5.願い事の顛末 2
転移が嫌いなのには理由がある。
乗り換えの道筋で見た、あの薄闇の世界。
きっともうすぐアレックスに会えると、期待に胸を膨らませて落ちていった、あの世界に似ているから。
「…………それと、着地が絶望的に下手だから」
シュタイルの転移は上品で慎重だった。
よろめいて転倒したのは、ユジィの三半規管が元々脆弱だからだ。
視界を奪われて回されると、すぐに方向感覚をなくしてしまう。
「…………落ち葉まみれになっちゃった」
見知らぬ庭の一つ、その大きな木の根元に両手を広げて倒れている。
立ち上がろうとして、木漏れ陽が目に染みて両手で顔を覆った。
(頭の中、滅茶苦茶だ)
スヴェインがアレックスに拘束された。
(突然過ぎて、意味がわからない)
彼は執務を終えたら部屋に戻ると言っていた。
決して一人にならないで、連絡しろって。
(でも、その間に謀反を起こして捕縛された?)
そう考えかけて、ふと違和感を覚えた。
ユジィは反論する余裕もなく、何も確かめられないままここに投げ落とされている。
シュタイル伯は、エレノアの良い守護者だと思うけれど、ユジィにとっては見知らぬ人外者に等しい。
そんな相手の言葉を、善意であっても鵜呑みには出来ないくらい、
ユジィはもう、スヴェインのことを信用している。
(…………自分でなければ、アレックスを呼べって言ったんだ。ヴェインは)
それが、王を裏切る人の言葉だろうか?
誰かの手を借りるのであれば、ラスティアでも良かった筈だ。
(あの時、何かを言おうとしていた?)
様子がおかしいと思ったときに、引き止めて話を聞けば良かった。
視界を彩る紅葉の森は、軽薄な黄色っぽさのない深紅から琥珀色、濃緑のふくよかな色彩で胸の底まで鮮やかな色彩に染める。
「……………っく」
動揺していて、転移の名残でまだ胸がばくばくしている。
怖くて不安で、
だけど、抑え切れずに妙な笑い声が溢れた。
顔の筋肉が痙攣して、目の奥が熱くなる。
(私、何でこんなときに笑っているの?)
顔を覆った両手の指先が熱く濡れる。
(ううん。笑ってるんじゃない、私、泣いているんだ)
叫び出したいくらいに嬉しくて、
けれどその喜びを殺して余りあるくらい、声を上げて泣きたい。
「…………間違えてなんかいなかった」
エレノアの声が静謐に蘇る。
「それを護り、それを愛するもの。それに寄り添い、それを欲するもの」
自分の唇でなぞったら、今度はどうしようもなく泣けて、息が止まりそうになった。
(クリスマスの王様という本の中にも、全く同じ一節がある)
それは、クリスマスの王様が、大切な子供に差し出した彼の半分。
その意味するところなんて、たった一つしかないのに。
「…………嘘つきだ」
ここにはいない人を詰っても、今だけは許される筈。
この世界の誰よりも、ユジィだけが声を大にして彼に投げ付けていい言葉だ。
でも、ふっと息を吐くように深く微笑む姿が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
その鮮やかさのあまり、もうどこにも行けない過去が、今でも確かにここにある。
「私の大好きなアレックス」
一番大切な言葉をそっと呟いたら、あまりの狂おしさに胸が潰れそうになった。
(それを護り、それを愛するもの。それに寄り添い、それを欲するもの)
ああ、もういない。
(アレックスが、彼が私の大好きなクリスマスの王様だった)
だから、ユジィを救ってくれたあの人は、もうどこにもいない。
「そういうことか」
今度の声には絶望が滲んで、ひたひたと身の内を冷たい水で浸すよう。
やっぱり、あのクリスマスの王様に記された物語は不穏なものだった。
あの、胸を騒がせた一節に隠されたものの正体が、やっとわかった。
(あなたがかつて私に向けたものは、私に手渡され、もうあなたの中にはない)
あの言葉は、今のアレックスから失われたものの羅列。
だって、剥がれて書になっているということは、当人から失われいているということなのだから。
だから今の彼は、ユジィに嘘を吐くし、ユジィを容易く破滅させようともする。
(私を傷付け、私を愛さない)
寄り添わず、必要ともしない。
「私の、大好きな………」
声は微かな嗚咽に飲み込まれて、その名前は途切れてしまった。
彼は彼ではなくて、彼しかいなかったのに。
(でももう、失ってしまった)
おとぎ話のガラスの靴は砕けて、虹の向こうには行けなくて、赤い薔薇は散ってしまった。
記憶は記録に書き換えられ、悲劇を修復することは出来ない。
