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6.欠け残りの森 3


「アレックス」


名前を呼ぶと、彼は困惑した表情で本から顔を上げた。

バランスが悪いので片方だけの靴は脱いで手に持っている。


幸いなことに、美しい森の健やかな森の草花は、なぜかユジィの裸足の足を傷付けはしなかった。


「危ない遊びにも程があります!私がこれ幸いとあなたを見捨てたらどうするつもりだったんですか?」


心配したのだと言うにはもう二人の距離は遠くて、少しだけ愚痴を言ったユジィにアレックスはこともなげに告げる。


「まさか、私がこの森ごときで足止めされるとでも?君は、私が代行するものを知っているだろう」


「……もしかしなくても、やっぱり、自分で出られた……とか?」

「出られるよ。けれども君は来るだろうとも思った」

「でも、あなたは、もう出ないつもりだったんでしょう?」

「まさか」

「………わぁ、無駄足」


大きく溜め息を吐いてしゃがみ込んでしまったユジィは、ふと彼が手にしているものに目をとめる。


「その本!あなたが持っていたの?!」


彼の持つ装丁に見覚えがあって、ユジィは短く息を呑む。


「ああ。シュタイルは私ごと、この本も、森に葬りたかったのだろう」


大きな花盛りの樹の下で、短く浅い息をひとつ吐き、アレックスの白い手が、表紙をするりと撫でる。

彼は分かりやすいくらいにこの樹が好きらしい。昔からそうなのだ。


「リアナフレスカで拾ってきたそうだ。古い友人だったカタルゴに、不思議なものがあると相談されたらしい。どうやらカタルゴの知識でも、僅かには読み解けたのだろう。この本にある挿絵は意匠的だからね」


そうアレックスが指差したのは、リベルフィリアの願い樹の下に王冠をいただく王の姿が描かれた頁。

緻密で美しい挿絵だからこそ、文字を読めない者にもこれが総王の物語だと知れてしまう。


「君がこれをカタルゴに?」


「いいえ。目を覚ました時には持っていなかったから、この世界には持ち込めなかったと思ってた。きっとカタルゴ伯は、この挿絵から厄介なものだと判断したんですね。私には何も言わずに、シュタイル伯に相談して、…………その結果、リアナフレスカは滅ぼされてしまった」


「その日まで、あれは良い友人同士だった。己の目的の為に容易く切り捨てられるのだから、私達にとっての友情とはそんなものだけどね」


(まさか、さっきシュタイル伯が話していた人って、)


