6.欠け残りの森 2
森の外周をしばらく回り込んだところで、スヴェインが足を止めた。
仮面を返すように酷薄になる眼差しに、
警戒を強めようとしたユジィはおもむろに片手で抱えあげられる。
「ヴェイン?!」
「削りますので、動かないで下さい」
その途端、見えない空気の塊に押し潰されたみたいに、足元の地面が大きく抉れた。
(…………ええ?!)
森の外周だった巨木がひしゃげ、一拍の間もなく石化して粉々になる。
風景そのものを塗りつぶしてゆく圧倒的な力に、ユジィは目を瞠ったまま声を失う。
(ヴェインがやっているの?)
そっと横顔を伺えば、彼はこれだけの大きな力を削り出している気配もなく、淡々と一区画を更地にしてのけていた。
人間というものの視線から見渡せば、本能的な恐ろしさを覚えずにはいられない程の圧倒的な崩壊に背筋が寒くなる。
「無尽蔵なことだ。総王と同柱の王だけはある。これだけの力を持ってすれば、そなたが総王になることも容易かっただろうに」
「シュタイル」
全てのものが砂に還ってゆく風景の中、両手を広げてそう笑ったのは、祭衣めいた艶やかな深紅の装いのシュタイルだった。
乱暴なまでのアールに晒されているせいか口元に微かな歪みはあるものの、その全てを受け止めてなお、損傷はどこにも感じられない。
「具現化した剣を持ち戦うことが多いのは、欲求で実現するアールの精度をわざと落とす為のようだな。気分ひとつで味方さえも滅ぼしかねない資質の為、自分自身のアールさえ欺けるように策を磨いたというのは本当だったらしい」
「その様子を見る限り、アレックスは既に欠け残りの森の中か」
「代行者殺しの森と、そう言わないのはそなたの来訪者の為かね?」
「…………代行者殺しの森?」
大きく半円に抉り取られた森の境界線は奇妙な静けさを保ったままでいた。
胡乱気なユジィの声がやけに響き、温度のないアールの風にスカートが膨らむ。
「欠け残りの森の特性です。あの森は、高位の代行者であればある程、抜け出すのは容易ではない隔離地となる。人間であればまだ、条件が揃えば脱出も可能なのですが」
「そんな森の中に、アレックスがいるの?」
呆然としたユジィの耳元で、スヴェインはそっと笑った。
「大丈夫。最悪、俺が森そのものを消滅させましょう。森よりは、アレックスの方が遥かに丈夫ですからね」
潜められた声から察するにシュタイルには秘密なのだろう。
けれどもあまりにも不穏な解決方法に、ユジィはスヴェインの静かな横顔をまじまじと見つめてしまった。
「小さな国一つ程に広がるこの森を?」
「隔離地の森は、堅牢なアールに守られている。シュタイルは俺がそこまでを可能にするとは考えていない。けれども、最近は充足していると言ったでしょう?今のアールの配分を感じるに、数日あれば充分かと」
(それって、彼の代行するものが満たされているからということ?)
刹那の恐ろしさをぐっと飲み込んで、スヴェインの腕の中に留まる。
やはり彼等は、人知を超えた災厄に等しく、自分も手を出そうなど見込が甘かった。
視界が一瞬翳ったので見上げれば、大気が黒く澱み、けれどもすぐに陽炎のような揺らぎの後に元に戻った。
「大気を腐り落とすか、さすがに経典の王なだけはある」
「この一振りで国を滅ぼすのも容易いものだが、死にゆくものを書き換えて入れ替えるそなたの前では、児戯にも等しいか…………」
(なんかもう、何が起きているのかすら把握しきれない……!)
