジィは途方に暮れる。
「それと、忙しないですが撤収しても?これ以上アレックスに掻き回されては叶わない」
「え?会議は?この後に大事な会議があるってラスティアが言ってたよね?確か、”信仰”を失ったことで、リベルフィリアには季節柄、”狂乱”が訪れやすくなるって…」
やはり季節の采配には、適度なバランスが必要らしく。
書の国で言うところのクリスマスから信仰が欠け落ちるのはよろしくないのだろう。
物騒な予言に慄いていたので、是非ともすっぽかさないで欲しいところなのだが。
「彼自身の余興で失った防壁です。己の采配で回避いただくのが当然でしょう」
「………えっと、問題のあるひとに問題を解決させると、多分解決しない気がする」
「そろそろ、総王にも働いていただかないと」
スヴェインはそう言うけれど、今夜のアレックスの役割は、まるで善意が少なめの南瓜の馬車の魔女ではないか。
こっそりそう思ったけれど、アレックスもスヴェインも嫌がりそうだったので、ユジィがそんな感想を口にすることはなかった。
リベルフィリア編はあと1話で終了です。
次のクローディア編で、アレックスのターンがある筈…。