カタルゴ伯は、国ごと血族のその全てを滅ぼされた。

当時その場にシュタイル伯は居なかった筈だが、高位の人外者が己の部下に擬態するのは容易だろう。


それがもし、直接的にも友人の手によるものだとしたら。


「…………どうして、」


声が震えそうになるのは、人外者の不可解さに、まだ心のどこかが打ちのめされているからだろうか。

エレノアの泣き声が耳に残って、きりきりと心を締め上げる。

自分では割り切れることが、他人の痛みだと割り切り難いのはどうしてだろう。


「そういうものだ。私達はね」


「………あの方は、理由を言いましたか?」

「この本を読み、私を危険視したようだ。読む、読まざるに関わらず、私の資質は同じものだろうに」

「願うことを叶える力?」


アレックスは、記憶の中と同じ儚い微笑みを浮かべると、布張りの小さな本を指先でなぞり、魔法みたいにどこかに消し去ってしまう。


「ああ。だが、全てを願うことなど、とうに飽いたというのにね。孤独で哀れな願い事の王、か……。随分と身も蓋もない表現の仕方をする」


そっと伸ばした手で、今度はユジィの髪を一房掴み、自分のもののように口付ける。



「私のユージィニア」


甘い、甘い、懐かしい呼びかけ。


クリスマスの王様の言葉に、ユジィは泣きたくなるのをぐっと堪えた。


もう、彼から受けた愛情が惜しいわけではない。

それでも、子供の頃の無垢な幸福が惜しくて、胸が詰まるのだ。



「不思議なものだ。私は物語を剥ぎ取られたわけではないのに、この本を読んだ途端、君へ向けた想いがどんな色をしていたのかを思い出した」


月光の角度が変わり、アレックスの周囲の大気がダイヤモンドダストめいた煌めきを帯びる。

青を深めた森の底で、彼の声は震える程に麗しい。



「君のことは覚えていたよ」


ああ、やっぱり。


胸が潰れそうになって、指先を強く握り込む。

きっと彼はこう言うと思って、ユジィはアレックスの捜索に、スヴェインを同行させたくなかった。


自分が過去に喪ったものにケリをつける場面を、どうしてだかスヴェインには見せたくなかった。


だからあんな風に振り切るようにして、この森に駆け込んだのだ。


(彼が渡したものに、記憶は入っていなかった。とすれば、忘れている筈もなかったから)



彼の物語が書の国の本になっているのは、彼が渡したその心の半分を持ったままユジィが書の世界に連れ去れたから。


引き剥がしを受けていないアレックスそのものの記憶は、欠片も損傷していない。



「でも、君に向けた愛情も何もかもを、あの時君に渡してしまっていたから、もう私の中には残ってはいなかった」


「私が理外れのアールを使ったときも、何も思わなかったの?仮にも自分の心の半分を手放して、あなたには何の支障はないんですか?」


「私の身を離れても、私の心は君を護るのかと愉快には思ったが、それだけだ。それに、手放したのは君に纏わる感情だけだからね。取り戻さなくても、私には何ら支障はないよ」


「………そう。それならいい」



(あなたはもう、それを取り戻すことは望まないんだね)



目の前の彼は、もうユージィニアを慈しまないもの。そう思ったら無性に泣きたくなったけれど、そんなアレックスでもやっぱり大好きだったから、ユジィは頑張って微笑んだ。



「迎えに来たんだ。帰ろう、アレックス」

「ふふ、私のものを持って戻ったのなら、少しくらい返して貰ってもいいかもね」

「………え?ちょ、わっ!!」


掴んだ髪を引かれ、体勢を崩したユジィを、アレックスはふわりと受け止めて腕の中に閉じ込める。

クリスマスの夜の馨しい夜の香りに包まれて、思考が停止した。



(…………え?)



唇に、そっと触れた温もりに目を瞠れば、身を切るほどに鮮やかな菫色の中に自分が映っている。

その口付はさらりとしていて、けれどもユジィが状況を確実に理解するまでは、執拗に留められた。


「この本を読んだら、私は過去の私を妬ましくなったのさ。一つだけ、取り戻させて貰った。舌先ばかりの欠片だがね」


唇を離して、息がかかるくらいの距離で深く微笑む。



「ア、…………アレックス?!」


真っ赤になって名前を呼ぶと、うん?と優しい声で続きを強請られた。


「いっ、今のは、………ううん、やっぱり何も言わないで!」

「取り戻したものが何なのかは、君には言わないでおこう」

「………庇護ですね」

「ああ、やっぱり君は堪らないな」



混乱しているのが分かっているはずなのに、愉快そうに笑う彼にそう抱き締められて頭が真っ白になる。


「この空気でそう言ってのける君は、特別な変わり者だ。私だけのユージィニア」


この上なく甘やかな声と微笑みだったけれど、全力で貶されているように感じるのは、間違いじゃない気がした。

アレックスの瞳に、見た事のない鋭さと熱を見つけて、なぜだか背筋がひやりとする。



「あ、………」


気付けば、雨が降り出していた。


「森の歌だ。満月が真上にある夜だけ、肉体を失ってもこの森を永劫に彷徨う者達の囁きが、森に雨を降らせる」


その雨は柔らかな音と、月光に煌めく雫が見えるのに、実際に地面を濡らすことはない、感傷的で優しい幻の雨。

しばらくその中に佇んでから、アレックスはユジィを抱えたまま立ち上がった。



「さてと、帰ろうか。あまり長居したら、君の忠犬が押しかけてくるのだろう?」


「アレックス、自分で歩けるよ」

「片方しかない靴を手に持ったままで?」


そう言って、彼は笑った。


(…………アレックスが、笑った)