守護者が頼もしいのはいいことだが、人間としては空恐ろしいばかりでやるせない。
「私と取引をしないか、スヴェイン?そなたと私とでは、安易に決着をつける前にお互いの同伴者が命を落としかねん」
「悪いが俺は怠惰でもある。滅ぼして済むものを滅ぼさずに、得るものもない交渉を持つ必要がどこにある?」
「ではなぜ、その武器来訪者を連れてきたのかね?彼女には理由が必要でそれを請われた。であれば、私との対話は必要だろう?違うかね?」
自分を引き合いに出されたユジィは、思わず反論してしまった。
「理由の為にではなくて、きちんと解決するところを見届けるためにきたんです」
ふっと笑うその大気の震えが、耳元に届いた気がした。
幼い反論を受け止めたのは、経典の王ともされる聖伯爵だ。
「ほう、まだ気付いてなかったのか。では、問おう。そなたが書の国から持ち込んだ本が、リアナフレスカの滅亡をも含む全ての始まりだとしてもかね?」
「…………っ!」
そう言われてしまえば、スヴェインの腕の中にいても怖さに体が跳ねる。
(どういうこと?主張の相違で怒りを買ったのではなかったの?)
「ユジィ、一度下ろすので俺の背後で防壁を展開出来ますか?シュタイルは説法の王でもある。あまり囀らない内に潰してしまいましょう」
スヴェインも人外者なので、そんなことはないと甘く囁きはしない。
ただ過保護に、蒼白になった庇護対象を厄介なものから遠ざけようとしてくれる。
けれども、均された地面に足をつけたユジィが背後に下がらない間に、シュタイルはよく通る声で続きを説いた。
「あの本を読み、書の国の武器が王に縁のあるものだと知ったのだ。だからこそ動いた。懸念と策だけで動くものか。私はこれでも穏健派なのだよ」
「ユージィニア、我々は好んでその言葉に毒を潜める。あなたが呷る必要はない毒だ」
素早くスヴェインが遮ったが、その毒は確かにユジィの心に浸透した。
シュタイルが飲ませようとした毒を知ってしまった。
「…………まさかあなたは、だからこそリアナフレスカを滅ぼしたの?」
壮年の人外者は慎重な声に、穏やかな微笑みだけで応える。教会の主人たる荘厳さで、企みの悪辣さを微塵も感じさせない。
「ユージィニア!」
呆然と見上げたユジィの肩を抱くようにして、スヴェインが声を上書きしようとする。
「スヴェイン、お前が耳を塞いでも、真実はそれだけで毒となるだろう」
「最初から私が武器だと知っていたの?」
「他の世界から戻る来訪者の全ては武器となる。そして書の国から訪れる来訪者の全ては、今まで作家として成った。そう私は先代の作家から聞いていた。のう?スヴェイン?」
(…………作家、………そうだ。私は確か、その言葉にどこかで違和感を覚えた)
ふと、得体の知れない怖さに襲われた。
シュタイルは最後に何と言っただろう?
(ううん。……………でも今は、目の前のことに集中するんだ)
この言葉の毒だけは、飲み込んではいけないと、疑惑に揺らぎかけた意識をあえてぼかしたまま、目の前の経典の王に集中する。
「あの本が私のものだと知った段階でもう、私を作家だと思っていたのね」
「そうだ。だからこそ、そなたを、リベルフィリアに入れた。武器は無意識にでも己の願いに近いものを求める。ましてやそなたは、まだ心を残していた」
リベルフィリアへの刈り取りすら彼の手の内だったのか。
「アレックスが願い事の王と知ったあなたは、アレックスの手元に戻した私がやがて武器に成り、アレックスの物語を剥ぎ取って、彼を無力化するのを待っていた……」
(だから、全ての企みが、恣意的なくせにどこか他人任せなものばかりだったんだ!)