やっぱりここは、一度剥ぎ取られてしまった物語の顛末。
暫くして、ユジィはあえて大きな溜息を吐くと、涙が滲んだままの目元をごしごしと強引にこすった。
一度、袖についていたらしい落ち葉で顔をひっかいてしまって、静かに悶絶する。
そんな自損事故の後、
「でも、…………もう一度会えた。心の半分とやらを失くしても健やかそうだった」
言い聞かせるみたいに口に出しながら、胸を傷ませる息を吸う。
「そうだよね。これで充分じゃない」
嘘だ。悲しい。
でも、それだけに塗り潰されてなるものか。
他に大切なものが出来たのだ。
失望だけに心を曇らせてなんかやるものか。
(こんな諦め方も出来るって、私にそう教えてくれたのはアレックスだ)
石炭として付き従い、彼が自分を必要としないという事実と毎日向き合ったあの日々。
あのがらんどうの怖さを乗り切って、穏やかな諦めを受け入れた後の今である。
それに、ただの人間であるユージィンの懐は狭い。他にも大切だと思うものを抱え込んだ今、かつてのように、アレックスだけを慕い愛するのは難しいだろう。
そして、ユジィはもう、あの頃の小さな子供ではないのだから。
大好きだった保護者の手を離れた場所で、大切なものをもう見付けた。
だから、アレックスの為だけに、ここでぐずぐずと悲嘆に暮れたりしない。
(この世界で、あの優しい物語を私の本物の過去として持っていられる。それだけのことでもう、私の願い事を成就させよう)
ほろ苦い歓びだが、時が流れれば変わるものもある。
自分を愛さなくなった彼でも、大切だと思う気持ちまでを失うわけではない。
大切なものがあるという恩恵は、存分に素晴らしく、それだけで充分ではないか。
「そっか、私の願い事はもう終わったんだ…………」
はぁ、と息を吐けば、体から力が抜けた。
久し振りに珍しい感情をたくさん動かしたので、何だか少し疲れたと思ってしまうのは、自分が大雑把な感性の持ち主だからだろうかと考えて、妙に情けない気分になる。
木々のざわめきに耳を澄まし、揺れる葉影に横たわっていてから、ようやく思考を蘇らせた。
「……………ヴェイン、本当謀反なんて起こしたのかな?」
(不調の気配もないアレックスの、半分とやらを返すのはいつでもいいとして、まずはヴェインが拘束されているならそっちだわ)
現実を飲み込めば、思考は冷静に切り替わる。
満願成就の喜びも切なさも息を顰め、
取って代わったのは、身の内のひとを傷付けられた怒りのようなものだった。
(ヴェイン、…………大丈夫だよね?)
拘束が、どういう体で成された処置なのか、
アレックスと彼との間にどれだけの力の差があるのかわからない。
どうもこの状況には違和感があるけれど、人外者は酷く現実的な部分がある。
そこを突く形で、暫定策の起死回生、取り敢えず彼の身の潔白を証明するならば。
(…………本物の裏切り者を見付けなくちゃ)
秘密の多さ以上に多くのことが共有されてしまうこの城だけど、この筋書きを用意した者には、知らないことが幾つもある。
(ラエドの主人はスヴェインじゃない。だって彼は、私に名前よりも多くのものを契約の中で渡してしまっていて、そこには決して私を損なわないという条件も含まれている)
であれば、彼が道具であるラエドを使い、ユジィを傷付けることなんてことは、到底不可能なのだ。
武器は部下ではない。
我欲を反映せず、自立性の高い道具という特性を持つ以上、その行いには主人の命が必須となる。
だから、スヴェインが、それを乗り越えてユジィを傷付けようとすれば、自ら交わした守護契約に引っかかってしまう。
(それに、あの礼拝堂での私とラエドの会話を知っているのは、アレックスしかいない)
「……………む?」
そこまで考えたら、こんなにも理由が成り立たない状態で、スヴェインを拘束したのは、果たして本当にアレックスなのだろうかと疑問に思った。
(私とラエドの会話を聞いて、それでも私が、仕込まれた武器だと思う?)
或いはユジィには疑問をかけていないのだとしても、
あんなことを言っていた人が黒幕を容易く拘束するだろうか?
(今朝の段階で、あんな遊ぶ気満々のことを言っておいて?)
であれば、これはどういう場面なのか。
(ラエドは武器で、私も武器だ。スヴェインを拘束するのが、きっと一番わかりやすい)
そこまで考えてから、酷く頭の痛い事実を思い出してしまった。
「…………そう言えば、私を餌にするって宣言されてたんだ」
どうやら、スヴェイン諸共弄ばれている可能性が出てきたようだ。