その声には温度があって、触れて抱き締めたいくらいにあたたかい。

そのあたたかさに、もう自分の手から零れ落ちた過去が少しだけ惜しくなるくらい。



「そうだ、君に一つ告白しておこう」


暫く歩いたところで、アレックスは機嫌良く切り出した。


「告白……ですか?」


「君が乗り換えで落ちてきたのは、私の庭だったのだよ。リアナフレスカではなくてね」



(え?)



雨音が耳の中にこだまし、ぬくもりをさらさらと奪ってゆく。

不思議なことに衝撃はさほど無くて、静かにその告白は簡単に胸に沈んだ。



「……………そう」


「それまでの私は、記憶の中にある君を取り戻したいと願っていた。ただの興味本意ではあったけれど、倒れている君を見つけた時は嬉しかったよ」


「…………どうして、私はリアナフレスカに?」


「君を見たら、またかつてのように幸福な気持ちになるのだろうかと思っていたが、残念ながらそうはならなかったから、領地の一つに捨ててくることにしたんだ」


「一度、私に渡して空にした気持ちが、もう一度生まれるか知りたかったの?」


「そうだね。そうなのかも知れない」


雨を降らせる夜空と森を仰いだアレックスは、なぜか少しだけ悲しげに見えた。

がっかりした子供のように孤独そうだった。でもそれは、ユジィの知らないひとの孤独の色だ。


「炉にでも焼べて殺してしまっても良かったけれど、退屈だったことを思い出してね。君が、あの辺境の地からリベルフィリアまで戻ってくるのか、試してみようと思ったんだ。君があそこにいた以上、私に会いに来たのだろうと思ったから」



「私は、…………乗り換えを間違わなかったんだね。アレックス、……あなたは私の本を読んだんでしょう?」


愉快そうに口元をカーブさせて、アレックスがユジィを見下ろす。


「どうしてそう思ったんだい?」


「孤独で哀れな願い事の王。そんな言葉は、私の本にしか書かれていなかった。あなたの本はここにあるけれど、私の本はどうしたの?」


「焼いたよ。君も君で危ういことをする。あれは、君という存在の最大の機密だろうに。それに私の情報も入っていたからね、その場で焼き捨てた。でもまさか、私の本も持っているとは思わなかったな」


アレックスの声は軽妙でゆるやかだ。天気の話でもするかのように、ユジィの運命に纏わる物語を転がしてゆく。

だからユジィも、それが随分と過去のことのような気がした。



「あなたの本を無闇に危険に晒してしまって御免なさい」

「おや、怒らないのかな?あれは記録だろう。実際に物語を引き剥がされた君は、記憶というもの自体を失っている。あの本だけが、君という人間の正体の記録だったろうに」


その質問に答えようとしたユジィに、雪の冷たい香りが届く。

森の出口が近いようだ。


(雪の香りを嗅ぐと、床一面の菫の絨毯を思い出すのは、もう条件反射なのかしら)


きっと今も、森の出口では、ユジィの大切な灰色狼が待ってくれているのだろう。


こんな残酷な告白を聞いてもなお、アレックスのことは好きだ。


でもそれは、過去を再興させたいという願いには繋がらない。


あの舞踏会の夜に下りた幕の先には、やはり確かな分岐点があったのだろうし、ここにいるアレックスはもう同じ心を持たぬひとだから。


「もういいんです。今の私は、ただの書の国生まれの来訪者だから」


「…………そうか」


静かに頷いたアレックスの方は見なかった。

彼はもう彼自身の意思で、ユジィのクリスマスの王様ではない。


一瞬だけ苦労して、それから思いがけず上手くいって、ユジィはくたりと力の抜けたスヴェイン専用の笑顔になる。

そしてそれは、森の出口待ちくたびれていた忠犬が、ユジィを自分の腕に取り返すまで続いた。



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