そしてその筋書きを起こしたのがシュタイル伯であることに辿り着く可能性を持つ、リアナフレスカの民を口封じとして滅ぼして。
存在を知られたその時にはもう、歯車は動き出していたのだと。
「…………シュタイル様?」
けれども、今にも砕けそうな声を上げたのは、ぐらりと体を揺らしたユジィではなく、エレノアだった。
いつの間にそこにいたのだろう、怖々とシュタイルの背後から顔を出した嗜好品は不安に眉を顰める。
スヴェインの攻撃の間も、エレノアがシュタイルの背後に居たと知り、危うさにユジィは声を上げそうになった。
「仰っている意味がわかりませんわ。あなたは、………あの方を、お救いしようとなさっているのでしょう?」
おぼつかない足取りで守護者の正面に回り、そっとその腕に手をかけて表情を伺おうとするが、シュタイル伯はエレノアの方を見ようともしなかった。
エレノアの不安げに震えた唇が、何かを問おうとしてまた引き結ばれる。
「どうして、あの方はあんなに残忍なことをなさるのかと嘆いた私に、あなたは仰った。このような形で権力の集中する国の総王であることが、あの方の心を毒しているのだと。元々高位の代行者は自由なもの。国を離れて悪辣な崇拝者から引き離せば、あの方の心も穏やかに、清浄になるだろうって」
「そなたの願いは、愚かだが切実でもあった。王を、変えたいのだろう?」
シュタイル伯の声は静かだ。
彼のなりの正しさしか響かない声を聴いて、ユジィは強張った肩からなんとか力を抜く。
(そうだ。ヴェインの言うように、毒が毒であることまでを止めることは出来ない)
燃え落ちるリアナフレスカで言い含められたように、彼らは災厄。
その采配を人間が罪悪として背負うには、あまりにも心の及ばない勝手気ままなものなのだ。
(だから私は、シュタイル伯に“どうしてこんなことを?”と問う必要はないんだ)
「わたくしは、あの方の心を変えたいのであって、あの方の記憶を奪いたいわけではありません!それに、アグライア公のお力を奪わんとするのは、あなたの身勝手さからくるものではありませんか!」
「なに、さして変わらぬさ。そなたの高慢さも、わたしの身勝手さも」
声を鋭くしたエレノアを窘める姿には、節理を通して当然として敬われてきた信仰の主らしい落ち着きがある。シュタイルは、話は終わったものとしてこちらを見たが、ユジィは蒼白になったエレノアから視線を逸らせなかった。
(大事にしていたのではないの?)
心が寄り添わなければ与えられないものを、シュタイルは彼女に与えているような気がしていた。
でもそれは、ユジィの人間らしい甘さからくる勘違いだったのだろうか?
「…………あの方に全てをお話ししますわ。シュタイル様、あなたのお考えは間違っていますもの」
未だ震える声でそう言うと踵を返したエレノアに、ユジィは思わず声を上げた。
「エレノア!アレックスは、欠け残りの森に……」
「ユジィ?存じておりますわ。森でお待ちいただくようにとお伝えしたのは私ですもの」
(まさか、森の特性を知らないの?!)
思わずスヴェインと顔を見合わせてしまった様子から何かを察したのだろうか。
エレノアが綺麗な瞳を不安に曇らせる。
「……………この森に、何かあるのですか?シュタイル様は、代行者殺しの森という悪しき名は、追っ手を退ける頼もしい名だと仰いましたよね?」
「欠け残り森は、一度入れば同じものを持つ者にしか巡り合うことが出来ず、迎えが来ない単独者は永劫に森から出ることは出来ぬ。既製品を身に纏う人間にはさほど恐ろしくはないものだが、その身の全てを己のアールで賄う人外者には、終生の迷宮に等しい」
その特性を吟じたのはシュタイルだった。
「………………あの方は」
凍えるような沈黙の後に、囁くほどの頼りない問いかけが揺れる。
「作家がおらぬ以上、総王を無力化する程の力には足らず、またそれだけの柱を世界から失わせるのも不安要因となる。だが、事実上これで王は森に幽閉されたようなものだ」
「出る術を持たない土地だとわかっていて、自ら踏み入る訳がありませんわ。きっとご自身で出られる筈です」
「自らの意志で選択されたのだ。あの方は、自分の力を振るい、森を出るつもりはないだろう」
「まさかそんな!」
「そういうことをなされるのだ、あの方は。だからこそ、私は王を畏れ、同時に未知なるものとして敬いもしてきた」
「…………スヴェイン様?」
「するだろうな」
ぱっとこちらを向いたエレノアの必死な眼差しに、スヴェインは躊躇もせず短く返答する。
温度のない声は冷やかでもあって、声に打たれたみたいに可憐な嗜好品は竦み上がる。
(…………多分他にも手はある。それをわかっていて、アレックスはわざと森に入ったんだ)
恐らく、アレックスがあてにしたのは、スヴェインの力ではない別のものだ。
でもその手の内を明かすわけにはいかず、ユジィは唇を噛んだ。
(でも本を読んだ筈のシュタイル伯は、それに気付いていないの?まさかそんな)
或いは、あの本の表現は若干詩的である。真実とは違う解釈で翻訳したのだろうか?
「確かに、私が語る真実は毒だろう。毒を毒と知り、そなたに煽らせる為に語りもする。だが、そなたに毒を煽らせたのは、果たして私だけだと思うかね?」
エレノアが言葉を失ったのを機に、再びシュタイルはユジィの眼差しを捉える。
その高位圧から庇う為に前に立っていたスヴェインの気配が、その刹那、大気を翳らせた。
「スヴェインっ?!」
ユジィの声が届くより早く、水に濃紺のインクを落としたような翳りが、あっという間に地面を飲み込んでゆく。よく見ればそれは波紋と言うよりも、目が痛くなるくらいに精緻な術式陣の奔流で、次の瞬間、その奔流が一斉に夜色の鳥となって飛び立った。何千何万もの羽ばたきが、今度は硬質な打撃音と共に剣となってシュタイルに降り注ぐ。全ては、瞬きにも満たない一瞬のこと。
「ヴェイン!あそこにはエレノアが!!」
慌てたユジィが動きを封じない程度にその腕にしがみ付くと、彼はいつも通りの穏やかさで振り返った。
「大丈夫ですよ、ユジィ。エレノアを回避するために、少し趣向を凝らした結果ですから」
錬成された剣の山は、すぐにさらさらと大気に溢れて消えてしまい、大地に残された惨憺たる刃の爪痕だけが、ここで何があったのかを証明している。
「幾つかの核を砕いた。階位落ちには十分だが、まだ死にはすまい。王の名を持つ以上、一撃で殺せる程容易くはないな」
「…………アシュレイの王、よもやここまでの潤沢なアールだったとは。防ぎもしたが、いささか困ったものだ」
未だ立ち尽くしたままのエレノアのすぐ横で、シュタイルは変わらない姿を保っていた。
勿論、煌びやかな礼服のあちこちに剣戟の跡があり、深刻な程に色濃い深紅を滲ませた箇所もある。
それでも彼は膝もつかず、身体を損なう程の損傷もなさそうだ。
(でも、高位の人外者の戦い方は人間とは違う筈だから……)
苦しげに視線を下げたシュタイルを、スヴェインは冷静に観察している。
(成り立ちでその命の在り方が違うから、原型を留めない程にしなければ死なない者も、首を落とすだけで滅せる者もいるって)
シュタイル伯は、核とやらを命に据える人外者なのだろうか。
(………凄い。ヴェインは、呼吸ひとつ乱さないで、それを削ってみせたんだ)
アールの消耗は分かりにくいものだが、到底苦労したようには見えなかった。
「頑強だな。少し練度を上げるか」
そう、スヴェインが呟いた直後、それまで体を揺らさずにいたシュタイルが、唐突に膝を突いた。
「…………エレノア?」
損傷が思いがけず深かったのではない。唐突に自身の嗜好品に掴みかかられ、虚を突かれたのだ。
その証拠にシュタイルは、すぐに己の体勢を立て直してエレノアの小さな体を押しとどめる。
「やめなさい、エレノア!」
娘を叱る父のようだが、実質その声は冷ややかな怒りに満ちていて、ユジィは慌てて駆け寄ろうとしてスヴェインの腕に阻まれる。
「ヴェイン!このままじゃ!」
「シュタイルは大気や大地に干渉しています。俺より前には出ないで下さい」
はっとした視線の先で、一瞥しても気付かない程の差異が大気を切り分けていた。
スヴェインを覆うような半円の向こうの大気は微かに黄昏の色を帯びている。
光の加減ではなく、その先の支配権が侵されている明確な印だ。
盾を展開すれば行けると視線で訴えたが、何かそれではまずい盲点があるのだろう。首を振られた。
「大気と大地を腐らせて防壁にしている。脆弱な人間の肉体では、あっという間に飲み込まれてしまう。あなたの力は有能だが、それそのものに干渉された場合は脆い可能性もある。少し待って下さい」
黄昏の色を帯びた境界が陽炎を立ち昇らせる。
拙いアールの知識ではどんな手を使ったのかわからなかったが、障害が取り除かれたとわかった。
「良かった。ヴェイン、私がエレノアを…」
「こんなつもりじゃなかった!」
ユジィの視線を引き戻したその声の悲痛さは、頬を張る程の強さだった。
「こんな筈じゃなかったのです!私は、彼を愛していたのよ?それなのにどうして、そのたった一つの失い得ないものを、私の手で殺させたの?!」
零れ落ちる涙を拭いもせずに、愛らしい嗜好品は己の守護者に掴みかかる。
「あなた達はそんなに残酷なの?そんなに理不尽なの?私を愛おしいと言いながら、私が私の手でこの想いを殺してゆく様を、あなたは笑いながら見ていたのですか?!」
鬼気迫る糾弾には恋を殺された女の狂気もあって、
一瞬とは言え、その鮮やかさが老獪な人外者の言葉を奪う。
「彼はもう、あなたの企みに気付かずに、自分を追い落とした私を愛しはしないわ。だからこそ、私の罠に踏み込むことで、私に彼を裏切ったという肩書きをむざむざと与えたのだから」
(ああそうか。エレノアは、アレックスのそんな意図にまで気付けてしまったんだ)
エレノアを守るなら、アレックスは彼女が知らずに仕掛けた罠を回避するべきだった。
(でもアレックスは、それがエレノアを一番苦しめると分かっていて、だからこそその罠にかかった)
そうして今、この場面で手を煩わせる己の嗜好品を、シュタイル伯はどう思うのだろう。
彼の表情は冷静なばかりで感情を伺わせない。取り縋るエレノアを引き剥がして、躊躇いもなく放り出す。
「私は君を愛してはいるが、この世界の均衡と安寧との引き換えには出来ん。王のご気性ならば、君を傷付ける為だけの遊戯で、あの罠に足を向けるとわかっていた」
シュタイルの声に荒さが混じったのは、さすがに傷に堪えたのだろう。
一方で転がされた地面から緩慢に体を起こしたエレノアは傷付いた様子はなく、ユジィは胸を撫で下ろす。
「…………あの方が私を愛さないと知って、私を囮にしたのですね」
激情さえも焼け落ちたのか、掠れた声でそう言うと、エレノアは花が崩れるように地面に顔を伏せた。
「エレノア!」
駆け寄ったユジィが肩に手をかけても、触れられていることすら分からないようだった。
ほろほろと零れ落ちる涙を自分の手で受け止めてから、わぁっと声を上げて泣き出した。
(これは、心が壊れる音だ)
この音を聴いていたら、胸が潰れてしまう。
揺さぶって何とかエレノアをそこから引き戻そうとしたけれど、彼女は泣き止んではくれない。
だが、結果的にシュタイルとの距離も詰めてしまった無用心なユジィの盾になって、先に回り込んだスヴェインは酷薄だった。
「ユージィニア、あなたがそこまでする必要はありません。彼女はあなたを損なう可能性があると知った上で、シュタイルに同調していたんですよ」
エレノアは一度も、ユジィに対して「知らなかった」とは言わなかった。
恐らく今回の策謀がユジィを武器として使うものだとは知らされていたのだろう。
「でも、ヴェイン、これじゃエレノアの心が壊れてしまう!」
「彼女はあなたとは違う。その声と絶望の程度では、俺の心は動きません」
「何の話?!今までは大切にしていたのに、もう守ってあげようとは思わないの?」
いつも忠犬のように優しいスヴェインの冷たい言葉に、びっくりして仰ぎ見ると、彼は心外そうに訂正した。
「いいえ。俺にとっての彼女は、嗜好品でも何でもない。だから、彼女の苦痛はわかりません。でも、あなたが望むのであれば、そうですね、記憶を消しましょうか?」
どうやら、アレックスを害したという事実すら理由ではないようだ。
「それは違うよ……」
「泣き止ませたいんじゃないんですか?」
「いつも一番汲み上げてくれるのに、こういうところで通じないんだ…………。わかった、取り敢えず眠らせるとか、意識を休ませてあげて。このままじゃ心がひび割れてしまう」
だが、一つ頷いたスヴェインが手を伸ばすよりも早く、
ユジィからエレノアを奪い取ったのはシュタイルだった。
スヴェインは進んで防ぐ気はなかったのか、鷹揚に進路を空けると、エレノアを取り戻そうと抵抗するユジィの腕を引いて反対側へ距離を取らせる。
「シュタイル伯!」
「これは私の嗜好品だ。壊れようと、私を憎もうと、私が正規の手続きで手に入れた品物。君達が手をかけるのは、お門違いではないかね?」
(……………え?)
シュタイルの声に蔑みはない。
だが当然のように人間が思う愛情もなく、そのシンプルさにユジィは困惑してしまった。
「…………それは、所有欲なの?それとも、歪んでいても愛情なの?」
シュタイルの腕の中のエレノアは、壊れた人形のようになっている。
淡い色のドレスが風に揺れて、こんなに傷付いていてもまだ無垢で可憐に見えた。
「おかしなことを。だから人間は無知なのだ。これは嗜好品。愛するのもまた、嗜好品としてではないかね」
「…………あなた達にとって、人間はそういうものなの?」
「よく似た姿であっても、違う生き物ではないか」
(そうだ。わかっていた)
ユジィもわかっていた筈だ。彼等の心は人間と同じようには動かない。
それでも近しければ近しい程、人間はそのことを忘れて期待してしまう。
よろりと後退した背中が、スヴェインの胸に当たる。
そっと背後から抱き締められて、怖々とその顔を仰ぎ見た。
「あなたも?」
縋るように見上げるユジィに、スヴェインは淡く微笑む。
「いいえ。俺はあなたに心そのものを奪われているので、シュタイルとエレノアの事例とはまるで違います。あなたを気に入っているラスティアも、俺と同じように少し奪われていますからね、彼のこともその分くらいは信用しても大丈夫ですよ」
(…………奪われる、)
彼が使う言葉の意味はやはり、甘い睦言のそれとは違う物理的な意味だった。
「あのとき、」
疑問と恐怖が顔に出たのだろう、スヴェインは腕の中のユジィに言い含めるように、しっかりと言葉を積み上げる。
「あなたの慟哭が、俺を殺して奪ったんです。あの力が、あの音が、俺を屈服させて支配したんですよ」
「…………じゃあそれは、あなたにとっては、とても不本意なことじゃないの?」
「今はあなた以上に、大切なものなんてないのに?」
「けれどそれは、無理矢理あなたが変えられてしまったからでしょう?」
「その経緯は、あなたが考える人間らしい恋情の理不尽さと何の違いもありません。あなたは、至極我々に見合ったやり方で、俺を手に入れたんです。人間として違和感があっても、俺達にはこれでいいんですよ」
違う感じ方をする、違う生き物だから?
「それよりも、今どうしたいですか?あなたはただ、俺に要求すればいい」
我に返って視線を戻した先では、エレノアを抱えたままのシュタイルがいる。
ユジィの子供っぽい質疑応答に付き合いながらも、スヴェインは同輩を逃さないだけの気を配っていてくれたのだ。
(どうするのが正しいの?)
エレノアの常識は、ユジィの思考とは多分重ならない。
(この場面の選択肢は、何が正しいの?)
確かにユジィの思考は柔軟で大雑把だ。
だからこそ、単純にこの場でエレノアを取り返すだけが、正しい選択肢だとも断言出来ない。
(歪んでいても、理解出来なくても、それでもシュタイル伯が向ける執着のどこかが、エレノアの助けになることもある?)
少なくとも誰かと繋がっているということだけが、救いになることもある。
それに、もしエレノアが、庇護の柱なくリベルフィリアに残されれば無事では済まされないだろうという可能性も無視できるものではない。
「シュタイル伯、私にあなた達の正しさや、心の仕組みはわからない。でも、エレノアを抱き締めてあげられる?もう傷付けないで、きちんと彼女と話してあげてくれる?」
「先の返答を聞いても、まだそう問えるのかね?」
「だって、私にはエレノアの正解もわからない。あなたの心がそうでも、そんなあなたの在り方で彼女が幸せになる選択肢がないなんて言えない」
必死に噛み砕いたら伝わったのか、シュタイルの目に微かな困惑が滲んだ。
「悪いものが全部、正しくないものじゃないかもしれないでしょう?」
「…………悪しきものか、」
ややあって、歪に笑うシュタイルの笑みに紛れたのは悔恨にも似た何か。
「清廉潔白で情深く、叡智に富んだ人間でありながら、私のことを悪しきながらに良き隣人と言った男がいた」
視線を落とし、片手で荷物のように抱えたエレノアを、ふと思い直したように両手で丁寧に抱き上げる。傷が痛んだのか、濡れた咳をひとつした。
「あの男も、君のように考える異端な人間だったのだろうか。もう、…………この手で殺してしまったので返事は聞けないが」
「シュタイル伯……?」
「道繋ぎ!」
「ユージィニア、決断を!」
逡巡の内に道繋ぎを呼ばれ、空間が歪みシュタイル伯を包み込む。
手を伸ばしかけて、ユジィは顔を歪めた。
(…………エレノア、)
「……………ごめんなさい、ヴェイン。私には決められない」
「ユージィニア?」
この選択がいつか、後悔の刃でユジィをずたずたにするかも知れない。
(…………でも!)
濃密な空間のあわいの霧に包まれてしまえば、2人を制止するのは困難だ。
「今離れたら、あの二人の縁も切れてしまいそうだから。それを切るかどうかを選ぶのは、エレノア自身だ。だから、私には選べない……」
悪しきものでも、欲しいかどうか。
アレックスへの恋情が壊れた今、それをお膳立てしておいても彼女を嗜好品として愛していると言う人外者が、彼女に必要かどうか。
(エレノア用の運命を、私の手で切り断つ勇気がなかった)
情けなさに声が裏返りそうになって、ふわりと抱き締められる。
その頃にはもう、シュタイルとエレノアの姿は空間の織に見えなくなっていた。
「あなたは、それもまた、選択肢として考えられるんですね」
スヴェインはひどく興味深げで、どこか愉快そうな面持ちを抑えている気がした。
「であれば、今はこの選択しかないでしょう。俺の判断で動いたところで、俺の常識や思考と、あなたのものは違う。俺ではあなたのように感じてやることは出来ない」
「ごめんなさい。彼は、気紛れに見逃すには高位過ぎる。私がここにいなければ、あなたはあなたの判断で、シュタイル伯を捕らえられたよね?」
「或いは殺したでしょうね。でも、そうしたいと思えば、それはいつでも可能ですから」
「私がもっと利口だったら、エレノアに正しいものを手渡せたのに」
(だって彼女は、あんなに傷付けられて、あんな風に泣いていて)
それでもまだ、シュタイルに期待してしまったのは、愚かなユジィだけだろうか?
「これで良かった。あなたはただ、彼女の意思を無視してでもあの手から奪還するような執着を、彼女には抱いていなかった。だから、あなたなりの中立で、彼女に選択肢を残してやったんです」
ただ、あやされているのかもしれない。
(ヴェインの心は、私が作り変えてしまったから?)
でも彼もまた、時には寄り添わない異端の生き物で、決して脆弱ではない。
「…………有難う、ヴェイン」
お礼を言うと、あまりにも嬉しそうにするのでぎゅっと抱き着いて保護者に寄り添うように素直に甘えてみた。その途端はなぜか強張った体が、すぐに強く抱き締めてくれる。
(うわ、嫌だったのかな?気を使って抱き返してくれていたらごめんなさい!!)
少し悩みそうになって表情を伺えば、彼の眼差しはひどく満足げだ。
一安心してからあらためて、ユジィは欠け残りの森をじっと見つめた。
恐らく、森が不穏な闇と冬らしい色彩を失い青々とした真夜中の色彩に切り替わるそこからが、件の領域なのだろう。
「ヴェイン、少し待っていてくれる?私、アレックスを迎えに行ってくる」
「………ユージィニア?あの森に囚われた者と出会うには、同じものがなければいけないんですよ?」
「うん。服でも鉛筆でも、同じものが揃えば出会えて、一人じゃなければ……と言うか、迎えに出会れば、出て来られるんだよね?」
言いながら考えて、片方の靴を脱いで差し出した。
少し手渡すには複雑な代物だが、他には対になっているものを持ってない。
都会育ちの足裏には多少我慢して貰おう。
「ほら、これで同じものだから、私が迷子になってもあなたが迎えに来られるでしょう?だから、そんなに難しい顔をしないで」
「ユージィニア、シュタイルが話したように、我々高位の人外者は、衣服の全てに至るまで己のアールで構成しています。王を見付ける為の用意は、誰にも出来ません」
心配そうなスヴェインの目を覗き込んで、心から安らかに微笑んだ。
「私なら持ってる」
「…………ユージィニア?」
「ずっと昔、私を庇護してくれた王様がいたの。私が武器になる前、この世界から、書の世界に連れ去られる前に。そのひとが、私に自分の心の半分をくれた。……アレックスだったの。だから、私の中には、アレックスの半分があるんだって」
昔むかし、おとぎ話の中のクリスマスの王様が差し出した、彼の半分。
それを護り、それを愛するもの。それに寄り添い、それを欲するもの。
(アレックスが、失ったもの)
「ああ、………彼が、かつて守護として己から切り分けた欠片か」
小さく呟いたスヴェインは、やはりユジィが使う力の一端がアレックスのものだと気付いていたのだろう。
風に揺れる前髪に、伏せられた瞳が隠される。
「だから大丈夫。一日経っても戻らなかったら、あなたが迎えに来て」
「…………困ったな。あなたは、俺の扱い方を覚えましたね」
お願いと決断を半分合わせにしてみたら、スヴェインは妙に複雑そうに苦笑してくれる。
「じゃぁ、行ってきます!」
決断が鈍らない内にと駆け出したユジィは、
保護すべき少女が裸足であることにも気が回らないくらいに、物思いに翳った庇護者の瞳を目にすることはなかった。